高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 2月 8日(土)②

元・立命大文闘委リーダー・中村大蔵氏「静かにほほえんでいた彼女」

 高野悦子は「二十歳の原点序章」1967年4月15日に以下の記述をしている。
 日本史を勉強しようと集まった人達ばかりなのに、上級回生にいくにつれ、個性味あふれる人が多い。「ヘソを見せてお互いにつきあおう」とか、

 ここで「ヘソを見せてお互いにつきあおう」と言った上級回生が、現在、社会福祉法人阪神共同福祉会(兵庫・尼崎市)理事長の中村大蔵氏である。

 文闘委が学大を性急にデッチあげたと言うならば、

 「二十歳の原点」で1969年2月8日に初めて出てくる文闘委とは、立命館大学全学共闘会議(全共闘)の文学部闘争委員会(反代々木系)のことである。
 中村氏は当時、立命館大学全共闘文闘委で実質的なリーダーとして活動していた。立命館大学文学部日本史学専攻1965年入学の1969年卒業で、高野悦子の2学年上にあたる。高野悦子と全共闘活動を中心に話をうかがった。

上品で育ちがいい子
 中村:高野悦子が入学した時に清浄華院で開かれた日本史専攻の新入生歓迎会(1967年4月15日)。「二十歳の原点序章」では「ヘソを見せてお互いにつきあおう」という変わったことを言う人間がいるというのが出てくるけど、あの先輩というのが私なんだ。「へその見せ合えるような人間関係が望ましい」というようなことを言ったんだね。
新入生歓迎茶話会
 だから彼女がいたことは知ってたけど、ちょっとおとなしい感じだった。上品なタイプで、当時、彼女を積極的にオルグしようとか運動の中に引き入れようとかすることが難しいタイプだった。育ちがいい子という雰囲気で勝手にとらえてた。

新入生歓迎茶話会

 中村大蔵氏は大学3年生の時、日本史学専攻の学生が主体となって取り組む「第18回夏期日本史公開講座」(1967年8月17日~23日開催)の実行委員長を務めている。

清心館付近での様子 記憶によく残っているのは、立命館大学広小路キャンパスで、われわれが文学部のある清心館の前で立て看を立ててアジったりビラをまいたりしてた時だった。
 その様子を彼女はワンダーフォーゲルの活動から今帰ってきたばかりのような格好で、清心館の前の縁石に腰を下ろして、じーっと見ていた。リュックサック姿でよくキャンパスにしゃがんで、前を行く人や学校の中の騒然としていく状況を眺めていたことを知っている。
 それが前後はよくわからないが、だんだん民青から離れワンゲルから離れて、気が付いたら“いた”と。「付かず離れず」から「付いて付いて」という関係になっていた。

立命館大学広小路キャンパス
清心館

ワンゲル当時の写真 私は文学部学生大会の議長をしていた。これは学生大会の日の議長という意味で、推薦されて2回なった。1回目はもう一人の議長も反代々木系だったが、2回目は同時に民青系からも議長が選ばれた。それで議長席で二人で言い合いになって議事運営がまともに進まなかったことを覚えている。4年生の時、両親にもう一年大学にいて全共闘運動を最後までやりたいと言ったら、何が最後かわからないけど、認めてくれた。

 大学については必要な単位を取得済みだったことから1969年に卒業している。

 私には当時の立命館大学当局が標ぼうしていた“民主的運営”とかいうものの実態を知るにつけて、それがあまりにもウソっぽいものだということが見えてきた感じだった。
 文学部事務所に私が事務手続きに行って出ようとした途端、民青系に取り囲まれた。あんなにうまく人がどっと集まるはずがない。事務所の誰かが電話を入れたはずなんだよ、「中村が来てる」って。大学の事務職員がやって来た学生に対して党派別に色分けして反対側の方に通報するなんてあるまじきことだと思う。生協に行った時も態度が違う。生協の食堂で注文した時に共産党系の職員ににらみつけられたりしたこともあった。
 だから「わだつみ像」が倒されたんだと思う。私が思うところの“エセ立命館民主主義”の象徴として存在はすべきでなかったと。あれがあったためにえらい迷惑だったとは思わないけど、ある意味幻惑されるというか、わだつみ像がわだつみ像以上のもののように当局に利用されていったと思った。

 文学部事務所は清心館の1階に、生協食堂は地階にあった。
 1969年5月20日に全共闘学生約190人がわだつみ像前で、「機動隊導入弾劾」集会を開いた。この時、一部の学生が銅像にかけあがり、足元から倒した。
恒心館に機動隊
文闘委の旗

静かにほほえんでいた彼女
 高野悦子は1969年4月28日にバリケードの中の様子を記述している。
 今恒心館にいるが、ここは闘う学生のいる場所だ。とってもうれしいんだよ、ぼくちゃんは。
恒心館入口跡 中村:われわれ文闘委のメンバーが集まってる場所に、高野悦子は存在していた。
 ことさら何かを言って来たわけでもなく、こちらも「何で入ってきたんだ」とか聞かなかったけれど、物静かに入ってきて自然とわれわれの一員だった。静かに、われわれの論争を口を挟むことなく聞いていた。

