高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和38年)
西那須野での生活1963年②
中学校講堂広域図町役場・竹内医院広域図

1963年 1月28日(月)
 卓球をしているとき、野々村さんがきた。
中学校講堂

西那須野中学校講堂 野々村さんが来たのは西那須野中学校の講堂である。
 高野悦子は西那須野中学校で卓球部に所属していた。
卓球部は講堂の一部に卓球台を並べて練習をしていた。
 野々村さんは、小学校時代の同級生男子で中学校では柔道部員。同学年だが中学校ではずっと別のクラスだった。柔道部も講堂の一部に畳を敷いて稽古をしていた。

 講堂は現存せず、1969年1月に体育館が完成している。
西那須野町立西那須野中学校

1963年 2月10日(日)
 役場の後ろにあるキリスト教会にいった。
西那須野町役場

 西那須野町役場は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)扇町にあった。高野悦子の自宅のすぐ近くである。
キリスト教会地図西那須野町役場
 建物は現存せず、現在は那須塩原市の倉庫になっている。ただ入口の松だけが往時を物語っている。
西那須野町役場跡
 西那須野町役場は、1990年に栃木県西那須野町(現・那須塩原市)あたご町に新築・移転した。新築後の庁舎は、2005年に西那須野町が黒磯市および塩原町と合併して那須塩原市が発足してからは、那須塩原市西那須野支所になっている。

 役場の後ろにあるキリスト教会は、栃木キリストの幕屋である。
栃木キリストの幕屋
栃木キリストの幕屋 栃木キリストの幕屋は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)扇町にあった新宗教の会堂(地図上参照)。
 栃木キリストの幕屋は1959年、栃木県西那須野町扇町に創設された。1948年に手島郁郎によって設立された無教会主義の宗教団体「キリストの幕屋」の流れをくむ。1962年には高橋久雄が着任した。
 「キリストの幕屋」は、キリストの文字が入っているが、カトリックやプロテスタントなどの一般的なキリスト教会とは無関係の日本独自の団体である。機関紙「生命の光」を出し、政治的には右翼の立場で活動を行っている。
 1956年に建てられた会堂の建物は現存している(「西那須野町の宗教史」(西那須野町、1991年)参考)
1963年 3月31日(日)
 ピアノを練習した。バイエルの五十八ページあたりまでした。いま考えるとピアノをつづけていればよかったなあと思った。
ピアノを演奏する高野悦子 高野悦子は1957年、8歳の時からピアノを習った。当時の西那須野町でピアノを習っていた女子は多くはなかった。
 バイエルは、ドイツの作曲家、フェルディナント・バイエル(1806-1863)のいわゆるバイエルピアノ教則本のことである。バイエルピアノ教則本は、ピアノ練習の初心者向けの内容である。
 1963年3月4日、西那須野中学校でPTAが新たに寄贈したピアノを披露する全校音楽会が開かれ、高野悦子は全校生徒を前にグランドピアノを演奏した。
☞二十歳の原点1969年3月16日「ホテルの宴会場にピアノがあった」
 高野悦子がピアノを習ったのは、竹内勝次の奥さんである。
竹内医院

 竹内勝次は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)永田町で竹内医院を開いていた。1947年開院の竹内医院は内科・小児科で、竹内勝次は高野悦子のかかり付けの医師だった。
 奥さんがピアノの講師をしていた。
竹内医院地図竹内医院跡
 竹内勝次は西那須野中学校PTA会長を2期(1948年~1950年)、西那須野町議会議員を5期(1951年~1972年)歴任するとともに、地元の文芸同人誌「那須文学」の編集メンバーの一人であった。
 竹内勝次は1969年夏、高野悦子の父・高野三郎が高野悦子の日記をまとめ始めていた原稿用紙を見て、那須文学への掲載を勧めた
 さらに那須文学編集室が、日記のうち学生運動にかかる1969年3月8日から6月23日未明までの4か月分の記述だけを掲載しようとしたのに対して、竹内勝次は、誕生日である1月2日以降の記述も掲載するよう強く求めた。結局、那須文学には「二十歳の原点」と同期間である1月2日から6月23日未明までの日記の記述がまとめて掲載されることになる(『一部・二部に分けたわけ』「那須文学第9号」(那須文学社、1970年)参考)
 竹内勝次は「二十歳の原点」の文学的価値を最初に見出した人物といえる。
 竹内医院は1974年5月に閉院した。建物は現存せず、駐車場になっている。

1963年 4月 4日(木)
 三チャンネルでピアノのおけいこという番組をみたからだ。ピアノのレッスンをやめてしまったので、テレビから吸収しようというわけだ。だけど月よう日と水よう日のちょうどその時間には二人の好きな「ミスターエド」がある。

 三チャンネルはNHK教育テレビ(現・NHKEテレ(地上デジタル2チャンネル))。
 ピアノのおけいこは、ピアノ初心者を対象にした実技習得のための講座番組である。講師は作曲家で後のTBS系「家族そろって歌合戦」審査員でも知られる高木東六(1904-2006)だった。当時の放送時間は月曜日と水曜日の午後7時00分~午後7時30分。
当時の新聞テレビ欄ミスター・エド
 ミスター・エドは、人間の言葉を話す馬のエドと飼い主夫婦を主人公とするアメリカのテレビホームドラマである。エドの声の日本語吹替は三遊亭小金馬(現・四代目三遊亭金馬)だった。フジテレビでナショナルリビング劇場として月曜日午後7時00分~午後7時30分に放送されていた。

 「昭和34年(1959)年ごろになると西那須野町でも少しずつテレビが普及しはじめ」、「そして昭和35~37年には、一般家庭に急速に普及していった」(『社会の変化とオリンピック』「西那須野町の社会世相史」(西那須野町、2004年))

高野悦子の“お気に入りテレビ番組”

 日記の記述にはないが、高野悦子は西那須野中学校時代に行なわれた“お気に入りテレビ番組”のアンケートで、中学2年生の時に「ホームラン教室」、中学3年生の時に「うちのママは世界一」「てなもんや三度笠」と回答していることがわかった。いずれも当時は白黒テレビ放送である。

うちのママは世界一 ホームラン教室は、牟田悌三(1928-2009)が父親役を演じるパン店の子供(小柳徹(1948-1969))を主人公とした少年野球チームの子どもたちに学校や家庭で起きる問題を描いたホームドラマである。
 NHK総合テレビの「子供の時間」で土曜日午後6時35分~午後6時50分に放送されていた。
 うちのママは世界一は、米ABCテレビ制作でドナ・リード(1921-1986)が母親役を演じるアメリカの中流家庭を舞台にしたホームコメディである。
 TBSテレビで火曜日午後7時00分から午後7時30分に放送されていた。日本版の番組主題歌に番組スポンサーである味の素の名前が入っていたことでも知られる。この放送時間帯は上記の日記の記述にある「ミスター・エド」が放送されていなかった曜日にあたる。
 てなもんや三度笠は、藤田まこと(1933-2010)と白木みのる(1934-)が演じる「てなもんやコンビ」が江戸時代に全国を旅するという設定のコメディである。ギャグやドタバタ芸それにミュージカルの要素などが混じったバラエティとして、テレビ史に残る有名番組。
 大阪・朝日放送製作でTBSテレビでは日曜日午後6時00分から午後6時30分に放送されていた。1963年においては11月24日放送分が視聴率40.5%(関東地区)で、年間視聴率の17位に入っている。
 このように見ると、当時の高野家のお茶の間では、他のテレビがある家庭と同じく、夕方からテレビを見ていたのが日常だったとみられる。
高野悦子「二十歳の原点」案内