高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 3月16日(日)
 きのう、お目ざめの時、空は青空だった。春に近いことを思わせる。ブルーの空と純白の雲、あの雲の中をフワフワ飛んでみたらなんて夢想にふける。

 3月15日(土)の京都:晴・最低1.0℃最高12.3℃。明け方は快晴で、朝から雲が出てきた。

 「松尾」で食事した。お金もないのに、計二七〇円。「松尾」で知床半島の写真をみて海と原始的な自然にひかれる。
松尾

 松尾は、京都市右京区(現・西京区)嵐山宮ノ前町のそば店である。現在の店名表記は「松尾そば」。
松尾そば地図松尾そば外観
 1968年創業で、店内の様子は当時とほとんど変わっていない。
 店の人の話によると、原田さんの下宿の女子学生が連れ立ってよく食べに来ていた。当時は天ぷらそばが180円、きつねうどんが80円で、計270円だと麺類におでんをセットしたと考えられるとのこと。また知床半島の写真は、店内にあった写真ではないかという。

松尾そば店内 現在の店の主人は立命館大学法学部出身で、高野悦子の1学年下(1968年入学)にあたる。主人は「自分もシアンクレールなどに入ったことがある。「二十歳の原点」に登場する店は当時の学生がよく行っていた所が多く、高野悦子さんも普通の学生だったんじゃないかな」と話している。
 松尾そばは2016年に閉店した。

 ホテルの宴会場にピアノがあった。うれしくなって飛びついた。

 宴会場は「平安の間」である。
 高野悦子は1957年からピアノのけいこをはじめた。
西那須野での生活1963年②

 「白い恋人達」

 白い恋人達は、フランシス・レイ作曲による、映画「白い恋人たち」(1968年)の主題曲「白い恋人たち」である。
 国内では、キングレコードが1968年10月1日にサウンドトラック版を発売し、売上30.9万枚、オリコン最高8位。
☞二十歳の原点序章1968年12月10日「「白い恋人たち」を見に行ったのは事実だし」

 「エリーゼのために」第一楽章をひいて、

 エリーゼのためには、ベートーヴェン作曲のピアノ曲である。

 京都国際ホテルにウエイトレスとしてアルバイトに行き一つの働く世界を知った。

京都国際ホテル

 京都国際ホテルは、京都市中京区堀川通二条角にあったホテルである。当時は油小路通二条下ル側がメインエントランスだった。
京都国際ホテル外観ホテル地図
 藤田観光チェーンとして1961年8月に㈱国際観光会館が開業した。
ホテルオープン時の油小路通側ホテルオープン時の堀川通側
 京都で初めての本格的なシティホテルであり、当時は最も大きいホテルだった。
開業当時のホテル入口1969年当時の状況
 ところが同ホテルでは1967年4月5日(水)朝「火事があり、外人客ら満員の宿泊客570人はシュノーケル車などで避難したが、14人がケガ」(『京都国際ホテルで朝火事』「京都新聞(夕刊)昭和42年4月5日」(京都新聞社、1967年))する事態となった。
 1967年8月から藤田観光の子会社である㈱京都国際ホテルとなった。同社は1972年に藤田観光に吸収合併となる。
 2001年からは藤田観光子会社の藤田ホテルマネジメント(京都市中京区)が親会社から建物等を賃借する形で営業している。
☞1969年4月9日「(藤田観光では」
ホールのカラー写真
 地下1階地上10階(塔屋2階)で当時350室700人収容と京都で有数の規模を誇った。
メイン・ダイニングのカラー写真
 地下1階にホール、1・2階にはロビー、航空会社オフィス、ショッピングアーケード、宴会場があり、3階から10階までが客室だった。

平安の間の写真

 京都国際ホテルでは翌年の大阪万博に備えて、1階北の二条通側を新装したばかりだった。
 高野悦子が京都国際ホテルでウエイトレスのアルバイトを始めたのは、下宿(原田方)の友人の紹介による。

☞巻末高野悦子略歴
レッドを借りた隣室・八木さん「あのころ荒れていた彼女」

 当時、京都国際ホテルには、レストラン7店とカクテルラウンジ3店があった。当時の主な店を以下に紹介する(営業時間は通常時)
[1階・地階]
ロビーラウンジ
・グリル 10:30-22:00 世界の料理各種(350円-)
 アラカルトで気軽に食事を楽しめるレストラン。
・割烹ほり川 18:00-24:00 すし・割烹料理(200円-)
・レインボーサロン 18:00-22:00 食べ放題バイキング料理(1,200円)
 当時の“ナイトクラブ”の雰囲気で、照明がボタン一つで七色に変化することから名付けられた。セルフサービスのレストランである。
 レインボーサロンは生演奏が売りで、毎週月曜日には“菅美沙緒シャンソンショウ”が開かれていた。菅美沙緒(故人)は、日本のシャンソン歌手の草分け的存在だった。さらに当時同ホテルでは菅美沙緒のシャンソン教室を開いていた。レインボーサロンは昼間はパーティや講演会等に使われた。
グリルレインボーサロン
☞1969年3月30日「黒いオルフェの唄」「太陽がいっぱい」「愛の讃歌」
従業員食堂
[2階]
・メイン・ダイニング 12:00-14:00、18:00-21:00 和・洋食(1,200円-)
 主にコース料理のレストランである。格式が高い位置づけにあった。

