高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年 4月30日(日)
 晴

  4月30日京都:晴・最低14.0℃最高27.9℃。

 天皇誕生日の二十九日は、日本史専攻の人達の親ぼく会で宇治の天が瀬ダム、万福寺に行った。前日の雨からは考えられないような快晴で暑いほどであった。
 4月29日(月)午前9時半に広小路キャンパスに集合し、バスに教授らも同乗して天ヶ瀬ダムに向った。参加費250円。
天ヶ瀬ダム

 天ヶ瀬ダムは、京都府宇治市の宇治川(淀川水系)にある建設省(現・国土交通省)のアーチ式コンクリートダムである。
 1953年9月の台風13号で淀川水系では過去最大の大洪水となり、宇治川でも堤防が決壊して周辺に甚大な被害が生じた。これをきっかけに淀川水系の治水計画が大幅に見直され、建設省は1954年の淀川水系改修基本計画で天ヶ瀬ダムを宇治川に建設することを決定した。
 ダムは1955年の地質調査に始まり、1961年に本体建設に着手、1964年11月に完成した。
 琵琶湖国定公園内にあり、ダム完成後はダム湖に遊覧船、また京阪宇治駅からダム前を通る路線バスが運行されていたが、いずれも後に廃止されている。
天ヶ瀬ダム地図ダム入口
 高さ73m幅254mで、洪水防止・水道用水・水力発電の3つの機能をもつ。
 台風などで大雨が降り、洪水の危険が生じた時は、ダムで水量を調節し、宇治川の氾濫を防ぐ。
見学コース下流(宇治川)
 水道は1967年当時、京都府営水道が京都府宇治市、城陽町(現・城陽市)の上水道用水として取水していた。1968年から久御山町、八幡町(現・八幡市)にも給水している。
 水力発電は、関西電力天ヶ瀬発電所が最大92,000kW(人口約10万人分の電力)の発電を行っている。1970年に完成した上流の喜撰山発電所は、天ヶ瀬ダム湖を下部調節池として最大466,000kW(人口約50万人分の電力)の揚水式発電を行っている。
ダムの堤鳳凰湖
 4月29日京都:曇・最低15.2℃最高23.5℃。前日からの雨は朝には止んだ。

天ヶ瀬ダム記念撮影ポイント

 高野悦子は、天ヶ瀬ダムのダム湖湖畔で日本史学専攻の同級生とともに記念写真に写っている。
当時の空撮ダム湖北側の様子
 このダム湖は1987年に「鳳凰湖」と名付けられた。
 記念撮影ポイントはダムの堤を過ぎて、湖畔の散策路を進んだ先である。
天ヶ瀬ダム記念撮影ポイント鳳凰湖前での写真
 記念撮影ポイント付近は当時は水辺までアクセスできた。
 現在、天ヶ瀬ダム付近への公共交通機関はない。最寄りの京阪宇治駅から3.3kmの距離にあり、徒歩(約40分)またはタクシー(約10分)を利用する。行きは上りになるのでタクシー利用が楽である。なおダムには駐車場はない。

 日記の記述はないが、高野悦子はこの日、平等院を見学している。
平等院
 平等院は京都府宇治市にある寺院である。平安時代の1052年、関白・藤原頼道によって父・藤原道長の別荘を改める形で創建された。
 翌年の1053年に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建てられ、それが現在、鳳凰堂と呼ばれている。鳳凰堂は極楽浄土の宮殿をモデルにして、中堂・左右の翼廊・尾廊からなる他に例を見ない建物。本尊の阿弥陀如来の座像は平安時代を代表する仏師、定朝の作であることが確実な現存する唯一の仏像である。当時の拝観料は90円。
宇治市内地図平等院鳳凰堂

 「鳳凰堂が、池の西に左右に翼廊と背後に尾廊をともなった優麗な姿をみせて立っている。さいわい正面の扉が開いていれば、格子の上方に円くあけられた小窓から、本尊阿弥陀如来の慈顔を拝することができる。むかしも多くの人々は、極楽浄土にたとえられた堂内に入るのではなく、このように池をへだててはるかに、弥陀の迎摂を祈ったのであろう」(林屋辰三郎「京都」岩波新書(岩波書店、1962年))
 日記の記述はないが、高野悦子は1965年11月10日(水)、宇都宮女子高校2年生の時の修学旅行でも平等院を訪れており、2度目の見学ということになる。

