高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 1月17日(金)
 立命全共闘が中川会館を封鎖した。
中川会館

 中川会館は、立命館大学広小路キャンパスにあった立命館大学の大学本部棟である。
 1936年12月に建設された。当初は出版部、職員室、総長公室、研究室などがあったが、後に研究室は転出したため、本部棟となった。名称は立命館大学の前身である京都法政学校の創立者、中川小十郎(1866-1944)に由来する。
広小路キャンパス正門と中川会館中川会館
 寮連合(立命館大学寮自治会連合)とそのバックにいた全共闘準備会(立命館大学全学共闘会議準備会)(いわゆる反代々木系)が1969年1月16日(木)未明、中川会館を封鎖した。
 立命館大学では1968年11月以来、寮の費用負担と自治権等をめぐる問題について寮連合と大学学寮委員会(学生部長、舎監らで構成)との交渉が断続的に行われていた。
 寮連合は、寮費の撤廃、水道光熱費の全学大学負担、舎監制度の撤廃など5項目を要求。1969年1月13日(月)、第6回交渉が中川会館総長公室(大会議室)で開催され、約200人の寮生と学寮委員との間で翌14日(火)まで徹夜で続けられた。
 さらに1月15日(水)の第7回交渉で、寮連合は大学学寮委員会の解体、学生部職員の現場配置廃止など3項目の要求を追加したが、大学側は追加の要求について受け入れを保留した。
 一方で全共闘準備会は、「いわゆる『新聞社問題』に端を発した一連の事態は、立命館大学の体制そのものに対する根底的な解明が必要であることを示している」として、大学当局に対して総長告示白紙撤回などとともに、総長・理事長との大衆団交を1月16日に開催するよう公開質問状で要求。「この要求に応じない場合は大学本部を封鎖する」(「総長・理事会との大衆団交開催要求書」(全学共闘会議準備会、1969年1月11日)と通告していた。
中川会館封鎖記事中川会館封鎖 中川会館の封鎖は、これらを受けて、大学側の対応を不満とした寮連合によって1月16日午前4時に行われた。封鎖と同時に全共闘準備会の学生十数人が応援に駆けつけ、中川会館正門入り口に机やいすを積み上げてバリケードを築いた。
 「一般学生が登校して来た午前9時ごろには寮生、全共闘の学生など約50人が学内をデモ行進、また総長との団交を要求する全共闘の学生は「総長選規定草案撤回」など4項目の要求を掲げた看板を立てマイクで一般学生に訴えた」(「立命大も中川会館封鎖」『京都新聞昭和44年1月16日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))
 大学新聞社は「〝国大協路線〟粉砕と寮自治権の確立・受益者負担撤廃を内容とする8項目要求を掲げて13日から続けられてきた寮大衆団交(寮生約200人が参加)で、出席を要請された天野教学担当理事が15日夕刻から雲隠れ、16日には理事全員が〝行方不明〟となるなど、立命館〝無責任〟体制が全面的に露呈、寮連合は、8項目要求の貫徹、理事会との団交を要求して中川会館の封鎖に入るとともに、各寮でスト体制を固めている」(「全寮闘、中川会館を封鎖」『立命館学園新聞昭和44年1月20日』(立命館大学新聞社、1969年))と伝えている。

 これについては「そもそも16日の封鎖は、寮連合が代々木系と目される教学担当の天野和夫理事の団交出席要求をしたのに、天野理事が出てこなかったので決裂したあげくのことであった」(鈴木沙雄「特集・新局面を迎えた大学問題─関西にみる東大紛争の衝撃」『朝日ジャーナル1969年2月9日号』(朝日新聞社、1969年))
 背景として「立命館大では、古くから学振懇といった学生参加の民主的諸制度があるが昨年末、新聞社事件で表面化したように、反日共系や、それに近いノンセクトの学生たちの目には民主的な制度が空どう化しているとしかうつらず、強い不満があった」「日共系の勢力の強いところ。〝野党〟の反日共系各派が足並みをそろえ大学側に団交を要求できるのは、拠点とする寮の問題以外にはない」(「決裂は承知の上で」『京都新聞昭和44年1月16日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))事情があった。
 ※おことわり 本ホームページにおける立命館大学の紛争の説明については、「立命館における「大学紛争」とその克服」『立命館百年史通史二』(立命館、2006年)ならびに『立命館学園新聞』各号(立命館大学新聞社、1969年)に多くをよっている。ただ両書紙の記述も多くの資料引用を含んでいるため、本ホームページではその資料から直接引用する表記をしている場合がある。また両書紙は自身が紛争当事者である大学当局の記録ならびに紛争の一角を占める大学新聞社の記事であることにかんがみ、参考に際しては他の報道・資料の記述を考慮に入れている。
☞1969年6月5日「新聞社事件」
元立命全共闘副議長・大久保哲夫氏「当時の状況と彼女のこと」

