高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)

1967年 4月22日(土)②

大学1年で一緒・長沼さん①「日記に命を懸けてたエッチャン」

 高野悦子は1967年に立命館大学文学部史学科日本史学専攻に入学した。
 大学1年の時に一緒だった日本史学専攻の同級生女性で「二十歳の原点序章」に登場する「長沼さん」と会った。

 高野悦子は二十歳の原点序章1967年4月22日(土)に以下の記述をしている。
 浦辺さん、桜井さん、西山さん、長沼さん、長田さん…それぞれの人がいろいろな環境に育ち考えをもち生きている。
 入学当初から名前が出てくる長沼さんは、高野悦子が大学1年の時に最も時間を共にした同級生である。当時の日々と間近で見た等身大の高野悦子の姿を中心にうかがった。

通学が一緒だったエッチャン
 「こういう取材でお話をするのは初めてなんです」。待ち合わせた駅前の店に現れた長沼さんはとても感心した様子だった。恐縮すると、長沼さんは「構わないんですよ」と言って率直に話を始められた。

 長沼:彼女のことは「エッチャン、エッチャン」って呼んでました。悦子だからエッチャンって。同級生ですしね、「高野さん」なんて言ったことないです。
 かわいらしい子でした。田舎から出て来たかわいい子というイメージでした。
 彼女は髪型は最初おさげ髪で来てたんです。長い髪で大学に来る時は後ろで二つにくくってました。着てるものも地味でした。本当に地味な、普通のブラウスとスカートという感じでした。
 地味だけどかわいいじゃないですか、だから男子学生から人気があったんです。


 エッチャンと知り合ったきっかけは、日本史専攻で同じ講義に出て、それだけじゃなくて私の下宿がたまたま彼女と同じ山科で通学経路も一緒だったんです。
 当時の山科は今と違って開けてなくて、田舎みたいな所でした。
三条方面の様子長沼さんと高野悦子
 京阪山科駅から京阪京津線に乗って三条で降りて、三条大橋を渡って、市電で大学まで通ってました。当時の市電は片道15円だったんですよ、定期券を買ってましたけど。実際に彼女と朝も帰りも一緒になってました。
当時の京津線ルート
 そして最初のころは新入生歓迎で天ヶ瀬ダム・萬福寺に“遠足”とか行ってましたでしょう。その中でしゃべったり、キャンパスで顔を合わせているうちに、それとなく仲よくなるってあるじゃないですか。

 1967年4月入学当時、京都市電は片道15円で、大学生の定期券は1か月400円・3か月1,080円だった。1968年1月16日から片道20円に、さらに1968年7月1日からは片道25円に再値上げされた。
青雲寮
長沼さんの下宿
京阪京津線(大学1年通学ルート)
天ヶ瀬ダム・萬福寺

 エッチャンは私との間であまりしゃべらなかったんです。
 私は元々埼玉の生まれで父親の転勤で当時は福岡から出てきて下宿していました。だから同じ福岡の人としゃべる時は博多弁でしたけど、それ以外あまり方言は使いませんでした。
 だけど彼女は方言がありました。そのためかもしれないですが、あまり雄弁に語る子じゃなかったんです。割に黙ってる子でした。
 それだけじゃなくて、彼女は現役で来てるし、田舎にいて“もまれてない”し、何かそういうものもあったみたいですが。

“すごく怖かった”大学生活のスタート
 長沼:大学に入った時に、エッチャンも私も一緒に感じたのは、すごく怖かったことなんです。
 私は高校が男女共学なものの前身が高等女学校で女の方が圧倒的に数が多くて、ずっと女子の中で過ごしてきていました。彼女も宇都宮女子高だったでしょう。
 それが大学に入ったら、男ばっかりに感じました。入学式は学生服が多くて角刈りの人もいました。文学部でも英米文学専攻とか女の数が多くて、史学科でも東洋史とか西洋史はまだ女の子がいるんですが、日本史専攻は比較的少なかったと思うんです。
 一浪の人も結構多かったです。二浪とかして来たもたくさんいて、現役の私から見たら、何か“おっさん”みたいでした。三浪や社会に出てきてからの人もいましたし。
 周りが怖いんですね。エッチャンもおそらくそういう感覚だったと思います。おびえてました。

新入生歓迎風景 それで何かいろんなものが来るでしょう。
 サークルの出店が並んでいる時に、最初に社交ダンスのクラブに勧誘されました。私は身長160センチで体重43キロとスリムだったんです。男の人がツカツカ来て、「あなたは背が高いし、どう?」って言われました。
 その男の人がちょっと怖くて、“わぁー”と思って「ダメ!ダメ!」って言って断りましたけど、もう最初のショックでした。そんな世界を知らない人間にいきなり来るでしょう、これが大学なんだと思いました。

