高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和43年)
1968年2月2日(金)
 寒波がきていて寒い

 京都:曇後時々雪・最低1.3℃最高10.1℃。夕方から雪が降り始めた。

 それで三浦さんのことを考えた。
 産社や生協のBoxに行ったり、

 三浦さんは産業社会学部1年生の男子。三浦さんと西山さんは生協活動を通じた友人関係にあった。
☞1967年11月16日「生協運動についても知りたい」

 具体的にいえば、哲学の本を読むことは私の学生であるということが存在することであり、

 哲学の本を読むとは一般的な読書ではなく、2月5日(月)の試験に向けた勉強のことを指している。
後期試験

1968年2月3日(土)
 私は私の存在を否定したようだ。

 前日の記述と合わせて、この日も哲学の試験勉強をしなかったことを意味している。

1968年2月5日(月)
 晴 立春

 京都:晴・最低-2.4℃最高8.6℃。

 「生物」と「哲学」の二科目の試験がある。「生物」は放棄。

 3時限にある生物学の試験を受けなかったため、2時限にある哲学の試験が終わる正午には大学を出られたことになる。
☞1967年4月17日「哲学の船山先生」
☞1968年1月13日「大村さんと「生物」「文学」をうける(偶然)」

 三条まで歩きながら
大学から三条まで歩く 立命館大学広小路キャンパス─京阪・三条駅。歩いたのは河原町通と三条通である。

1968年2月6日(火)
 晴

 京都:晴・最低-2.7℃最高9.3℃。

 後期試験の総括

 社会科学概論=教授・細野武男
 英語(枡田)=助教授・枡田良一

 芸術学=教授・梅原猛
 経済学=講師(京都大学助教授)・瀬尾芙巳子
 文学=教授・本野亨一
 哲学=教授・舩山信一
 生物学=教授・菊池立身
 自然科学概論=講師(京都大学教授)・四手井綱英
 人類学=助教授・佐々木高明
 法学=講師(同志社大学教授)・八木鉄男

☞1967年11月23日「枡田先生の皮肉めいた英語の授業に出席した」

1968年2月7日(水)
 前日、眠っているときにきたのは谷崎さんだった。

☞1967年11月25日「その後谷崎さんと喫茶店で話していて」

 でも嵐山の牧野さんのところに遊びに行こうかなと思っていたので、

 京阪山科駅-(京阪京津線)-三条-(京阪本線)-四条駅(現・祇園四条駅)…阪急・河原町駅(現・京都河原町駅)-(阪急京都本線)-桂-(阪急嵐山線)-松尾駅(現・松尾大社駅)
山科から牧野さんの下宿

 彼女のプロフィール

眼鏡を笑った短大生・大山さん「高野悦子さんと原田さんの下宿」

 家にあったというマイクロテレビが卓上にラジオといっしょに並んでいた。

 当時のマイクロテレビとは、操作部やアンテナなどを一体化した小型・軽量のポータブル白黒テレビをいう。製品としては1960年代前半から存在している。

1968年2月10日(土)
 九日 朝、目をさまして窓をあけたらびっくり、一面の銀世界。空からは絶えまなく白片が。

 2月9日京都:晴時々雪・最低-3.7℃最高5.8℃。この冬最高の積雪となった。
 京都は2月9日(金)「朝、寒波がぶりかえし、ビルも道路もすっぽり雪化粧におおわれた。午前7時ごろから降りはじめた雪は、京都の市街地で5センチ」「最低気温も京都では平年より約3度低いマイナス3.7度にまで下がった」「雪は午前10時すぎにはほとんどあがり、京都では青空ものぞいた」(「京に雪、寒波逆襲」『京都新聞昭和43年2月9日(夕刊)』(京都新聞社、1968年))
 京都「市内では毎年1、2回5センチ以上の積雪をみるが、京都気象台でもにわか雪が降ると予想していたものの、大雪注意報は発令していなかった」「この雪は一時的で、市内では午前10時半ごろにやんだ」(「時ならぬ〝銀世界〟今冬最高の積雪」『夕刊京都昭和43年2月9日』(夕刊京都新聞社、1968年))

 午前中は疎水づたいに四宮の方まで歩く。
山科疏水(琵琶湖疏水)

 歩いたのは、京都市東山区山科御陵平林町(現・山科区御陵平林町)の安祥寺橋から山科四ノ宮柳山町(現・山科区四ノ宮柳山町)の柳山橋付近の琵琶湖疏水第一疏水沿いの道である。琵琶湖疏水第一疏水のうち山科盆地を流れる約4kmの間を山科疏水と通称している。春は花見、秋は紅葉の名所になっている。
山科疏水地図当時の山科疏水
 琵琶湖疏水の計画は明治「18年(1885)に着工、多くの困難を克服してついに23年(1890)に竣工した。その偉大な業績のあとが、こんにちも蹴上にあるインクラインであり疏水である。これによって翌24年(1891)には蹴上発電所が開かれて、ついに産業動力の電化が行われたし、28年(1895)には、京都電気鉄道株式会社の設立によって、日本最初の路面電車も敷設されるに至ったのである」(林屋辰三郎「郷土産業」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))
当時の山科疏水の水路
 当時、山科疏水の水路は諸羽山の裾を南に迂回して通っていた。しかし国鉄(現・JR西日本)湖西線の建設にあたり、路線の敷地が山側に拡幅され危険になったため、山を貫く諸羽トンネルが新たに掘られ1970年に完成し、水路は移動された。
 旧水路跡は1973年に東山自然緑地として整備され、散策路として利用されている。
疏水沿いの道
☞1968年3月31日「そう、雪が珍しくたくさん降った二月の日」