 「東大紛争の記録」を読んでも何もわからない。

 「東大紛争の記録」は、東京大学新聞研究所・東大紛争文書研究会編『東大紛争の記録』(日本評論社、1969年)のことである。当時480円。
 「東大紛争はいまや全国民の注視を集めている。入学試験が絶望的となり、全員留年も不可避となった。学生と教官との対立、学生間の流血の抗争は、いつどのような形で収拾されるのか。その行方は単に東大だけでなく、全国の紛争中の大学はもちろん、全大学の将来に決定的な影響を与えることになろう。本書は、いま全世界をゆるがせている大学革命の嵐の中で、もっとも劇的な過程をたどる東大紛争の正確な記録である。安保、三池につぐ戦後日本の体制改革闘争の焦点として、この東大紛争をみるとき、まさに学生諸君必読の文献であるといえる」。
東大紛争の記録表紙

1969年 1月20日(月)
 仏語も休んで一日何をしていたのか、サンデーちゃんを読んでいたーんヨ、タバコをすってフラフラになってサー、それでヨー。

 サンデーちゃんは、マンガ雑誌『週刊少年サンデー』(小学館)または『別冊少年サンデー』(小学館)のことである。

1969年 1月23日(木)
 寮連合は要求の貫徹のために封鎖をやり、クラス討論が数多くなされ、

 全共闘準備会の動きに対して、大学側と一部学友会・二部学友会(民青系)は各クラスのクラス討議を進めた。
 大学側は1月「16日、今年に入ってから積極的に押し進めている「クラス討議」の中で、「総長選挙規程改正案討議資料」などのパンフを各クラスに配布した。
 このパンフは、1、大学自治について 2、総長選挙規程改正案要綱の提起にあたって 3、総長選挙規程改正案要綱の3章からなっており、本学の「大学自治」の基本的な把握、総長選挙の歴史的な総括と今回の改正の基本的な視点などが述べられている。
 またこの「クラス討議」の中で文、法、産社学部では、16日の全共闘(準)主催の大衆団交を拒否した各教授会の基本的な見解を口頭で案に示した。これによると「全共闘(準)は非合法組織であり、大衆団交は、立命館の民主的諸制度を否定する考えの上に立っている」という骨子のものである」(「大学側、パンフを配る─総長選挙問題」『立命館学園新聞昭和44年1月20日』(立命館大学新聞社、1969年))
 そして封鎖解除の「クラス決議」をしたクラスもあった。

 全学集会も開かれ、学生も教職員も活発に動いている。
全立命館一万人集会 1月20日(月)正午、大学主催、五者共闘会議(教職員組合・生協労働組合・生協理事会・一部学友会・二部学友会)(共産党・民青系)参加による全学集会「封鎖解除・学寮委員解放・正常な話し合いを実現する全立命館一万人集会」が広小路キャンパスで開かれ、学生・教職員ら約5,000人が参加した。
 集会では、末川博立命館大学総長が寮連合に対して呼びかけを行うとともに、封鎖の即時解除が決議された。
 これに対して寮連合と全共闘準備会(反民青系)は中川会館前で「団交貫徹総決起集会」を開いて、メンバーらの演説などで封鎖の正当性を主張した。
 午後4時すぎから、全学集会に参加した学友会・教職員・生協職員ら約2,000人が封鎖解除をめざして中川会館へ向かった。
 しかし、会館前にバリケードを築いて固めていた全共闘準備会の学生によるゲバ棒と投石の抵抗を受けた。さらに体育会などの学生が間に入り、封鎖解除には至らなかった。

 ヘルメットに角棒をもった民青行動隊と全共闘がぶつかったりしている。

民青行動隊と全共闘中川会館封鎖 1月22日(水)午後11時15分ごろ、一部学友会・二部学友会(ともに民青系)が、500人強の勢力で、実力によって全共闘準備会の封鎖を解除しようとした。
 しかし、反発する一般学生や体育会所属の学生によって防がれる形となった。

