高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年 4月26日(水)
 晴
  4月26日京都:晴・最低6.9℃最高24.8℃。

 あの集いは〝沖縄を返せ〟のうたで最高潮に達したが、
 「沖縄を返せ」(1956年)は、全司法福岡高裁支部作詞・荒木栄作曲による沖縄返還運動の歌。マーチ調で、歌詞の最後で「沖縄を返せ」というフレーズがくり返される。
 ひゃみかちうきりの集いでは、京都うたごえ協議会による〝組曲「沖縄を返せ」〟を参加者も加わって合唱した。
☞1967年4月24日「〝沖縄芸能の夕べ─ひゃみかちうきりの集い〟」

 烏丸通り丸太町から京阪三条まで歩いて帰った。九時二〇分位だったろうか。烏丸通り一帯それから御池通り一帯のお店は閉まっていてひっそりとしていた。
烏丸丸太町から京阪三条 京都府立勤労会館(烏丸丸太町)─烏丸通─御池通─河原町通─三条通─京阪・三条駅。
 京都市中心部の烏丸通と御池通は事業所が多かったため、コンビニもない当時は深夜営業の店は少なかった。河原町通に入ってからは夜遅くまで店が開いていることになる。

 京阪京津線☞1967年4月21日

 空の月がへんだった。満月らしいりんかくはわかるのだが、全体がいつものような白い輝きはなく、赤黒く曇っているのだ。
皆既月食 満月が赤黒く曇っていたのは、1967年4月24日(月)が皆既月食だったためである。
 京都は4月24日夜が快晴だったため、月食を見ることができた。午後8時27分から午後9時46分まで「赤黒い輪郭がかすかにわかるだけの皆既状態」(「京都新聞昭和42年4月25日」(京都新聞社、1967年))が続いた。
 きのう(二十五日)一回生部会に入ろう(歴研では一回生部会がとりやめになった)という人達が集まって
 4月25日(火)午後3時から1年生が集まったと参加者が記録している。メンバーの顔ぶれは4月22日(土)と重なっている。
☞1967年4月22日「十七人の人が集まった」

1967年 4月28日(金)
 雨
  4月28日京都:曇時々雨・最高18.9℃最低15.5℃。昼前から雨模様となった。

 北緯二七度線での海上大会を始め、東京・大阪など各地で沖縄・小笠原の即時返還をめざす大会が開かれた。
 北緯27度線は、沖縄返還前に日本と米軍統治下の沖縄との間にあった国境線。海上大会は、その国境線をはさんで日本(本土)側と沖縄側の双方が漁船で集まり、沖縄返還・本土復帰を訴える大会である。
 小笠原諸島も当時、米軍統治下にあった。1968年の小笠原返還協定により日本に返還された。

 私の日記は奥浩平君のいう〝自虐的な文〟でつづられている。
 「重ねて決心するが、恋心的な、ぐち的な、自慰的な文章を書かぬようにしよう」(奥浩平『中原素子への手紙 一九六三年四月四日』「青春の墓標」(文藝春秋新社、1965年))。

 アンディ・ウィリアムズが来日した。アンディのステージ姿をみたいがきっとだめだろう。でも京都見物にくると思うから見るチャンスはあるだろう。一度はアンディそのものをみたい。
アンディ・ウィリアムス アンディ・ウィリアムス(1927-2012)は、アメリカの大物ポピュラー歌手。当時、テレビ音楽番組「アンディ・ウィリアムス・ショー」(日本ではNHK総合)で日本でも人気を集め、ヘンリー・マンシーニ楽団と組んで初来日して日本公演を行った。なおヘンリー・マンシーニ(1924-1994)はウィリアムスのヒット曲「ムーン・リバー」の作曲を手がけた。
 5月5日(金)午後7時から京都市左京区岡崎最勝寺町の京都会館第一ホールでコンサート「アンディ・ウィリアムス・ショウ」を開いている。曲目はムーン・リバー、酒とバラの日々、マイ・フェア・レディ、夜のストレンジャー、シャレードほかで、S席5,000円・A席3,500円・B席2,200円という当時としては破格の高値だった。
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