高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 2月 6日(木)①
 北京放送をきき、

 北京放送は、中国国営の日本語放送。なお当時はまだ日中国交正常化前である。
 高野悦子のラジオは短波放送を受信できた。

 インターナショナルを歌う。

 インターナショナルは、フランスから広まった社会主義運動の歌。
☞1969年4月29日「起て うえたるものよ」

 社学同が入試阻止をもちだす、機動隊が導入される、八日がやまだという。

封鎖が続く中川会館 立命館大学の昭和44年度入試の願書受付は2月6日午後6時に締め切られた。志願者総数は75,635人(前年比1,397人増)で過去最高、競争率は平均28.3倍だった。日本史学科は志望者が1,926人で、看板教授が抜けたにもかかわらず前年より82人増えた。

 社学同は、社会主義学生同盟の通称で、全共闘準備会の一派である。
 中川会館封鎖の局面で、シンパを除くコアメンバーで最も人数がいたセクトは社学同で、80~100人程度と言われている。
 社学同は2月6日(木)、入学試験「実力阻止」(中川会館前立て看板および社学同立命支部1969年2月6日付ビラ)を打ち出した。
 入試阻止の理由として「学園のワクを超えた、全人民的な政治闘争」に発展させるためなどとした。「同派の学生の話では、中核派もこの動きに同調しているという。封鎖中の中川会館前には実力阻止を訴える立て看板が出され、このなかで社学同側は、これまで三派の主流を占めてきたとみられるフロント派に対し「闘争を反日共系、反当局の自己批判だけにとどめ、改良主義におち入っている」と攻撃を加えており、封鎖派内部の対立を表面化させたものとして、一般学生らの関心を集めた」(『立命大入試に暗影─反日共系、実力阻止の方針』「京都新聞昭和44年2月7日」(京都新聞社、1969年))
 一方で寮連合が大学当局に対して、2月8日(土)に理事会との公開交渉を開くよう要求していた。

 八木さんからレッドの角びんを借り一杯半のんだ。

 レッドは、ウイスキー2級のサントリーレッドのこと。当時は普通瓶500円、ダブルサイズ900円。
サントリーレッド
レッドを借りた隣室・八木さん「あのころ荒れていた彼女」

 酔いながら牧野さんのところへいく。
 牧野さんは立命館大学文学部史学科日本史学専攻の同級生(1967年入学)である。この点について日記に明確な記述は登場しない。
☞二十歳の原点序章1968年1月13日「牧野さんとテストがおわったら旅行に行くことを決める」
☞二十歳の原点序章1968年2月7日「彼女のプロフィール」
 牧野さんのところは、同じ下宿(原田方)の隣の部屋である。
原田方

 橋本君? 酒井君?

 橋本君および酒井君は、日本史学専攻の同級生男子(仮名)。

1969年 2月 7日(金)
 嵐山にでもマラソンに行けばよかったんだ。走り疲れたら、桂川べりで水の流れる音をきき、夜空の星に歌う。

 マラソンは、ジョギングのこと。ジョギングという言葉はまだ一般的でなかった。
 前日の2月6日京都:雪・最低-3.3℃最高3.1℃。夜になって晴れた。
嵐山

 ブルジョア新聞を読んで、あせりを感じるようでは、そんな怪物に太刀打ちできない。
 ブルジョワ新聞は、商業主義的な新聞つまり一般紙(朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞、各地方新聞等)を意味する当時の俗語のことである。
高野悦子「二十歳の原点」案内