 「反日共系学生が封鎖する中川会館と日共系学生が本拠を構える研心館の狭い広場は、午後10時半すぎから緊張したふん囲気に包まれていた。
 日共系学生の〝実力封鎖解除〟を察知した一般学生400人は広場の中央に4列のスクラムを組んだ。西側の2列は研心館に向かい「民青帰れ」をシュプレヒコール、東側2列は中川会館の封鎖学生に〝暴力反対〟を絶叫した」(「日共系が実力行使、〝阻止〟の学生を中に乱闘」『京都新聞昭和44年1月23日』(京都新聞社、1969年))

 「大学当局から黄色ヘルメット500個が配給され」「ゲバ棒部隊約200人が封鎖された中川会館に突撃した。
 すじ向かいから中川会館を見下す存心館屋上には、援護射撃のため数百人の投石部隊が配置され、京大と同様、放水もおこなわれた。しかし、中川会館は陥落しなかった」(鈴木沙雄「特集・新局面を迎えた大学問題─関西にみる東大紛争の衝撃」『朝日ジャーナル1969年2月9日号』(朝日新聞社、1969年))
 「日共系が中川会館のバリケードをとりこわしにかかっているとき、いつの間にか数をふやしたノンセクト集団が日共系学生の背後を襲い、実力排除を阻止するとともにゲバ棒やヘルメットを取り上げてしまった」(「ニュースの裏話─険しい〝新しい大学〟への道」『夕刊京都昭和44年1月27日』(夕刊京都新聞社、1969年))

 「黄色いヘルメット姿に角材を持った学友会の〝行動隊〟約300人が突然、研心館から中川会館に向って出発、同夜の実力解除の動きを心配していたノンセクトの学生約1000人が「われわれは封鎖には反対するが、あくまで話合いで解決すべきであり、実力解除には反対だ」と叫びながらスクラムを組んでこれを阻止しようとした。
 これに対し〝行動隊〟の数十人は角材でノンセクトの学生になぐりかかり、中川会館バリケードの近くまで接近した。ノンセクトの学生たちは「暴力はやめろ」と叫びながら〝行動隊〟を存心館わきに追いつめた。しかし〝行動隊〟はなおもノンセクトの学生になぐりかかったため、ノンセクトの学生たちは素手で〝行動隊〟の角材を奪い、次々に校庭の外へ投げ捨て〝行動隊〟の学生2、30人を学外へ押出した。23日午前1時現在、残りの〝行動隊〟の学生たちは存心館の中に追込まれ、ノンセクト学生とにらみあっている」(「封鎖解除派の実力行使、一般学生が押出す─立命館大」『朝日新聞(大阪本社)1969年1月23日』(朝日新聞社、1969年))
 「衝突は、23日午前2時すぎ、双方で数十人のけが人を出し、日共系学生が引き揚げておさまった。一般学生はその後、校庭で集会を開き、これらの暴力を激しく非難、また早期解決を図りながら具体的な対策を示さなかった大学側に怒りの声をぶっつけた。これに対し学友会(首脳部は日共系)はマイクで「不当な会館封鎖をする暴力学生のため、いつ機動隊が導入されるかも知れぬ。こんどの実力行使は導入を未然に防ぐための断固たる行動だ」と応しゅうした」(「立命大、大衆団交再開へ」『京都新聞昭和44年1月23日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))

 大学新聞社は「22日から23日の深夜、学友会一派約500人は、全員がヘルメットと角材という〝武装〟で大挙して押し寄せ中川会館封鎖実力解除を強行しようとした。しかし寮連合の学生はもちろん、この日も衝突回避を訴えて校庭に結集していた体育会などの学生500人の前にこの深夜の組織的暴挙は、完全に粉砕された。
 22日午後11時、学友会一派は、突如として大学院屋上から投石、放水でもって中川会館を急襲、そして存心館と連絡する地下道から一斉に殺虫剤を投げ入れた。同時に黄色のヘルメットで完全武装した行動隊が現われ、バリケードに接近した。
 これに対し、有志学生約500人は急拠阻止線を張り、衝突回避に立ち上った。しかし学友会一派は、これを無視し強行突破、さらにはこれらの学生に対しても、放水し、角材をふるうなどの暴挙に出たが結局、多数の学生の怒りの前に圧倒され「民青帰れ」のシュプレヒコールの中を存心館に引き下った」
 「学友会一派のこの実力行使は20日の全学集会での一方的な最後通告(20日正午までに教職員の身柄と封鎖解除を行え)を盾にし〝正当防衛権〟なるもとに強行した、きわめて政治的な暴挙である」(「大学側暴挙に〝加担〟─学友会、放水・投石で中川会館襲撃」『立命館学園新聞昭和44年1月25日』(立命館大学新聞社、1969年))と反発した。

