高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年11月30日(木)
 雨
 京都:曇時々雨・最高15.7℃最低9.6℃。午後3時ごろに雨が上った。

 情熱的なフラメンコギターにひきつけられてしまった。
 NHK-FM午前8時05分~9時00分:朝のリズム「エル・コンケーロ」「夢の中に君がいる」ほか。

 チョコフレイク、さきいかを買ってきて食べたり……
 森永チョコフレークは、コーンフレークにチョコレートをかけたスナック菓子。森永製菓が1967年に新発売した。

 牧野さんのこともあるので電車に飛び乗った。
☞二十歳の原点1969年2月6日「酔いながら牧野さんのところへいく」
京阪京津線

 存心館31での体育の授業に出て、ワンダーフォーゲルのPRスキーを牧野さんの分と二人分申しこんだ。
 体育の授業時間は午前10時40分~午後0時10分(第2時限)である。
ワンゲル部
 PRスキーとは、ワンゲル部が開いた部員以外も参加できるスキーイベントのことをいう。

 近代史サブゼミ、部落研学習会とやることがあったけど、「雨の三千院」に出かけた。

 サブゼミとは授業時間以外に行なうゼミの意味で、教員が行う場合と学生だけの場合がある。ここではプロゼミを補足するために行っている。
☞1967年5月24日「今日のプロゼミと」

 三千院は京都市左京区大原来迎院町にある天台宗の寺院である。「叡山の別院として貞観年間に承雲が叡山南谷に創建したもので、応徳3年(1086)に大原に移り、その後も寺地を変えたが、応仁乱後ふたたびこの地に戻ったという。いかめしい塀に高い石垣をめぐらした有様は、山寨を思わせるかまえである」(林屋辰三郎「京都」岩波新書(岩波書店、1962年))
 男性ボーカルグループ、デューク・エイセスのヒット曲「女ひとり」(1966年、東芝音楽工業(現・EMIミュージック・ジャパン))の歌い出し「京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり」は、あまりにも有名。
 大原は訪ねたが、三千院には立ち寄っていない。

 すてばちな気持から、きた電車に飛び乗り、それが「たかのゆき」だったので、
 飛び乗った電車は京都市電13系統(四条河原町─洛北高校前─高野)の高野行である。
 終点の電停「高野」が方向幕ではひらがなで「たかの」と表示されていた。京都市電では漢字2文字で発音が短い行先を方向幕ではひらがなで表示する慣行があった。「たかの」以外にも「ぎおん」「いなり」などがある。
存心館から府立病院前電停府立病院前から高野
 府立病院前電停─高野電停

 終点でおりて修学院あたりをぶらつこうと思ったけれど、駅前のひょいと目についた喫茶店に入って一時間ほど粘った。
当時の高野電停現在の電停跡

 目に付いた喫茶店はフジとみられる。
フジ
 フジは、京都市左京区高野東開町の喫茶店である。1965年10月オープンで現存する。
電停と喫茶店フジフジ外観

 大原の野に出かけ、たそがれの寂光院に行ってきた。
高野から大原

 高野橋東詰バス停─大原バス停
 大原までは当時、京都バスと京都市バス(62系統)の両方が路線を有していた。現在は京都バスだけが運行している。
 大原は京都市左京区の北東部にある。
 「京洛の東北は、貴族の別業地というよりも、天台三千坊といわれる延暦寺の勢威が、つよく影をやどしているところであった」「大原に入ると、そこはいっそう山麓にちかく、おのずから仏土のおもむきが加わってくる」(林屋辰三郎「京都」岩波新書(岩波書店、1962年))
 京都の市街地から大原までを結ぶ府道京都大原今津線(現・国道367号)はその後整備が進んだ。

 この大原・寂光院についての記述は、「二十歳の原点序章」において最も美しく情景を描写している文章と考えられるので詳細に見ていくことにする。
大原バス停からのルート
 大原バス停が移動しており、寂光院までのルートは現在と大きく異なっている。
1967年当時の近道ルート現在の近道ルート
 高野悦子が往路で歩いたのは1967年当時の近道であり、日記の記述と符合する。

 一方で「二十歳の原点序章」単行本(新潮社、1974年)が発刊された時には、すでに大原バス停は移動しており、現在の近道が寂光院への主なルートになっていた。このため大原や寂光院を初めて訪ねてみた読者の大半は勘違いしたと思われる。
 なお現在の近道は1967年当時も存在したが、主に三千院と寂光院を直接結ぶルートとして利用されていた。