テーブル席1966年1969年の状況
☞1969年5月12日「メンダイのパントリーには中村がいました」
☞1969年5月13日「メイン・ダイニングにでもと思ったのだが」
 メイン・ダイニングには、洋食のテーブル席と和食の座敷席(掘りごたつ式)があった。なお毎夕“舞妓おどり”が催されていたはずだが、日記の記述には一切登場しない。
開業当時の座敷席1968年ごろの京都国際ホテル広告
☞1969年3月29日「和食はたった三人になる」
[屋上]
二条城側の眺望
・スターライト・バー 18:00-23:00 飲物・軽食・カクテル(350円-)
 屋上の塔屋にあったバー。京都の夜景を一望に見渡すことができる。
当時のスターライト・バー現在の外観
 京都国際ホテルは1986年に大規模な改装を行い、メインエントランスを堀川通に移すとともに、大宴会場を新設した。
屋上ビヤガーデン

 敷地一帯には、江戸時代後期、福井藩の藩邸があった。堀川通側にある石碑は1968年に建立されていた。
福井藩邸跡石碑敷地南東側の門
 京都市によると、福井藩の「藩邸が置かれたのは比較的新しく、天保2年(1831)の「京大絵図」に描かれている。藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当たった所である。
 福井藩は、慶長5年(1600)、徳川家康の二男結城秀康(ゆうき・ひでやす)が封ぜられたのに始まる親藩(しんぱん)の雄藩で、石高は最大68万石、江戸中期以後は32万石。幕末に松平慶永(まつだいら・よしなが)が藩主となってから、人材を登用して藩政を改革し、水戸藩とともに幕府政治の改革に乗り出し、更に、公武合体運動を進めて、幕末政局に一方の旗頭となって活躍した。この藩邸は、幕末の福井藩の活躍にとって大きな役割を果たした」とされる。

京都国際ホテルの閉館

 京都国際ホテルは2014年12月26日(金)に営業を終了した。閉館時点の館内の主な様子を紹介する。
開業当時の外観メインエントランス
[外観・入口]
 ここでは1969年当時のメインエントランスがあった油小路通二条下ル側から見る。
 駐車場の出入りを便利にするために外塀をカットした以外は開業当時から大きく変わらなかった。当時のメインエントランスも前の樹木が育った以外はほとんど変わっていない。
油小路側外観駐車場出入り口
[1階]
・フロント
 フロントはメインエントランスの移動に伴って移設された。それでも堀川通側のエントランスからは長い動線となった。
開業当時のフロント現在のフロント
・ロビーラウンジ
 ラウンジの位置は変わらなかったが、奥の壁の特徴ある壁画は刺しゅうからタイルになった。
開業当時のラウンジラウンジの壁画
[2階]
 2階は宴会需要に対応するため、多くの改装が行われてきた。
2階案内図2階ロビー
 メイン・ダイニング跡は宴会場「扇の間」「クリスタルルーム」(計468㎡)となった。左下のメイン・ダイニング入口跡の写真の右奥付近がパントリーの位置とみられる。
メイン・ダイニング入口跡メイン・ダイニング窓側
 「平安の間」(400㎡)は当初と同じ位置のまま最後まで残った。
平安の間入口平安の間窓側
メイン・ダイニング側テラス平安の間側テラス
[屋上]
 長らく夏季にビヤガーデンを開いていた屋上は、最近は使用されなくなっていた。
夜の噴水屋上東側
 閉館の日に屋上の様子を撮影した方から写真をご提供いただいた。ここに改めて謝意を表する。
屋上エレベーターホール塔屋1階
スターライト・バー跡屋上南側
 塔屋1階の写真の電話が日記の記述にある「テレ」の回線の名残の可能性がある。
☞1969年5月7日「五〇〇名とあまり混んでいなかったので」
☞1969年5月8日「バイトが終ったあとで屋上にいってね、星空を眺めながら煙草の煙を夜空にプウーッと吐き出しちゃった」
☞1969年5月17日「屋上で中村さんにテレし」
☞1969年6月14日「今日、中村はビヤガーデンにきていた。調理場でキュウリを切ったりカツをあげたり」
☞1969年6月21日「明日屋上に本をとりにくるということです」
[客室]
 客室は3階から10階まで、最終的には274室あった。
客室廊下開業当時の洋室
 本ホームページ編集人は、2014年12月20日(土)に宿泊した。屋上すぐ下の10階街側だった。
現在の客室室内の様子
 閉館間際のため設備更新がないのはやむをえないが、それ以外は料金の割に大変すばらしかった。スタッフの対応もしっかりしていた。

