高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和43年)
1968年 3月27日(水)
 九時ごろからFMのピアノ曲を、
 NHK-FM3月26日午前9時05分~10時40分:「家庭音楽鑑賞」『話題の新進演奏家~シューベルト「ピアノ奏鳴曲」』

 その後『現代論理学入門』『わたしの山旅』『記念碑』などをよみ、

わたしの山旅表紙 槙有恒「わたしの山旅」岩波新書(岩波書店、1968年)。当時150円。
 槙有恒(1894-1989)は登山家で、日本山岳協会会長などを歴任した。「わたしの山旅」では、1923年に冬の立山に3人のグループで登って下山途中に遭難、同行した板倉勝宣(当時27)が死亡した記録や、1956年に日本隊の隊長としてマナスル登頂に初めて成功した経緯などが書かれている。
 「30年の命も20年の命に比して長かろう。また70の齢も100年の齢を思えば短いであろう。生きた時間が問題ではないのだ。定めし君は満足な生涯を終えてこの世を去ったであろう」(槙有恒『ある遭難の記録』「わたしの山旅」岩波新書(岩波文庫、1968年))

 『記念碑』は、堀田善衛「堀田善衛集」日本文学全集第67(新潮社、1962年)所収の長編小説。雑誌「中央公論」(中央公論)1955年5月号から8月号まで4回にわたって連載、単行本は1955年に中央公論社(現・中央公論新社)から発刊された。
 第二次世界大戦末1944年12月から戦後1945年10月までの国策通信社を舞台に戦争期の知識人のあり方を問うている。

 ところがその後ずっとラジオ(ラジオ関西のポピュラー、歌謡曲など)をきき、
 ラジオ関西(560kc(現・558kHz))3月26日午後1時00分~2時00分:「ミュージック・ハイウエー」(音楽 交通 ニュース)、午後2時00分~3時00分:「歌うラジオ関西」(交通情報 歌謡曲 ニュースほか)、午後3時00分~15分:「サテライト・ジョッキー」、午後3時15分~4時00分:「ミュージック・ライン」、午後4時00分~30分「歌声は風に」

 こたつで五時ごろまでうたたねをしてしまった。
 3月26日京都:曇・最低5.4℃最高10.4℃平均7.3℃。26日は最高気温・平均気温ともに3月19日(火)に京都に戻ってから最も低くなっている。

1968年 3月28日(木)
 曇
 京都:晴・最高17.4℃最低4.3℃。

毘沙門堂スナップ写真ポイント
 高野悦子は1968年3月下旬、長沼さんとともに毘沙門堂に行ってスナップ写真に写っている。
 毘沙門堂は、京都市東山区山科安朱稲荷山町(現・山科区安朱稲荷山町)にある天台宗の寺院である。京阪山科駅からは、線路北側沿いの道を東進して、左折して国鉄(現・JR西日本)東海道本線のガードをくぐって坂道を上っていく。
山科周辺図毘沙門堂への坂道
 毘沙門堂は「もと洛北出雲路にあって、延暦のむかし最澄自刻の尊像を祀ったというのだが、その後転々として寛文5年(1665)にこの地に移されたのだという」(林屋辰三郎「京都」岩波新書(岩波書店、1962年))。出雲寺は京都市上京区で京都御所の北付近で、天台宗の僧、天海の弟子の公海が師の命を継いで、現在地に移転・再興した。
毘沙門堂入口石段
 石段を登って仁王門から入ると、朱塗りの唐門の向こうに本尊の毘沙門天を安置する本堂がある。
 この本堂をバックにして写真に写っている。
本堂毘沙門堂本堂撮影ポイント
 本堂に向かって右前の方に進んでいくと、高台弁才天がある。付近は境内でも特に紅葉時が美しいとされている。
境内の様子高台弁才天
 次に弁天堂手前の池にかかる石橋の左端で写真に写っている。弁天堂をバックに高野悦子がしゃがんで、向かって右側で長沼さんが立った姿勢で、一緒に写っている。この写真は本人が持って来たカメラで撮影された。
弁才天撮影ポイント高台弁才天での写真
 弁天堂に向かって左奥の方に進んでいくと、別の石橋がある。
弁天堂横の石橋弁天堂横の撮影ポイント
 ここでは高野悦子と長沼さんが並んで立って写真に写っている。
弁天堂での写真毘沙門堂での写真アップ
 この付近は現在は樹木が茂っているため、同じ角度の撮影は適さない。
大学1年で一緒・長沼さん①「日記に命を懸けてたエッチャン」

