高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和38年)
中3東北修学旅行③
 (「中3東北修学旅行②」から続き)(『松島・平泉・仙台の旅』「西中生徒新聞昭和38年6月20日」(西那須野中学校生徒会、1963年))。
○ 仙台市見学
 5台のバスに分乗した私たちは、ガイドさんの説明を聞きながら、まず競技場を見学しました。西中の野球場しか見ていない私は、広いこととスタンドの立派なのに驚きました。

宮城陸上競技場

 宮城陸上競技場は、仙台市原町南目生巣原(現・宮城野区宮城野二丁目)にあった宮城県の陸上競技場である。国体の開催に備えて1952年に完成した。
宮城陸上競技場仙台市陸上競技場
 2009年から仙台市陸上競技場になっている。

仙台城跡
仙台市周辺図仙台城本丸跡
 そこではすぐバスに乗せられてしまい、目的地・青葉城へ向いました。荒城の月で有名な所だというので、お城を想像して行ったら、石垣しか残っていなかったので少し残念でした。山の上に築かれた要塞だけあって、バスから降りてみると、市全体がよく見渡せました。ガイドさんの案内で荒城の月の碑を見たり、伊達正宗の銅像を見たりしました。
仙台市中心部の眺め伊達正宗騎馬像
 ガイドさんは、この銅像の右の眼をウインクしているなどと言って笑わしていましたが、伊達の殿様として勇名をとどろかしたこの人をもう一度仰ぎ見ると、何となく圧迫されそうな、また勇ましい気持ちが湧いてくるのでした。

 仙台城跡には江戸時代の建物は残っていない。現在ある脇櫓は1967年に復元されたものである。
 戦時中に撤去された伊達正宗騎馬像は1962年に再建されていた。伊達正宗は幼少時に右目を失明し、後世「独眼竜」と呼ばれたが、騎馬像では両目を開いている。
 仙台城跡は東日本大震災の地震で石垣が崩れるなどの被害が出た。

仙台城跡記念撮影ポイント

 高野悦子は、仙台城本丸跡にある昭忠碑の前で3年3組の記念写真を撮っている。当時の付近は現在ほど木々が茂っておらず、塔の先端に、金鵄(きんし)と呼ばれるトビをモチーフとしたブロンズ像がはっきり見えている。高野悦子は最前列で写っている。
仙台城跡記念撮影ポイント仙台城跡での写真
 昭忠碑は東日本大震災の地震で金鵄が落下した。

野々村さん撮影ポイント

 仙台城本丸跡にある「荒城の月」(こうじょうのつき)の歌碑の前で、野々村さんが高野悦子を撮影した。写真の向かって右に倉橋さんも一緒に写っている。
「荒城の月」の歌碑野々村さん撮影ポイント
小学校同級生・野々村さん「憧れの人、高野悦子」

 「荒城の月」 は土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合しているのが特徴。土井晩翠(どい・ばんすい、1871-1952)は仙台ゆかりの詩人で、歌詞は仙台城がモチーフになっている。
歌碑の碑文 荒城の月の歌碑は1952年に教え子など有志の後援会である晩翠会によって建てられた。碑文は以下の通り。
 荒城の月
春高楼の花の宴(えん) めぐる盃(さかずき)影さして
千代の松が枝(え)わけいでし むかしの光いまいづこ
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいづこ
いま荒城の夜半(よわ)の月 変はらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら 松に歌ふはただ嵐
天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなほ ああ荒城の夜半の月
 晩翠

 JR仙台駅から仙台城跡の往復には路線バスもあるが、仙台市営バスの循環バス「るーぷる仙台」も利用できる。クラシックな車内の雰囲気を味わえ、専属運転手の車窓ガイドも楽しい。
るーぷる仙台
 首都圏から週末を使って松島、平泉、仙台などを鉄道で周遊する場合、JR東日本が発売する特別企画乗車券(おトクなきっぷ)の「週末パス」を利用すると運賃が安上がりになる(2014年7月現在)。ただし当日の購入はできない。
週末パス

○ 帰り
国鉄仙台駅
 2泊3日の楽しかった旅行も終わり、今は家へ帰るばかりだ。帰りの汽車の中は来る時と同様あまり混んでいなかった。だが帰りとなるとみんな黙って口の中だけがもぐもぐしている。仙台を出発した時の汽車の窓から見た田畑は耕地整理がしてあって碁盤の目のようにきれいだったが、福島、郡山と来るにつれて段々畑が多く、山がたくさんあることをよく表している。
 白河を過ぎ栃木県に入った時、何だか急に家が恋しくなり、早く家に着きたいという気持ちで胸がわくわくしてきた…今まで雨が降っていたが、黒田原近くではすっかり雨が上がった。
 東那須野を過ぎて、ついに西那須野に着いた。家の人たちがたくさん迎えに来ていてくれ、みんな元気だったので安心したらしい。校長先生の話を聞いて解散した。楽しい2泊3日の修学旅行だった。

 東那須野駅は1982年、東北新幹線開業に伴い那須塩原駅に改称した。
 ※記事の引用は原文に忠実にしながら、誤字・当て字等の修正、若干の表記の手直しを行った。

 高野悦子の中学3年生当時の担任の三木先生は「中三の修学旅行の時、旅行寸前にわたくしの不注意から高熱で倒れ、旅行の前々日は平熱になり、引率を校長に願い出たのですが、許されず、生徒達にあやまりながら、松島の旅を見送りました。
 旅行後の感想を書かせた時に、生徒達からたくさんの不満の声がありました。「先生が行かなかったので楽しくなかった。代りの先生が行っても、ただついているだけでつまらなかった。」など……。
 その中で彼女は、こう書いていました。見学地の様子、旅館での夜の楽しかったなど、そして、先生方が、列車の中、見学地、宿泊の部屋で、「元気か?気分の悪い者はいないか?グッスリ寝ろよ。」など声をかけてくれて、楽しい旅行ができました。と、彼女の細やかな気くばりに、わたくしの心はいやされ、先生方への感謝の気持でいっぱいでした。
 「楽しい旅行ができました。」この時彼女から何よりの土産をもらいました。中学最終の学年の旅立ちのため、ひとりひとりの生徒達に心の支えになるよい思い出をたくさん作り、楽しかった学校生活にしてやりたいと、強く思ったものでした。
 修学旅行のみんなのプレゼント、悦ちゃんが選んでくれたという、静御前のこけしが、彼女と重なりあって時折り語りかけ、語りあっています」
(『第18回卒業生 高野悦子』「萌 西那須野中学校50年の軌跡」(西那須野中学校、1997年))と振り返っている。

 私は倉橋さんを誠の親友として三年生という期間を過していきたい。
 転校生という荷をせおっても
 いつもあかるく楽しい
 現代的な女性
 倉橋さんは、4月に栃木県宇都宮市から西那須野中学校に転校してきた女子生徒。日記の記述で後出する「美紀子ちゃん」は倉橋さんのことである。
 修学旅行では高野悦子と一緒にいる時間が多かった。
 西那須野中学校の生徒たちにとっては当時、宇都宮からの転校生は“都会から来た”と扱われたとされる。
☞1964年1月1日「四月の?日かに美紀子ちゃんが転校してきた」
高野悦子「二十歳の原点」案内