 「大原」の停留所を降りたのが四時半ごろ。
 大原バス停は当時、京都市左京区大原大長瀬町の旧・敦賀街道にあった。
当時の大原バス停と近道大原バス停跡
 高野川沿いに京都府道京都大原今津線の新道(現・国道367号)が整備されてバスの経路となり、大原バス停は現在の位置に移った。

 「近道」と書かれた道標に沿って一人で歩いていくと、
 大原バス停を降りると道路向かって左側(①)に「寂光院近道」という道しるべがあり、そこから崖を下る急な階段があった。
 地元の人の話では、この近道は向かって右側に当時あった食料品店(いわゆる茶屋)「ますや」が維持・管理していたものだったという。階段の跡は残っているが、現在は生垣で通行できなくなっている。
近道道しるべ跡近道入口跡
 階段は坂道に通じ、さらに梅宮神社前(②)を過ぎて続く。
階段跡梅宮神社
 付近の状況について古い紀行文では「私は停留所前の茶店の賣子に教へられるまま、停留所すぐ前の坂道を下って細い間道をぬけ、田の畔道をひとり歩んで行った」(石井千明『寂光院の秋』「新文明昭和31年10月号」(新文明、1956年))、「車を降り「寂光院近道」のま新しい道標に導かれて、ほの暗い崖っぷちの急な階段を下る。木立ちの繁みにさえぎられた日の光りがそこここに斑点を作っている。細い坂道を下ると、パッと急に眼の前が明るくなる」(桂史子『洛北の清境・寂光院を訪う』「大世界昭和31年9月号」(世界仏教協会、1956年)と記録されている。

 水の音が近づき、朽ちかけた木橋が竹林に向ってかかっている。
 水の音は高野川である。新道(現・国道367号)は開通していないため、横切ることなく細い道が続いていた。当時の高野川の木橋を渡る地点(③)は、現在の梅の宮バス停(北行)から下に降りた付近とみられる。
国道367号梅の宮バス停北行
 今はコンクリートの擁壁になっているため、川岸に直接行くことはできない。
木橋を渡る地点跡木橋跡

 あたりはもうほの暗かったが竹林をぬけると視界が開け、稲刈りのすんだ田んぼが見渡せた。
 木橋は、架け替られた後の橋(役場橋)より北東に位置し、当時は川の土手に深い竹林があった。
木橋付近空撮役場橋との位置関係
 視界が開けてからは田のあぜ道を通った。最近になって直線の農道に変わっている。
竹林を抜けた地点稲刈りの済んだ田んぼ

 観光客らしい二人連れがおりてきた。
 二人連れが下りてきたのは、あぜ道から寂光院への道(現・京都府道108号草生上野線)に入った地点である。
 振り返って見えた民家の明かりは、当時の旧・敦賀街道の大原バス停付近の住宅である。
二人連れが下りてきた地点振り返った山影と民家

 私はいいようのない淋しさと心細さを感じながらも、また寂光院へ歩を向けた。
 付近には「左寂光院」の道標がある。この道標は1909年に建立された。また現在は京都市の案内板も設置されている。
左寂光院の道標現在の京都市案内板

 なおも暗い坂道を登っていく。
往路の道筋暗い坂道付近

 乱れ積みの石段を踏みはずさないように歩いていくと、立て札があった。
 この石段の雰囲気は当時と全く変わっていない。
寂光院の石段立て札があった付近

 入口に立つと案内人らしいおばさんがちょうど門を閉めにきたが、
寂光院

 寂光院は、京都市左京区大原草生町にある天台宗の寺院である。「大原御幸で知られた寂光院のあることは、いまさらいうまでもない。ここもまた寂光土を思わせる庵室であったのであろう」(林屋辰三郎「京都」岩波新書(岩波書店、1962年))。紅葉の名所であるが、高野悦子が訪れた時にはピークを過ぎている。
 当時の拝観料は100円、拝観時間は午前9時から午後5時までだった。
寺の門当時配布のパンフレット
 平清盛の娘で、安徳天皇の生母である建礼門院徳子が、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り、尼となって余生を送った。「平家物語」の「大原御幸」の段では1186年、後白河法皇が寂光院に徳子を訪れる様子が描かれ、平家物語を締めくくる諸行無常のエピソードになっている。
 本堂は室町時代に建立後、1599年豊臣家により改修されたものだった。
 しかし、2000年の放火で焼失し、現在の本堂は2005年6月に再建されたものである。
現在の本堂

 帰途は、東京からきたという二人の人といっしょに、真暗な山道をおりた。
 帰り道は、基本的に現在の近道を通ったとみられる。
寂光院から大原小学校前バス停帰途の道
 東京から来た二人が現在の近道のルートで三千院から寂光院に来て、その道を戻る形だったと考えられる。
高野悦子「二十歳の原点」案内