 これをきっかけに理事会など大学側内部でも一部学友会・二部学友会に対する批判の声が出ることになる。
 当時、立命館大学における共産党(立命館大学ブロック委員会)のトップだった学友会幹部は、学友会の実力行使が「失敗するや否や、『実力行使が間違いであった』との意見が学園内に一気に噴き出した。学内のあらゆる場所で『実力行使をしたことの是非』が大激論になった。そして広小路キャンパスでは誰が持ち込んだかわからないが、いくつものドラム缶や石油缶に薪を入れ火を焚き、その周りで幾重にも学生が集まり深夜まで『封鎖』を巡って激論が交わされた。そしてその間をヘルメット、ゲバ棒姿の全共闘がデモをするという異様な光景が毎日見られた」(鈴木元「立命館の大学紛争とは-経過と時代-」『立命館・大学紛争の五ヵ月・1969』(文理閣、2013年))と述懐している。
民青

 師岡問題が起り、北山さんが二十二日に辞表を出し、今日からの試験も二十五日に延期になった。

 師岡問題とは、大要以下の通りである。
 「文学部日本史の師岡佑行非常勤講師が、教壇で「民青は非暴力主義を唱えながら、隠微な暴力をふるってサークル活動を圧殺する。学生諸君はすべからくヘルメットとゲバ棒でやれ」と講義したのをとらえて、代々木系の文学部二部学友会が、教授会に、師岡講師の言動は立命館の「平和と民主主義」という教学理念に反するという公開質問状を出した。
 教授会では師岡講師に説明を求め、師岡講師は事情説明の文書を教授会に提出したが、教授会で代々木系であるとされる岩井忠熊教授が、「暴力肯定である」と発言、師岡講師は1968年度限りで講義を委嘱されないことになる」
 「非代々木系の突き上げの中で、調査に同意した北山茂夫教授(非代々木系)」「が辞任」(鈴木沙雄「特集・新局面を迎えた大学問題─関西にみる東大紛争の衝撃」『朝日ジャーナル1969年2月9日号』(朝日新聞社、1969年))した。
 この記事に対して教授の岩井忠熊が抗議し、朝日ジャーナルは「岩井忠熊教授の発言以下を「思想、研究の自由の立場から、事件が師岡講師の進退問題に及ぶことに反対したが、大学紛争の混乱から毎年一月に決められていた講師委嘱が決定されなかった」と改めます」(「編集部から」『朝日ジャーナル1969年3月2日号』(朝日新聞社、1969年))と訂正している。
 ただ発言の内容以前に、二部学友会の質問状に(師岡発言は)「暴力肯定」とあり、この質問状は二部学友会から二部協議会を通じる形で文学部教授会に出されている。その二部協議会に文学部から選出されていたのが岩井だったことから、岩井が本問題と無関係だったとは考えにくい。
☞1969年2月25日「試験延期」
☞二十歳の原点序章1968年4月12日「北山先生の史学史をムリしてとることにした」

 門を入れば存心館があり、中川会館があり、大学院建物、学館がある。それを自明のものとしてみていたが、大学院校舎が建てられた時は、清心館や研心館は建てられていなかった。

 広小路キャンパスで校舎が完成したのは、存心館が1928年(1954年増築)、中川会館が1936年、大学院棟が1950年である。研心館は1953年、清心館は1957年に完成した。
立命館大学広小路キャンパス

 「産社」は私が高二の一九六五年に講義開始である。

 産業社会学部は、広小路キャンパスの敷地内ではなく、河原町通りをはさんで南東にあたる恒心館を校舎として主に利用していた。
恒心館

 研究室会議、五者会議、学振懇、全学協議会、補導会議……それらの会議で何が行われているかもあまり知らない。

 当時の立命館大学には学生参加の協議機関が上から3段階あった。
・全学協議会…理事会、教授会、学友会、教職員組合
・学園振興懇談会…各学部長(理事)、学友会(自治会)、大学院生協議会、教職員組合
・学部五者会談…学部長、教学主事(教務担当教員)、補導主事(学生担当教員)、事務長、学部自治会代表
 また文学部では独自に各専攻別に研究室会議があった。
・研究室会議…教授以下教員、大学院生、学部学生
 一方、補導会議は総長・学部長がメンバーである学生補導関係の大学側の機関である。
☞二十歳の原点序章1967年9月15日「きのうの学振懇は」

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