 堀田善衛の『河』などをよんで、
 『河』の中のディルクンセンの話に「とにかく……一生」というのがある。

 『河』は、堀田善衛「堀田善衛集」日本文学全集第67(新潮社、1962年)所収の長編小説。単行本は1959年に中央公論社(現・中央公論新社)から発刊された。
 小説の設定では、ディルクセンはデンマークの土木技師で志願して国連の機関に入った青年。アジアの戦災地のボランティアで来て、中国・黄河の決壊箇所を回復させる業務にあたっている。
 「とにかく私がマラリアの熱を冒してまで一生懸命働いて、ある決潰口をふさぎました。すると、二、三日すると、国民党の飛行機が来て、人夫を先ず機関銃で銃撃して追い払い、それから爆弾を投下して、やっとふさいだ決潰口をまたひらいてしまいました。新たな決潰口からは、前にもまして沢山の水が流れ出しました。人も死にました」(堀田善衛『河』「堀田善衛集」日本文学全集第67(新潮社、1962年))

 飯田さんと一時間程話をしていろいろなことを考えた。
☞1967年11月25日「荒神口食堂で飯田さんと話していて」

1968年 3月29日(金)
 晴
 京都:晴・最低2.5℃最高19.4℃。

 今日は『伸子』をよむこと、『インドで暮らす』を三日間でよむようにすること、

インドで暮らす表紙 『伸子』は、宮本百合子「宮本百合子集」日本文学全集第37(新潮社、1962年)所収の長編小説。発売当時290円。
 宮本百合子(1899-1951)の代表作で、戦前の雑誌「改造」(改造社(現・改造社書店))1924年9月号から1926年9月号まで断続的に連載、単行本は1928年に改造社から発刊された。
 自伝的小説で、19歳の文学少女である「伸子」が、夫となる男性に出会ってから結婚生活が破綻するまでの6年間を描いた。舞台の一つとして栃木県北部の那須地方が登場する。
 「沿線の風景は、伸子にとって、子供の時から知己であった。列車は那須野ヶ原にさしかかった。一面若葉をつけた矮樹林の間を、汽車は走った」(宮本百合子『伸子』「宮本百合子集」日本文学全集第37(新潮社、1962年))

 石田保昭「インドで暮らす」岩波新書(岩波書店、1963年)。
 石田保昭(1930-)はインド史研究家。「インドで暮らす」は、1958年から1961年までニューデリーの外国語学校講師として現地で生活した体験の記録である。
 「私はインドへ来たのだ。私は、あたらしい土地とあたらしい人間関係のなかで、自分の生きがいを発見したいと思っていたのだった」(「石田保昭『アジアの兄弟との共感を求める』「インドで暮らす」岩波新書(岩波書店、1963年))

 午後は銀行にいったり、大丸でタンスをかったり、

 国鉄・山科駅と京阪山科駅周辺にあった銀行は京都銀行、滋賀銀行、滋賀相互銀行(現・関西アーバン銀行)の各山科支店のため、これ以外の都市銀行などの支店を利用する場合は京都市中心部に行かないといけない。

大丸京都店

 大丸京都店は、京都市下京区四条通高倉西入ルにあるデパート。1964年4月に北新館増築が完成し、総面積40,526㎡に拡大した。また同年9月には外装工事も完成し、外壁は高さ28m幅73mのクリーム色となった
四条通周辺図当時の店舗
 家具売り場は4階にあった。この日は6階催事場で「春のオールくつ・かばん・ハンドバッグ・ぞうり掘り出し市」をしていて、春の新作デザインパンプス1650円。7階催事場で半年に一度の「第14回オール洋服大蔵ざらえ」が開催中で、一日限りの超特価奉仕品として、はんぱもの婦人ブラウス(各種)300円。

 大丸は2007年に松坂屋ホールディングスと経営統合して、J.フロントリテイリングとなった。現在はその子会社である大丸松坂屋百貨店が大丸京都店を運営している。建物は2014年に改装され、クラシックな外観になった。
大丸京都店外観当時のロゴマーク

 四条河原町を交差点の方に歩いていったが、途中「たち吉」によっていろいろな陶器を買う気もなくみていた。
たち吉本店

 たち吉本店は、京都市下京区四条通富小路東入ルにあった陶器専門店。1752年に「橘屋吉兵衛」として創業、1894年「たち吉」に改称した。
 歴史ある店は焼失し、1951年に新たな店を再建した。店内に陳列する商品にわかりやすい説明を付けたり、色紙などを使って演出し、当時の一般的な陶器店とは異なる店づくりを行った。また小売側から窯元に商品を作らせて売るスタイルを構築して、「創作陶器」と呼んだ。
四条通り拡大地図当時の表示
 店は1975年ビルに建て替えられた。たち吉は全国のデパートなどに出店した一方、本店の店舗は2011年に閉店。現在は衣料品店になっている。
たち吉店頭

 これらの花びんをそれぞれの花でかざられたら」となつかしいような、
中学2年生の時の作品

 アパートについたのは、五時ごろか、
 四条河原町…徒歩…三条駅─京阪京津線─京阪山科駅。
青雲寮

高野悦子「二十歳の原点」案内