高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)

立命館大学1967年入学日本史クラス同窓会

KKRくに荘 立命館大学文学部史学科日本史学専攻で、高野悦子と同じ1967年入学の同級生による「67日本史クラス同窓会」が2013年12月7日(土)、京都で開かれた。

 会場は京都市上京区河原町通荒神口上ル一筋目東入ルの「KKRくに荘」。かつての立命館大学広小路キャンパスやシアンクレールから近く、旧・恒心館の南東にある。

 この同窓会は1995年に初めて開いて以来、今回は5年ぶり4回目となる。
 集まったのは1967年入学同級生ら男女8人。想定より少なかったが、幹事は「日程が年末の時期に重なったのが良くなかったかな」と分析している。

 参加者の顔ぶれから、実際には元・民青系やそれに近かった人の集まりになっている点は否めない。
 ただ幹事は連絡が取れる同窓には広く案内を出しており、必ずしも元・民青系の色合いのイベントにすることを意図としているわけではない。

 会ではまず幹事から連絡を取っていた同級生のうち最近亡くなった人の名前が報告された。
 その中には二十歳の原点序章に登場する「浦辺さん」の名前もあった。

ロマン

 ゲストとして立命館大学名誉教授の岩井忠熊氏(91)が登場。岩井氏自身がインタビューを受けた、ことし8月15日付の学徒出陣70年に関する新聞記事について、その背景や裏話を語った。
 岩井氏は、1960年代後半における立命館大学の日本史学専攻の状況についてもふれ、「団塊の世代がたくさん入学してくるのに、何ら対応するものがなかったのが事実だった。きっちりした教育ができなかった」と述べ、“マスプロ教育”という批判に代表される当時の教育環境について反省すべき点があったという見方を示した。

☞1967年6月27日「特に現在のこのようなマスプロ教育と言われる中においては」
☞二十歳の原点1969年2月8日「岩井先生にテレして試験がどうなるのかきいてみよう」
☞二十歳の原点1969年6月1日「岩井の学問とやらをコテンパンにやっつけて」

日本史同窓会の入口会場の案内板
 このあと参加者の近況報告が行われた。
 現役の一線で働いている人のほか、
「介護した母親が亡くなったのを機に、地元の歴史に関する古文書を読み始めた」
「事業を息子にかなりまかせ、最近は独自の切り口で歴史小説を書いている」
「趣味の鉄道が高じて、廃線間近の路線を乗りに行ったりしている」
「学校の教員を退職し、食に関する啓発活動をしている」
「音楽系のサークルで最近も度々京都に来ている」など、第二の人生の時を迎える中、新しい物事に取り組んでいる話が多く出た。

 思い出話の一つが学生運動。
 紛争当時、立命館大学広小路キャンパスで民青系の拠点だった研心館に寝泊まりしたことや、全共闘系との衝突の中で逃げる時に1人だけ取り残されてしまった時のことなどを、今でこそと懐かしく振り返った。強烈な共通体験のようだ。
 もっとも元民青系やそれに近かったと言っても、人によって組織や学生運動への関わり方に濃淡があったことも見えてきた。
 また本ホームページに掲載されている、元・全共闘系やそれに近かった同級生が仲間たちと京都で再会している話を気にする場面もあった。

大学同級生女性・岡本さん「高野悦子さんと日本史専攻」

 話題はそれに尽きず、「いまだに卒業単位が足りない夢を見る」とか、さらに「語学の成績を何とかしてもらうために講師の自宅まで直談判に行った」という武勇伝まで飛び出した。
 “アイツとアノコが付き合っていて、そんでもって…”という同級生の男女交際関係も一つ一つ“確認”されていった。

 高野悦子についても話が及んだ。
 この日の参加者は全員、学生当時の彼女を直接知っており、結果的に同級生の中でも彼女に親しかった人が集まる形になった。日記に登場する人物も複数含まれている。
 彼女の大学1年当時の話が中心だったが、亡くなる直前の1969年にキャンパスで見かけた時の様子も口々にあった。

 高野悦子の死後44年。彼女と直接会った同級生たちが元気に集まり語り合う姿を記録できた意味は大きい。
 「彼女と同じ時代を過ごし同じような経験をしても、みんな生きて暮らしてる。そのことをわかってほしい」。参加した男性の言葉をかみしめたい。

 会は盛り上がって予定の2時間を大幅に延長した。終了後、参加者は二次会で河原町三条方面に向った。

 取材の申し出にご快諾いただいた幹事ならびに参加者の方々に改めて感謝する。
高野悦子「二十歳の原点」案内