(①「日記に命を懸けてたエッチャン」から続き)
長沼:1年生の時に、エッチャンと私、山川君と酒井君の4人で大徳寺に行ったことがありました。「二十歳の原点序章」にも載ってるでしょう。
その時のことは覚えてます。平日でしたが、山科からエッチャンと一緒に行ったと思います。
☞大徳寺
これ実は酒井君とデートしたかったんで、私が誘ったんです。私が大学に入って一番最初に“いいなぁ”って思った人が同級生の酒井君でした。
その時に一人じゃダメだからと思って、エッチャンを連れて行ったんです。そしたら酒井君も自分一人がいやだったから同級生の山川君を連れて来ました。それで4人でグループデートになったわけです。
酒井君は一浪して来てましたが、実家があまり裕福じゃなくて、結構苦学生だったんです。生協の55円の定食が食べられなくて、「お金がない。昼は15円の牛乳しか飲めない」って言ってました。その印象があったし、なんか影を引きずってる感じの人で、私はそういう人に憧れました。
酒井君が好きだった私は、何とか自分の思いを伝えたいと思いました。
それで倉田百三の「愛と認識との出発」という本に手紙をはさんで入れて彼に渡しました。この本をすごく読んでて、良かったもんですから。
そうしたら、彼から返って来た本に「高野悦子さんの方が好きです」って書かれたメッセージがありました。
すごいショックでした。生まれて初めてフラれたんですもの。つらかったです(笑)。
「愛と認識との出発(しゅっぱつ)」は倉田百三(1891-1943)の評論集。友情や恋愛、信仰など若者の抱える問題について自分の体験を交えて書いた文章からなる。1921年に刊行されるとベストセラーとなり、旧制第一高等学校(現・東京大学)の学生が最も愛読した書物になった。
彼はよく勉強してました。最初から「ぼくはマスコミで働きたい」って言ってて、文章も上手でした。私は勉強をしないで民青の活動で何のあれもなかったですけど(笑)。
酒井君と山川君ともう一人の3人が仲が良くて、この3人は教授に呼ばれて勉強会に参加してました。わが方のグループ(民青)の側はだれも声がかかりませんでした(笑)。勉強できない、それどころじゃないということで(笑)。
彼に民青系のグループに入ってもらえないかなあと思いましたけど、彼はずっと距離を置いてました。彼はずっと“ノンポリ”で絶対に足を踏み入れませんでした。
☞1968年12月18日「その後、酒井君、加賀君らとこの問題を話す」
でもね、酒井君から「高野さんの方が好き」って来て、「あ、なるほど」とも思ったんですよ。私も何となくそれを感じてたから、エッチャンを連れていったんですね。エッチャンが一緒に行くって言ったから彼も来たのかなとも思ったんです。
エッチャンもやっぱり酒井君を好きだったところはあったみたいです。でも彼女がモテすぎたんで、彼は引いちゃったんじゃないかと思います。
あと、一緒に行った山川君は坊主頭だったんで大徳寺の住職に「いいな、いいな」って気に入ってもらってたようです。
☞二十歳の原点1969年2月6日「酒井君?」
高野悦子ほどではないが、長沼さんへも好感をもっていた男子学生が複数いた。
酒井さんは40歳代前半の若さで死去している。
長沼:私は福岡で高校1年の時に姉と一緒に1年間、3本立て4本立てで100本くらい映画を見ました。本当によく映画館に通ってました。フランスやイタリアの旧作のリバイバル映画を見て、映画日記のようなものを作ってました。パンフレットや食べたポップコーンの袋を貼ったり、見た感想とか書いたり、一人前に批評とかしたりして。
高校時代に貯めた知識があるんで、そういう話をするわけです。だからエッチャンは付いていけなかったんでしょう。
京都に行ってからは映画を見る状況になかったです。東映のヤクザ映画全盛期で興味なかったし、学生運動で忙しいから文化的なモノには顔を出さないという雰囲気もあって、もう行けませんでした。
本の話もしましたが、エッチャンは乗ってこなくて、ほとんどリアクションがないんです。
ただ私も樺美智子で安保闘争を知って、そのあと奥浩平の「青春の墓標」を読んで、すごい感銘を受けたんですよ。それは彼女も当時「読んだ」って言ってました。それで“やっぱり青春時代の学生運動に挫折して…”なんて話をしたことはありました。
☞青春の墓標
私の山科の下宿も四畳半でした。
親元から離れたかったから、うれしかったです。当時、実家から学費のほかに月2万円送ってもらってました。お金がないわけでもないし、自分で好きなことを…。それが母親が電話はかけてくるし、毎日手紙を書いてくるし、本当にうっとうしかったです(笑)。
親はわざわざ福岡から冷蔵庫を送ってきました。夏の京都があんまり暑いもので、冷蔵庫に肌着を入れてから銭湯に行って、帰ったら冷えた肌着に着替えて扇風機を付けたら、涼しいーッ!(笑)。そういう生活をしてましたの。
アップライトのピアノまでありました。実はいいところのお嬢様だもの、悪いですけど(笑)。教師になろうと思って中学生の時にピアノを習いました。