 全共闘活動に入った人間は千差万別でいろんなのがいる。よくしゃべる人間が圧倒的に多いが、彼女のそういうシーンを見てないんだよね。ワーッてしゃべるというところとかね。論争を買って出る、論争を好むという人がいるよね、やたら難解な言葉を舌足らずで使うタイプが。でも彼女にはそういう記憶はない。

 私の中で「彼女は何を考えてるだろう」という関心はずっと持っていた。同時に、彼女と日常会話以上の会話を交わしたことはないけれども、信頼に足る人物の一人だとは思った。これは本能的な感じで、口が堅いタイプだろうなと。
 それはわれわれが民青だと目してた時から近くに来るまでの過程の中でそう見たんだろうね。
 バリケードで彼女を最初に見た時は、「民青の人間が何で来てるんだろう」と思ってた。全共闘の者はみんな最初、“彼女は元々民青系だったはず”と多かれ少なかれ内心思っていた。全共闘と民青系は対立してたから、私の中の先入観として、まだ民青系に所属している人間じゃないのかと一定の距離は置いていた。
京都大学教養部A号館 でも全共闘で彼女に“スパイじゃないのか”とか問い詰めた者もいなかったし、彼女にはそういうものはなかったと思う。「何であいつが来てるのか」と話題になった記憶がない。
 全共闘と民青系で衝突している時に、彼女が民青側の表に出たことを見たことは一度もない。全共闘と民青が複数と複数で言い合い、ののしり合う時に彼女はいなかったこともある。
 ただそれ以上に彼女が体現してたものが純粋で無垢だったんじゃないかな。

 それがしかし、いつとはなしに、われわれの寝泊まりしていた所に彼女がいた。何がきっかけは覚えてないが、「あ、そうか」というもんでね。
 彼女は、ポツンといるわけじゃなく、自然といて溶け込んでいて、さして目立たず論争に口を挟むこともなかった。黙って聞いていて静かにほほんでいたイメージだった。それは、あっちこっちでやってる論争、青臭い論争も含めてを、じっと耳にしながら一人でほほえんでたというような感じだった。

 高野悦子が泊り込んだ全共闘側のバリケードは、恒心館と京大Cバリ(京都大学教養部)である。
京大Cバリ

デモのイメージ デモの時も彼女は何度かいたと思う。何となくいた。
 デモでは前に好んで出て行くタイプもいるけど、彼女はそうではなかった。デモの時には隊列に入る者、後ろから付いて行く者、歩道側にいて一緒に行く者という3つがいるけど、彼女はデモの隊列には入ってはいるものの先頭ではなく後方にいたと思う。
 デモをしたら途中で帰る者もいるが、彼女については途中で帰った記憶がなくて、だいたい最後までいた。解散地点でアジって簡単な総括をするけど、彼女はその総括までいた。ただ彼女は逮捕された経験まではないと思うけどね。


現在進行形
中村大蔵氏 中村:その高野悦子が突然亡くなったと言われた。
 彼女の姿は亡くなる直前のころまでバリケード封鎖した建物の中で見た。夜みんなが雑魚寝で寝ようとした時に彼女はいて、私は目を覚ました時には姿はなかった。
 私の視野から彼女がいなくなって、特段気にせずに下宿に帰った時に「彼女が亡くなった、自殺した」という連絡が入ったと思う。
 彼女のご両親が京都にお見えになってるということは風の頼りで知ってたけど、会った記憶はない。ただご両親が会いたいのを断ったということもなかったと思う。

 恒心館から京都府立医大に、そこも出て行かざるをえなくなって京大に行って。大学闘争がだんだんと先細っていき、私は身を引くことになってしまった。戦うことの楽しさをだんだんと失っていったのかもしれない。
 70年安保をどこで過ごすかが私の中で最大の関心事になり、それは労働者の町=尼崎だということで、70年安保闘争を尼崎で迎えたつもりが散々の結果になった。
 一年で尼崎を去る予定がここまで来てしまったというのが今の私の現状だ。

 私にとって全共闘活動の経験は切れたとか終わったとは思ってない。続けてるかといえば続けてはいない。でも総括し切ってない。そして総括しようとも思ってない。
 重いモノを引きずっていこうという悲壮感はないけど、簡単に何月何日までに結論が出る問題でもない。あえて性急に結論を出そうとも思わない。
 ずっと現在進行形としてある。

 ※話中に登場する人名の敬称は略した。注は本ホームページの文責で付した。

 中村大蔵氏は当時、その人柄から文闘委メンバーやそれに近かった人の信頼が厚く、全体の“調整役”を担っていたと言われている。文闘委の組織としての代表とは別に、支柱的存在を果たしていた。
 現在も地域の社会福祉の第一線で精力的に活動され、オピニオンリーダー的な役割を果たされている。

 インタビューは2013年6月9日に行った。肩書等は当時のものを用いた。

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