 政治的なオルグも来ました。初めてですよ、高校まで政治的な部分はなかったですから。60年安保なんかもあって、高校までも政治的な関心はもってましたけど、大学に入って、あんなふうにガァーってやられて、恐れをなしたんですよ、私とエッチャンの二人とも。
 “自分は何て無知なんだろう”という…いろんなことに関してですね。勉強は、みんな一応いいところの高校から来てるから、それなりに歴史の勉強はして来てるんです。だけど現代の社会問題というのは経験もなく来てるでしょう。
 だから言われると、“ああそうなんだ、何て自分は無知なんだろう”と思いますよね。地方の女子高から来た彼女も、そうだったと思います。

 オルグ活動☞1967年5月11日

 高野悦子は1967年4月15日(土)に以下の記述をしている。
 しかし私は勉強が足りないと思った。問題意識がほとんどない。それには本を読まねばならない。

 立命の日本史は当時難しくて、学内で入試の偏差値が一番高かったんです。教授陣に北山茂夫さん、奈良本辰也さん、林屋辰三郎さんがいて、哲学では梅原猛もいたんで、それに憧れて行ってるわけです。
 問題意識を持ってもって一浪とかして来てる人たちは、そういうので入ってるのかもしれないんですけど、私は純粋に日本史の勉強をしたいなと思って来たからカルチャーショックがありました。
 だからエッチャンもショックでした。

 プロゼミ、日本史入門のゼミを1年の時にやってたんです。50人くらいのクラスで。まあ、それを目当ての一つにして行ってるわけですね。北山先生で、エッチャンも一緒でした。
 「それで何をするの」ってテーマを聞かれて…。北山先生に言われて一人ずつ発言しなければならない時に、やっぱり一浪とかして来てる人達はすごくて「どういう問題意識を持って何をするんだ」という…。そんなこと大学入っていきなり無理じゃないですか。でも、みんながちゃんと話すでしょう。
 その時私は何を言えばいいのかなと思って、とりあえず高校の時に習って関心もあった自由民権運動について「上からの運動だったんでは」って意見を言ってみたら、「秩父事件とか下から来てるのを知らないんですか」とか厳しく言われてしまい、結局しどろもどろになって、ひんしゅくを買ってしまいました(笑)。

 “歴史をなぜ学びに来たか”ということを教授は教えたかったんですね。でも最初の授業がそれで“わぁー”って思いましたね、何てこと言ってしまったんだという(笑)。自分たちがここまで何を勉強してきたんだろうかというショックもありました。問題意識もなかったですし、ただ別にどこを勉強したいということもなかったですから。厳しかったですよ。
 エッチャンが何をしたいって言ったかは覚えてないんですけど、同じ授業だったから彼女も当然そうだったと思います。

☞1967年5月24日「今日のプロゼミ」

エッチャンに焦点を当ててた浦辺君のオルグ
 高野悦子は1967年5月10日(水)に以下の記述をしている。
 また自治会委員長立候補者をたてる際、一回生の人達は渡辺さんをおそうとしたのに、上級回生は浦辺さんときめつけていたことに対する失望をかんじたと長沼さんがいっていた。
 長沼さんと並んで名前が出てくる同級生の浦辺さん(男性)は、この年の自治会選挙で日本史学専攻から民青系として代議員に選ばれている。
 翌日の1967年5月11日(木)にはこう書いている。
 長沼さん、浦辺さん、桜井さん、松田さん、北垣さん達のグループはそれぞれ民青の会員として活躍している。いわゆるオルグ活動を始めた。ちょっと奇妙に思ったが、私も勢力地図(イヤなヒビキをかんじる)の一端にのせられオルグの目的人となっているのかな。

 長沼:入った当時、民青だとかそんなの知らなかったんですよ。そうなのかなと思ってたくらいでしたから。
 それが浦辺君。現役入学の私やエッチャンより1つ年上なんですが、大学に来た時にはすでに共産党の活動をしてた人でした。最初にエッチャンと私に民青へのオルグを熱心にかけたんです。
 私は割と単純だから、おだてられて「そうか」と思って丸め込まれて(笑)、それからは周りは民青系の人ばっかりになったんですね。

民青

 1967年5月23日(火)の日記にも続いている。
 十九日の総会の帰り、浦辺さんにいわれた。「あなたは一歩とどまっている」と。

 浦辺君からみると私はすんなりいったんだけど、エッチャンは一生懸命考えて返事をしなかったんですね。
 彼女はなかなか踏み込めないし、ずっと考える子だったもんだから。
 でも実は彼はエッチャンに焦点を当ててオルグをしてたんです。ところが一緒にいた私の方が「はい」って言ってしまったんで(笑)。あとから 「何や」って言われました(笑)。