エッチャンもピアノが弾けました。だけど彼女は歌わないでしょう、私も音痴だから歌うなって言われてたんで、だから一緒にピアノを弾いたりしたことはなかったです。
☞長沼さんの下宿
エッチャンはあまりモノを食べないんです。見てても食べない。一緒に食べに行っても、彼女はうつむきながら食べます。下を向いて食べて、顔を上げておいしいとか言わないんです。あまりうれしい顔を見たことがありません。
何が一番好きって聞いても言わないし、食べることにあまり興味がなかったように見えました。食事の時に、ポツリと「西那須野は田舎やったし」と言ったことがあったんで、最初は田舎で育ったからかなって思いました。
私はものすごく料理が好きだったから、学生時代に料理本を買って、アパートの共同の調理スペースにあったコイン式のガスコンロで作ったりして、弁当も作って持って行ったりしたこともありました。すしおけとかも全部持って行ってましたんで(笑)、ちらしずしとか巻きずしとかも作りました。
それでエッチャンがうちの部屋に来たらいろいろ食べさせるでしょう、そこでも下向いて食べてるんですけど。でも彼女の所に行って一回も食べさせてもらったことがないんです。彼女はそういうのに興味がなくて作らなかったようなんです。
☞1968年1月31日「今までは単に胃の中にものをほうり込んでいたにすぎなかった」
長沼:エッチャンはあまり多く話さないんです。質問とかしても、なかなか返ってきません。
自分の中で答えを見つけるのか、人間関係の中でどういうふうに答えたらいいのか、常に考えてました。だから止まってる時間が多かったです。 それでポツっと話すんです。
そんな彼女がずっと言っていたのが「私、未熟だから」という言葉でした。「私は何にも知らない」とか「何も知らないで来た」とも言ってました。
みんな未熟じゃないですか。私も何も知らないで来て、少ししゃべっただけでたたかれて恥をかいたけど次はがんばろうとしてるのに、どうして彼女はそこで止まって落ち込むのかなあって思いました。
私も当時幼かったですが、彼女は話すことに何かちょっと幼さのある文学少女みたいでした。
一緒に飲み会に行く機会があっても、彼女はお酒を飲みませんでした。少なくとも1年生のころは飲んでなかったです。
私は大学に行ってみんなが飲みだして、“飲まないのに同じ会費を払うのは損”と思って飲んだら、酒飲みだった父親の血を引いたのか飲めました(笑)。それで私は飲んでました。飲んだら少し騒ぐんです。
でも彼女はそういう飲み会の場にいても騒がないで、片隅でじっとしている印象でした。
1年生の時は集まりではエッチャンとほとんどずっと一緒にいました。でも、あんまりよくわかりませんでした。わかりにくそうな感じの子でした。
彼女が何をしたいかがはっきりしなくて、気が付いたら部落研に入ってましたし。どうして部落研に入ったのかな、栃木県の出身でなんでそういう所に着目したのかなって。私は一緒ではありませんでしたが、部落研では地域の施設とかで動いて結構楽しくあっちこっち行ってたりはしてたようです。ただ会う機会はその分少なくなりました。
☞部落研
付き合った私の口から言うのもなんですが、振り返ってみると、彼女はちょっと暗かったかなあ。明るかったという人もいますけど、私は明るいとは思いませんでした。
いろんな行事とかで、あまり楽しい顔したところを見たことがなかったです。自分が明るいということもあると思いますけど(笑)。
日記の記述にあるエピソード・行事等についての長沼さんの説明は多くに渡るため、本ホームページの「二十歳の原点序章解説」「二十歳の原点解説」の各項目の中で分けて紹介する。
この直後の1968年4月2日(火)に山科の青雲寮から嵐山の原田方に引っ越している。
長沼:エッチャンは突然、下宿を変わってしまって…。 “あっ、私を信頼してないんだな”という思いが残りました。私としては心を開いて話していたつもりだったのに、彼女には受け入れてもらえないんだなって感じました。
彼女はワンダーフォーゲルに入ってから、髪を一回バサッと切ってショートカットにしました。山に登るのに長い髪だと大変なのかなとも思いましたけど、同時に何か心境の変化があったのかなあって。
山で撮ってきた写真なんかを見せてくれましたけど、どうして彼女がワンゲルに行ったのか、それが不思議でした。
☞1968年4月24日「部落研をやめたから、ハイ、ワンゲル部に入りましたというのである」
2年になって1年の時ほど学校で顔を見かけなくなっていました。もちろん学校が荒れ始めて勉強ができる状況でなくなると、みんな学校に行けないで、テストも全部レポート提出になりましたが。
そのうち民青のグループの中で、エッチャンがおかしい、お酒を飲んでたとかタバコを吸ってたとかいううわさが出ました。1年生のころはほとんどお酒も飲まなかったのにです。
☞1968年6月11日「コンパで酔った」
☞1968年12月8日「二十九日のコンパで煙草を二本すって以来」