京都国際ホテルを送る会案内状 閉館に先立ち、ホテルOB有志による「京都国際ホテルを送る会」が2014年10月10日(金)夜に開催された。
 案内状には「「京都国際ホテル」は1961年8月16日に開業いたしました。以来53年の永きにわたりご愛顧頂いて参りましたが、本年の12月26日朝食をもって、営業を終了いたします。今現在も多くのお客様から閉館を惜しむお言葉を多数頂戴いたしており、ご愛顧いただいてきたお客様には、感謝の意を表し謝恩プランの販売や各種イベントの開催を実施していきます。
 また一方で、ホテルを支えてきて下さったOBの方々からも名残りを惜しむ多くの声が届いているため、この度OB有志を発起人として表記の「送る会」を開催することとなりました。是非、多くの皆さまにご参加を頂き、懐かしい方々との愉しいひとときをお過ごしください」と書かれていた。

 「世界遺産・二条城の前に立つホテルとして親しまれた「京都国際ホテル」(中京区、274室)が26日、営業を終え、常連客らが53年の歴史に別れを告げた。1961年8月に開業。二条城前の立地だけでなく、舞妓の踊りや白鳥の泳ぐ日本庭園が人気で、東映の映画スタッフや俳優も利用したという」
 「この日午前11時過ぎ、スタッフ約400人が玄関で、最後の客となった常連の夫婦を見送った」(『53年の歴史に幕─京都国際ホテル』「読売新聞(大阪本社)2014年12月27日」(読売新聞社、2014年))
ホテル空撮
 京都国際ホテルの跡地は阪急不動産(大阪市)が取得した。
グランド・フィナーレ

 「悲愴」をウィルヘルム・ケムプで聞きたい。

 悲愴は、ベートーヴェン作曲のピアノソナタ第8番ハ短調作品13「悲愴」。
 ウィルヘルム・ケムプ(英語読み)は、ドイツのピアニスト、ヴィルヘルム・ケンプ(1895-1991)。
 ここでは、ケンプのアルバム「ピアノ・ソナタ集」(1965年1月録音)(日本グラモフォン(現・ユニバーサルミュージック))を指す。発売当時2,000円。
ケンプのレコードサントリー角瓶広告

 角びんで三センチの高さぐらい。

 角びんは、ウイスキーのサントリー角瓶(上は当時の広告)。当時720mlで1,450円。当時はアルコール度数が43度で酒税法の特級ウイスキーだった。その後酒税法の分類が廃止され、アルコール度数も40度になっている。

 「ね、おはなしよんで」を朗読し、

ね、おはなしよんで 与田準一等編「ね、おはなしよんで」(童心社、1962年)は、幼児向け図書。
 人間形成を考えた内外の作品11編を編集、いわさきちひろ(1918-1974)のイラストが使われている。幼児が自分で読むためというより、家庭や保育園・幼稚園で子どもに読んで聞かせるための話と詩の本である。編者の与田準一(1905-1997)は昭和を代表する日本の児童文学者。
☞二十歳の原点序章1968年12月12日「一日に三十分、童話を朗読するのも楽しい」

 松尾公園で「夕暮、芝生に寝ころんで童話の本「ネ、お話よんで」を大きな声で読んでいた姿、とても純粋で可愛いくて忘れられません」手紙(立命大。高野家宛)(『高野悦子さんを囲んで』「那須文学第10号」(那須文学社、1971年))

 石原吉郎の「確認されない死の中で」を読んだ。
 石原吉郎『確認されない死のなかで─強制収容所における一人の死─』前掲「現代詩手帖1969年2月号」。

 このノートも終りである。
極東ノートステッチレス  このノートは、極東ノート(現・キョクトウ・アソシエイツ)「ステッチレス」。
 1968年10月9日付記述から使用していたものである。表紙にタイトルはないが、〝でんち(電池)〟〝タオル〟という小さな走り書きがある。

 最後となる次のノートも同じ「ステッチレス」で、1969年3月25日から記述している。最後のノートには表紙にタイトルとして〝かるちえ〟と書かれている。
 かるちえはフランス・パリのセーヌ川左岸区域の地名、カルチエ・ラタン(Quartier latin)のことである。カルチエは日本語の地区(英語のquarter)、ラタンはラテン語のことで、カルチエ・ラタンはラテン語のできる人つまり学生が集まる地区という意味になる。パリ大学や高等教育機関が並ぶ学生街として有名で、1960年代、特に五月革命(1968年)のとき、反体制学生運動の中心地だった。
1969年 3月17日(月)
 横なぐりの雨がふるかと思えば、青空の見える、へんな日。

 京都:最高8.7℃最低2.0℃。午後に晴れたり雨が降ったりした。

 サア下宿探しだ。昼学校で夜バイトはしんどいぞ。
 原田方と京都国際ホテルは移動時間がかかることが、転居を決意した大きな要因と考えられる。
高野悦子「二十歳の原点」案内