 学割をもらう。

 学割証(学校学生生徒旅客運賃割引証)をもらったのは立命館大学広小路キャンパスの清心館1階にある文学部事務室である。現在は立命館大学を含めほとんどの大学で学生証がIC化されているため、学割証は自動発行機で発行している。
 今回の場合、国鉄(現・JR各社)の往路は[山科─京都─田端─新宿─千国]と[千国─新宿─王子─西那須野]の連続乗車券(有効期間10日間)で買えば学割証1枚で足りる計算になる。
☞1967年3月31日「立命館大学から学生割引証と仮身分証明書が届いた」

 寺町通りを四条まで歩く。古本屋あさり。
寺町通の古書店

寺町通の古書店 通学ルートでは立命館大学広小路キャンパスの東側の河原町通をバスや市電で三条まで行くため、いつもと違う道を歩いたことになる。
 寺町通の丸太町より南は江戸時代からの書店街で、戦後から数が減ったものの現在も古書店が点在する。現存する古書店は全て戦前に当地で開店した老舗だけになっている。
 1968年当時、丸太町と四条の間にあった古書店は右の地図の通りになる。
 高野悦子が立ち寄って中まで入った店を特定することは困難であるが、当時の品ぞろえや店構えなどから、尚学堂書店、マキムラ書店寺町店、大書堂のいずれかまたは複数の店の可能性がある。

 寺町丸太町から南へ順に紹介する。
 彙文堂書荘は1907年開業で、京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町にあって、中国図書を専門に扱っていた。戦前の邪馬台国論争で知られる元京都帝大教授・内藤湖南(1866-1934)による「彙文書荘」と書かれた木彫りの看板を屋根に掲げていたことで知られた。当時の店は現存せず、現在は京都市上京区丸太町通寺町東入ル信富町に移転して営業している。
 文苑堂書店は京都市中京区寺町通夷川上ル久遠院前町にあり、美術書を中心に扱っていた。現在は新本・古書ともある書道関係書の専門店になっている。
 尚学堂書店は1937年創業で京都市中京区寺町通二条下ル榎木町にあり、一般古書を扱っている。趣がある現在の建物は2005年に新築された。
文苑堂書店外観尚学堂書店外観
 御池通を渡る。当時はアーケードがなかった。御池~三条間のアーケード完成は1974年である。
 佐々木竹苞楼(現・佐々木竹苞書楼)は京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町にあり、古典籍・古文書・美術書を中心に扱っている。1751年に今の京都市中京区姉小路通寺町西入ルで創業した。1788年に起きた天明の大火で焼け、1805年に現在地で再建した老舗で、江戸時代末期の建物が現存している。
寺町御池佐々木竹苞書楼外観
 文栄堂書店は京都市中京区寺町通姉小路上ル下本能寺前町にあり、また其中堂は京都市中京区寺町通三条上ル天性寺前町にあり、それぞれ仏教書を専門的に扱っている。
文栄堂書店外観其中堂
 三条通と斜めに交差し、少し西になる。三条~四条間もこの時点ではアーケードがなかった。アーケード完成は1968年7月である。
 マキムラ書店寺町店は京都市中京区寺町通六角下ル式部町にあって、学術書を中心に一般古書まで扱っていた。店は現存せず、現在は物販店になっている。本店は京都市左京区丸太町通川端東入ルに現在もある。
 大書堂は京都市中京区寺町通錦小路上ル円福寺前町にあり、美術書・古典籍・浮世絵を中心に歴史書や国文学まで扱っていた。寺町通を北から歩いてきて四条通に最も近い古書店で、外国人客も多い。現在は版画・古典籍・浮世絵の古書・古美術店になっている。
マキムラ書店寺町店跡大書堂外観
 「京都でも寺町と丸太町通りは、戦前からの〝古本街〟として知られている。京都は「学生さん」の町。むかしから学者と学生を大事にするのが京の誇りだった。古本屋もその伝統をひいて繁盛してきたのだが、やはり時代の波には勝てなかった」「50数軒を数えた本屋の大半は新刊書店や文房具、電気商等に身売りしてしまった」(「古本あさりの醍醐味が味わえる」『旅1967年11月号』(日本交通公社、1967年))
☞二十歳の原点1969年5月5日「本(ウェブスターの辞書と米語の世界地図と学生百科事典)を売りに行った」

 井上靖『比良のシャクナゲ』『猟銃』をよむ。
猟銃・闘牛の表紙  「比良のシャクナゲ」と「猟銃」は、井上靖『猟銃・闘牛』新潮文庫(新潮社、1950年)所収の短編小説。

 「比良のシャクナゲ」では、京都に住む主人公の医学者の長男でR大学の学生・啓介が琵琶湖に投身自殺し、約20年後、老いた医学者は琵琶湖を訪ねて自分の人生を回想する。
 「ボートは二人を乗せて、ただ一艘の舟も出ていない湖面をひっそりと滑った」
 「女と啓介が沈んだあの水と同じ水が、ボートの周囲を埋めつくしているのを、わしは見詰めた。わしは手を舟縁りから出してその水に浸けた。しなびた老人の五本の指の間を、思ったより冷たい水がゆるく流れた」(井上靖「比良のシャクナゲ」『猟銃・闘牛』新潮文庫(新潮社、1950年))
☞1968年1月30日「井上靖の『氷壁』を一気に読み通し」
☞二十歳の原点1969年6月22日「琵琶湖にいくことになった」

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  3. 疏水 寺町通り古本屋