移った嵐山の下宿に3回訪ねました。6畳もない細長い部屋でした。
そこへ私たちが何人かで民青の話をしに行きましたが、“拒否”されました。「一緒に問題に取り組んで…」とか言って引き戻そうと一生懸命に説得しましたけど、最後は殻に籠もったままでダメでした。
彼女はずっと隅に座って暗い顔をして黙ったままでした。こちらが一方的にしゃべるだけで、そうしたら彼女はまた日記を書いてますし。よほど私たちがうっとうしいと感じてるのかなって思いました。
“ああ、もうだめなんだなあ”って。これ以上話してもいけないと思って引きあげました。
☞原田方
どうして嵐山に行ったのかなあって初めは不思議に思ってたんです。
あとからですが、彼女は結局、民青に対して不信感を抱いたのかな、と。だから私に対してもだんだん距離を置くようになって、それで引っ越したんだなあって思って…。
さみしかったですね。
長沼:嵐山の下宿で会った時が最後でした。彼女がそのあと丸太町御前に引っ越したという話は全然知らなかったです。そのあと彼女は亡くなりました。
話を聞いたのはそれからまもなくで、もう学生運動が少しおとなしくなった時でした。
最後に会ってから自殺するまで時間的間隔があまりなかったことを知って、よけいにショックでした。亡くなった場所へ行きましたし、彼女がかつて暮していた山科の下宿を電車の窓からよく見つめたものでした。
☞高野悦子の自殺
立命館では日本史が全共闘の牙城でした。最初から学生運動の思想的バックボーンもあって一番先鋭的でしたし、教授たちも辞めました。最後まで激しく対立したんですね。最終的には民青が勝つ形ですが、その力関係は読めませんでした。
私の場合、大学に入って学生運動とか知識がないと思って話を聞かないといけないってフラフラ付いていった先が民青でした(笑)。
いろいろよけいなことを言って怒られました。負けん気が強いんです。ニコニコしてあんまり前面には出さなかったですけど。
紛争の時は後ろからチョロチョロ付いていったもので、そんなに危険な目にも合わなかったです。「日和見」と言われまして…(笑)。親類に刑事の人がいて大学に入学した時に「先頭に立ってやるな、後ろから付いて行け」と言われてました(笑)。「その方が政治的な運動が長持ちする」って。
だけど私は民青で終わって、共産党には入らなかったです。組織や集団に帰属することが今一つ好きな人間ではなくって、どこかで自分は自分でありたいという思いがあったんです。
学生運動の活動でエッチャンは常に一歩引いていたと思っています。自分は何をすべきかとか、いろいろ悩んでたんじゃないでしょうか。
行動する前に、引いて冷やかに見てるんです。懐疑的なのは若さの特権だし、世の中を知らなくて大学に行ってカルチャーショックがあるけど、彼女はそこからもう一つ抜け出せないというんですか。それに、よく考えているんですけど、人づきあいはあまり上手じゃなかったです。
彼女は悩んで、どこにも行けないで、ずっと自分探しをしていました。
その間に男性関係があったでしょう。そのことが大きいです。かわいそうで、“なんでそんな”って。女の弱さなのかなあと思いました。
人ってみんな周りの見方が全部違いますから、何が真実かはわかりません。
ただエッチャンは人間が信じられなくなったんじゃないでしょうか。それしか考えられないんです。(談)
みゅーずは、京都市中京区西木屋町通四条上ルにあった喫茶店。クラシック音楽を聞く“名曲喫茶”である。なお当時は南側に別の喫茶店(珈琲亭)が隣接していた。
みゅーずは1954年開業、高瀬川沿いにあり、クラシックの豊富なコレクションや本格的なオーディオ装置はもちろん、赤い屋根や、れんが装飾の壁、ステンドグラスの窓など趣のある店構えで人気を集め、京都を代表する名曲喫茶の一つだった。
長沼さんはどの曲をリクエストするかいろいろ迷ったという。
「近年、木屋町周辺で飲食店の業態が急激に変化。近くの河原町通でも、老舗書店の丸善が撤退するなど環境が変わり、夕方から夜にかけての客が減少し続けたことから」(『木屋町の名曲喫茶「みゅーず」閉店』「京都新聞2006年5月9日」(京都新聞社、2006年))、2006年に閉店した。
現在は焼肉店になっている。
☞1967年11月18日「昼には生協の安くてまずい御飯を食べて生きている」
☞荒神口食堂
☞シアンクレール
※注は本ホームページの文責で付した。
どうしても会っておきたい女性だった。午後5時すぎから始めた取材が終わると、時計は11時半を回っていた。
仲良しだった同級生に離れていかれた長沼さんの立場は本来複雑だ。「言っていいんだろうかという思いがずっとありました。でも、もう話してもいいかなって。想像ではない彼女の実際の姿を知ってもらう参考になればと思いました」。
最後に「きょうはめっちゃうれしかったですよ!」。その明るさに引き付けられた。
インタビューは2013年11月1日に行った。
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