高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年10月12日(木)
 晴

 京都:晴・最低12.5℃最高26.5℃。

 私に初めて連帯感が生まれた。
 部落研が一部学友会(民青系)とともに「同和教育推進のための連続大講演会」を10月11日(水)から14日(土)までの各午後4時半から広小路キャンパスの存心館16号教室で開いた。12日(木)は「教育現場からの報告」として部落問題研究所所員の京都府立朱雀高等学校教諭が講師を務めた。

 飯島さんが「部落研の活動やっててどうや」ときいた。

☞1967年12月13日「中学生会議のあと、飯島さんや英ちゃん、剛ちゃんを中心に」
部落研

1967年10月14日(土)
 デモは一つの社会的行動です。どんな立場でどんな考えで行動をするのかを決意しよう。
 府学連集会の中で、終りが近づくにつれ、デモが近づくにつれ、
 しかし、どうにか気を持ち直して統一行動をした。

 デモ以下の記述は、直前の「十二日に初めてもった連帯感」のくだりとは別のことである。

民青系府学連統一行動 民青系府学連による反戦統一行動の集会が、10月13日(金)午後3時から立命館大学広小路キャンパスで開かれた。
 集会ではアメリカのベトナム侵略反対・ベトナム人民支援などの決議をしたあと、約300人が河原町通から四条通をデモ行進した。
高野悦子が参加したのはこの集会・デモである。
☞1967年10月15日「十三日の統一行動のようではならないと思う」

 一方、京都府学連(反民青系)、京大全学共闘会議(同)、京都反戦青年委員会による「山崎君虐殺に抗議する」反戦青年委員会全国統一行動の京都集会が、10月13日午後6時から京都市役所前で開かれ、学生や労働者ら約500人が参加した。反戦青年委員会は主にベトナム戦争反対を掲げた労働者の団体。
 集会ではベトナム戦争反対・山崎君虐殺抗議などのスローガンを採択したあと、円山公園までデモ行進した。

 山崎博昭(18)は京都大学文学部1年生で、10月8日(日)にあった三派系全学連による佐藤首相ベトナム訪問阻止の羽田闘争で、東京・大田区の弁天橋における警視庁機動隊との衝突の際、死亡した(羽田事件)。死因をめぐって警視庁は学生が警察から奪って動かした警備放水車にひかれた事故と判断、これに対して遺族側は機動隊員による暴行を受けたためと主張した。

山崎君死去を報じる立命館学園新聞 三派系全学連(マル学同中核派、社学同、反帝学評)が中心だったが、羽田周辺では別に革マル系全学連、構造改革派の学生もそれぞれ機動隊と衝突するなどしていた。一方で民青系全学連は組織としては加わらず、共産党が同日に多摩湖畔で行った「赤旗祭り」に参加していた。
 山崎の死は60年安保の樺美智子と同じ学生運動における犠牲者として当時の学生や若者の間に衝撃が走った。ただ「樺美智子に対するような、広範な同情と共感を呼び起こすことがなかった。60年安保闘争時と比べての学生運動の孤立化、先鋭化の影響をそこにみることができる」(高木正幸「新左翼三十年史」(土曜美術社、1988年))ともされる。学生側にヘルメットと角材姿のグループが公然と登場したのはこの時が最初と言われている。

 山崎が京大生のため、地元・京都でも追悼の動きが相次いだ。
 立命館大学では10月9日(月)、一部文学部自治会(反民青系)主催による広小路追悼抗議集会などが開かれる一方で、一部学友会(民青系)は「分裂主義者の挑発行為で、学生運動に悪い影響を与える」と位置付けて対立した。
 三つの全学連☞1967年4月22日

1967年10月15日(日)
 快晴

 京都:晴・最低11.1℃最高23.0℃。ほぼ終日、快晴だった。
 この日は日本史学専攻のクラスで京都・大原へのハイキングという行事があったが、高野悦子は参加しなかった。

 きょうは、マツにおくるノートを書いた。

 マツは宇都宮女子高校当時の同級生。
☞1968年3月17日「マツ(高校時代の友達松岡和子さん)に会い、話し込む」

 そして書いているうちに十・二一ストの近づくのがこわくなってきた。
 十・二一☞1967年10月23日
高野悦子「二十歳の原点」案内