平等院記念撮影ポイント

 記念撮影ポイントは鳳凰堂正面側で池(阿字池)の前にある広場である。
 鳳凰堂をバックにしなかったのは、祝日の行楽日和で他の観光客が多数おり、鳳凰堂正面側が記念撮影をする人で混雑していたためと考えられる。
寺の全景鳳凰堂正面側
 日本史学専攻の同級生、それに同じ専攻で民青系の上級生と並んで記念写真に写っている。
平等院記念撮影ポイントクラス同級生と
 この記念写真は、高野悦子の学生時代を代表する写真の一枚にもかかわらず、背景に特徴がないため撮影日・場所等がはっきりしなかったが、全て特定された。
西教寺記念撮影ポイント

 万福寺は家光の時代に明の隠元によって創建された寺院で、中国的なにおいがたくさんある。
萬福寺

 萬福寺(万福寺)は京都府宇治市にある寺院で、禅宗の一つである黄檗宗の大本山である(地図上)。
万福寺チケット
 江戸時代の1654年に中国・福建省から来日した僧、隠元隆琦(いんげん・りゅうき)が1661年に開いた。隠元はインゲンマメの名前の由来としても知られる。
 黄檗宗(おうばくしゅう)では儀式作法や経典の読誦が明の時代に制定された中国風で行われていて、建物も中国・明朝の様式を取り入れた構造や配置になっている。当時の拝観料は50円。

 入口にあたる総門は1661年建立。瓦屋根の中央部分が高くて左右が低い段差を設けているのは中国風で、日本の一般的な社寺建築には見かけない。屋根の左右に乗っている魚のようなものは鯱(しゃち)ではなく、マカラという想像上の生物でヒレの代わりに足が生えている。マカラはワニを意味し、東南アジアの仏教寺院の入口などで見られる。
 天王殿(てんのうでん)は1668年建立。寺の玄関にあたるもので、本堂手前にこのような堂を置くのは中国式の建物配置で、日本では珍しい。
総門天王殿
 大雄宝殿(だいおうほうでん)は萬福寺の本堂であり、最も大きい建物である。1668年に建てられた日本で唯一最大のチーク材を使った歴史的建物。屋根は2層あるが2階建てではない。本尊は釈迦三尊像。本堂見学中に同級生でたばこを吸っていた男子学生がおり、「こんな所でばか者!」と前田先生に大声で怒られる場面があったという。
 食堂にあたる斎堂の前には開版と呼ばれる巨大な魚の形をした板がつり下げられている。読経にテンポを与える木魚の原型と言われている。時を知らせるものとして今も使われている。
万福寺本堂開板
 当時は、ここから宇治まで「茶畑にかこまれた道がながくつづいている。「山門を出づれば日本ぞ茶摘唄」の句で知られた景観」(林屋辰三郎「京都」岩波新書(岩波書店、1962年))だった。

 各先生の自己紹介があり、最初に奈良本先生が話した。初めて奈良本先生にあった訳だが、印象を一言でいうならば会社の重役みたいな感じのする人だ。北山先生は人間臭い、一人の生きている人、という感じをうけた。前田先生は誰かがいったが穏和な感じのする人だ。
奈良本辰也 奈良本先生は、立命館大学文学部教授の奈良本辰也(1913-2001)。「立命史学」と呼ばれた当時の立命館大学日本史学専攻の“看板教授”の代表格。近世史が専門で、「吉田松陰」岩波新書(岩波書店、1951年)ほか著書多数。
 北山先生は、同教授の北山茂夫(1909-1984)、古代史が専門で“看板教授”の一人。「万葉の時代」岩波新書(岩波書店、1954年)ほか著書多数。
 前田先生は、同教授(思想史)の前田一良。
 帰路はバスではなく、それぞれ京阪の電車を利用している。
 明日のメーデー参加について
 そして民青とアンチ民青との集会の持ち方の違いも見たい。
☞1967年5月2日
高野悦子「二十歳の原点」案内