高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和38年)
中3東北修学旅行②
 (「中3東北修学旅行」から続き)(『松島・平泉・仙台の旅』「西中生徒新聞昭和38年6月20日」(西那須野中学校生徒会、1963年))。

 修学旅行2日目の朝食前に旅館近くの塩竈市魚市場で取引の様子を見学している。
塩竈市魚市場

 塩竈市魚市場は宮城県塩釜市港町一丁目にあった塩竈市の水産卸売市場。元々商業港だった塩竈市での漁獲物水揚げ量増加に対応するため宮城県によって建設され、1929年に開設した。開設当時は鉄道と直結する水産物市場として有数の規模を誇った。
 1963年ころは、8,343㎡の敷地に鉄筋スレート造の水産処理場や水揚げ岸壁、貨車ホームなどの施設を備えた。水揚げ量に占めるサンマの割合が高かったのも特徴である。
魚市場空撮塩釜市魚市場跡
 魚市場は1965年に移転した。建物は現存せず、塩釜港旅客ターミナルや駐車場などになっている。

 国鉄(現・JR東日本)・塩釜駅─(東北本線)─一ノ関駅
塩釜駅地図塩釜駅
 一ノ関駅からバス5台に分乗し、毛越寺へ向かった。

塩釜駅から一ノ関駅まで

○ 平泉について
 平泉と言えば、日本史の興味深い一こまが思い出される。
 奥州藤原氏がここを本拠地として3代が100年の繁栄の夢を残した。しかし蝦夷豪族の勢力を受け継いだ藤原3代も、源頼朝の新しい武家政治の体制に屈服した。
 それから800年経った。
 奥羽の富を集めた平泉も、今は貧しい一村にすぎない。しかし幸いにも保存されてきた藤原3代の史跡が私たちに昔を語っていた。
 私たちは、奥州藤原氏の人間、また生み出した環境、彼らの史跡を知るのが私たちの目的だったと思います。

毛越寺

 毛越寺は岩手県平泉町平泉大沢にある天台宗の寺院である。鎌倉時代には多くの堂がある大きな寺院だったが、1226年の火災と戦国時代1573年の兵火で消失した。1954年から5年間の発掘調査で当時の遺跡が確認された。
毛越寺の門南大門跡
 まず毛越寺(もうつうじ)は、二代藤原基衡が建てた寺である。ただ、今は毛越寺南大門の跡あるにすぎない。ここは七堂伽藍の正門で、二階総門の堂々たる建物で、鳥羽院の勅額「金堂円隆寺」が掲げられてあった。今は礎石12を残し、当時の壮大さを物語っていた。
 また大泉池は、塔山背景に3万余坪の園林に、七条楼閣が建ち並んで大泉池にその影を写したことであろう昔の盛観は今もしのばれる。
金堂円隆寺跡大泉が池
 また俳聖・芭蕉が元禄2年、平泉を訪れて「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと笠打敷きて時のうつるまで涙を落しはべりぬ」。
 「夏草や兵どもが夢の跡」
と詠嘆した真筆一句が刻まれている。

 現在の本堂は1989年に再建された。
 松尾芭蕉は現在の毛越寺付近を実際に訪れてはいないとみられている。「夏草や…」の句は広く平泉の風景について詠んだものである。
 修学旅行の一行はこのあとバスで中尊寺の入口にあたる月見坂まで移動している。

中尊寺

 中尊寺は岩手県平泉町平泉衣関にある天台宗の寺院である。奥州藤原氏の初代・藤原清衡が1105年から創建し、このうち金色堂は1124年に基本構造が完成している。
 平泉中尊寺は、藤原清衡、基衡、秀衡の3代が栄えた。
 平泉は秀衡が建てた後、田畑になって、金鶏山だけが形を残している。芭蕉が書いた平泉は、今から860年前、藤原3代が、京そっくりの都、文化を作り上げた、しかし源氏の白旗、白河の城下に翻るや、その勢いは秋風が木の葉を払うように、前9年、後3年の役で三代は終わりを告げた。今は、ただ金色堂、経蔵が当時の面影を残していた。
武蔵坊弁慶の墓中尊寺月見坂
 中尊寺の入口の坂下の広場の中央に柵に囲まれ弁慶の松があり、その根元に古い石塔があり、弁慶の墓と伝えられている。俳人、素鳥の句碑がある。
 「色かえぬ松のあるじや武蔵坊」
 表参道をつま先登り、月見坂を登る両側に、古木の杉並木が連立して、東北の名刹(めいさつ)、中尊寺を印象づけていた。