 浦辺さんは京都府立植物園でのクラスコンパ後の1967年5月16日(火)の記述に独特の口調でも登場する。
 喫茶店「ロマン」で浦辺さんがウェイトレスを見て、「僕はああいう人が好きですよ、外から見れば普通のかわらない人のようにみえるけど、内面に入るといろいろ苦労している人。そういう苦労を苦労として表にあらわしていない人がいいですナー」
植物園での写真 本ホームページが入手した京都府立植物園での写真には、長沼さん、浦辺さんと高野悦子の3人で写っていた。

 浦辺君がおもしろいのわね、もう“一を知って十を話す”ような口達者な人で(笑)。
 彼はお酒に酔うと、「代々木ー」って悪口をはじめるんです。「代々木がどうのこうの」「代々木の何とか」って口調で批判とかするんですね。
 それで何て言うのかなと思ってたら、「俺たちも宗教と一緒やなー!代々木教や!」だって。
 あの言葉は忘れられません。私もそう思いましたから(笑)。

 「代々木」とは日本共産党本部のこと。最寄り駅が国鉄(現・JR東日本)代々木駅のため「代々木」と呼ばれた。
 ただ新左翼各派が共産党の別称として当時呼んでいたのとは少し異なり、浦辺さんは共産党の中で“本部の幹部”という用法で使ったとみてよい。各地の共産党関係者が口にする場合、“現場の活動(の苦労や悩み)を知らず、理論ばっかりで頭でっかちな党エリート”というやゆした意味合いを含む場合が多い。サラリーマンが「本社の官僚連中どもは…」というのと同じイメージである。

 浦辺君は植物園のクラスコンパの時、エッチャンに「立教に受かってて、何で立命に来るんや」って言ったんです。
 栃木から東京の方がいいのに、なんでわざわざ京都まで来るのかなって私も思いました。入学したころには、彼女はそれほど日本史にこだわっているようにも見えなかったから、よけいにそうでした。
 彼は「何でや、立教の方がいいのになー」って、ずっと言ってました。

 浦辺さんは2012年に死去している。
京都府立植物園

日記に命を懸けてた
 高野悦子は1967年6月12日(月)に以下の記述をしている。
 今日は女子学生会の運営委員の選挙だ。
 女子学生会は立命館大学の学友会を構成する女子学生の全学的な組織である。民青系の影響が強かった。
 この選挙で女子学生会の運営委員の一人に長沼さんが選ばれる。

 長沼:私が言われて女子学生会の運営委員の選挙に立候補して、適当なことをしゃべって、運営委員になったんです。訳もわからないのに、お調子者ですぐ乗ってしまって(笑)。
 エッチャンも応援してくれました。票読みとか一緒にして。
 周囲は彼女をそういう役職にしたかったようだけど、しないんです。それを私が知らないで出てしまって(笑)。彼女はそこが賢いというか、一歩踏み出す前に考えてしまい、逆に私はあまり考えずに何でもやってしまうんです。
 そういうところで、彼女は性格的にあまり自分から先頭になって何かするということはしないんだなって思いましたし、どこかで人に対して壁を作ってるようにも感じました。

 二人の下宿のアパートは近くでした。しょっちゅう行き来してました。時々、うちにエッチャンが泊まりに来たり、私が彼女の部屋に泊まりに行ったりしました。
 彼女は青雲寮という女子学生向けアパートの2階で、京阪京津線の電車からも見えました。
青雲寮と長沼さんの下宿の関係青雲寮跡
 部屋は京間の四畳半で畳敷きでした。中は殺風景で本当にモノが少なかったです。
 彼女はそういうシンプルな生活に憧れてるのかなと思ってたら、「女子高で下宿してた」「あんまりモノへの物質欲みたいなのがない」という話をしたことがありました。

 その泊まりに行った時に初めて、彼女が日記を付けてるということがわかったんです。
 一生懸命に日記を書いてるんです。
 だから「あれ、日記付けてるの?」って聞いたら「ずっと日記を付けてるの」って言うんです。私が部屋にいる時でも、彼女はずっと書いていました。人がいようと関係なく書いていました。
 日記を書くことに命を懸けてたみたいでした。
 書いてるのを見た時は、日記に箇条書きをしてました。こっちとしては“どんなことを書くのかな”と思ったんですけど、後に本が出て初めて“彼女はそういう思いを持ってたんだな”と知りました。

 (②「グループデートと幼さの残る文学少女」に続く)
 ※注は本ホームページの文責で付した。

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