金色堂

 金色堂は俗に光堂とも呼ばれ、清衡が15年の歳月を費やして工事したものである。宝形造・三間四方・単層、木瓦ぶき、内側、外側屋根瓦に至るまで黒漆を塗り、その上に金箔を押したものであった。金色堂の朽廃をおそれ、鎌倉時代に正応元年(1288)に覆堂(ふくどう)が建てられた。
金色堂経蔵
 この金色堂を芭蕉はこう歌った。
 「五月雨の降残してや光堂」
 金色堂の内部は、中央および左右後方に3つのしゅみ壇を構え、それぞれ壇下には、初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体が安置されている。また秀衡の子、忠衡の首も安置されている。
 内部の華麗なことは、柱、はりに螺珠玉をちりばめ、要所に金銅の金具を付し、中心に玉をはめたもので、浄土表現において世界最高とも言うべきである。幸い、僕たちの行った時は覆堂が取り外され、金色堂そのものが見られたのは本当に良かったと思った。

 見学当時、金色堂は金ぱくが失われており、解体修理の準備に入っていた。覆堂も工事中で、1965年に現在の鉄筋コンクリート造の建物が完成。1968年に東京で復元作業が済んだ金色堂が収められた。
 松尾芭蕉は1689年6月29日(旧暦5月13日)に中尊寺・金色堂を訪れている。

 次に経蔵は、初代清衡公が天仁元年中尊寺の一部として建立したものである。
 経蔵には三代が奉納した一切経3部が納めてあり、初代清衡公の金銀一切経、二代基衡公の金泥一切経、三代秀衡公の宋版一切経である。当時は2万巻もあったと言われるが、2階造り瓦ぶきであった経堂が、建武4年、野火により2階が焼けた時に焼失あるいは散逸して、現在は2,800余巻しか残っていない。この一切経は1,000人の坊さんが8年かかって作ったと言われている。
 讃衡蔵(さんこうぞう)は、中尊寺山内に残る重要文化財を収め、後世に守り残すために作られた蔵である。そこには「三体の仏像」、金剛界大日如来、閼伽堂(あかどう)釈迦如来、峯薬師如来、また一字金輪大日如来などが安置されてあった。また、金色堂の再建のために3遺体の上にあった仏像32体が一緒に安置されてあった。藤原4代の棺内遺品があった。

 1950年、金色堂にあった藤原四代の遺体に対する学術調査で、中尊寺は全国的な脚光を浴びた。
 現在の讃衡蔵の建物は2000年に新築された。

 昔の面影今はなく、田畑が広々と広がり、ひっそりとした、一農村平泉。太陽の下に、地面の下に、藤原三代いや四代の文化は静かに眠っている。

平泉記念撮影ポイント

 高野悦子は、平泉のハイライトである中尊寺金色堂の前で3年3組の記念写真に写っている。背景には工事中の覆堂付近に仮設の建物が見えている。高野悦子は最前列で写っている。
平泉記念撮影ポイント平泉での写真
 バスと列車で国鉄・仙台駅へ向かい、仙台駅からバスで旅館に到着した。3年1組、2組、3組の3クラスは旅館に先着している。

○ 旅館で
 汽車の都合で全員が旅館に着いたのは7時過ぎになってしまった。外出もできないので残念だと思っていたら、先生が「レクリエーションをやる」とおっしゃったので大騒ぎになった。班対抗でご褒美が出るというのだから全員一生懸命である。
 トップを承ったのは1組女子のファッションショー。奇妙な服装が飛び出して大笑い。新聞の服じゃ雨の日が心配になりました。
 ツイスト、歌、タップダンス、そして校長先生の踊りなど、日頃取り澄ましていた友達も、すっかり本性を現して、おなかを抱えて大笑いの連続でした。

 ※記事の引用は原文に忠実にしながら、誤字・当て字等の修正、若干の表記の手直しを行った。注は本ホームページの文責で付した。

 平泉の観光はJR平泉駅前を起点として徒歩やレンタサイクルでできるが、町内の各名所を回る巡回バス「るんるん」の1日フリー券利用も便利である。毛越寺、平泉文化遺産センター、中尊寺などを結んでいる。
巡回バスるんるん
 (「中3東北修学旅行③」に続く)

高野悦子「二十歳の原点」案内