高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 5月24日(土)②
 五・二二 京大泊りこみ。京大全バリに向けて行動。
京都大学教養部(京大Cバリ)

 京都大学教養部は、京都市左京区吉田二本松町の京都大学総合人間学部の前身である。当時、京都大学全共闘がバリケード封鎖していた(京大Cバリ)。
 京都大学において主に1~2年生を対象に一般教育科目の教育を行う教養課程を行っていた。京大全共闘は各学部ごとに略称を付けており、教養部闘争委員会の略称は“C闘委”だった。
京大バリケード入り口京都大学教養部地図
 立命館大全共闘の学生はバリケード内の京都大学教養部A号館に間借りし、京大全共闘と合流して活動した。上の写真は5月22日(木)朝の京大Cバリ入り口の状況で、高野悦子も見た当時の光景である。
京都大学教養部A号館京都大学総合人間学部正門
 5月21日(水)、京大全共闘は機関紙で「学生部封鎖→全学バリケード封鎖は中教審答申、大学治安立法粉砕を闘う中で政府ブルジョアジーの我々闘う学生への恐怖と憎悪をさらに暴露して行くであろう。そしてこのような立法化策動が、日本帝国主義が要請するところの70年代へ向けての教育の帝国主義的再編をおし進める具体的綱領であることを暴露し、さらに大学自治、学問の自由などの幻想を打破して日帝の砦としての大学を解体し封鎖して行かねばならない。
ストラグル 5月23日、東大安田講堂奪還の闘いに呼応し、ASPAC、外相の訪米阻止の闘いを全関西5000の学友を京大に総結集しよう。全学バリケード封鎖はこのような闘いの拠点であり6・15全国総決起、70年安保粉砕から70年代階級闘争戦線構築の砦である。
 われわれは、この全学バリに敵対するあらゆる反革命を撃破する」(「5・23全学バリケード占拠へ!」『STRUGGLE第7号』(京大全学共闘会議書記局編集部、1969年))とバリケード封鎖を行う方針を明らかにした。

 そして京都大学では21日「午後から深夜にかけて本部構内の農学部新館、工学部建築学系新館などが全共闘学生らによって封鎖、全学バリケードの構えを見せている。
 きょう22日あさからは拠点となっている教養部構内で鉄パイプ、角材などの建築資材や投石用のコンクリートブロックなどが着々と準備されている」
 「先に恒心館を追われた立命館大全共闘の学生たちが京大全共闘と合流しているものと見られている
(「大学立法粉砕へ決起集会─全共闘派学生〝不穏な動き〟」『夕刊京都昭和44年5月22日』(夕刊京都新聞社、1969年))

 以下の動きについては、立命館大全共闘が関係しているのは間違いないが、高野悦子が最前線で参加したかどうかは確認できない。「行動」と言っても、役割分担で女子学生は食事準備など“後方支援”に回るケースも多かったからである。
京大全バリ行動
 22日午後3時20分ごろ、京大全共闘約400人、立命大全共闘100人、関西学院大全共闘40人など、ヘルメット・角材・鉄パイプで武装した550人が教養部を出て京都大学本部構内に入り、封鎖中の学生部前で総決起集会を開いた。この中で、各大学代表から、大学治安立法粉砕、70年安保粉砕の決意表明があり、その後、直ちに行動提起がなされ、学内デモに移った。
京都大学学生部京都大学教育学部
 一方、午後3時半ごろから学生部北側の教育学部前には、民青系(日共系)学生、一般学生ら約500人が白ハチマキ姿にプラカードなどを持ってすわり込んだ。
 午後4時ごろ、学生部前の集会を終えた全共闘学生は午後4時15分ごろ、教育学部の封鎖行動に入り、投石のあと鉄パイプ、角材をふるって、教育学部前にいた民青系学生を攻撃した。民青系学生も投石などで対抗したが、約10分で西門から排除され、東大路から投石を続けた。

三たび京大本部封鎖 全共闘学生は続いて、民青系学生が教養部自治会をおき、バリケードを築いていた図書館別館(東南アジア研究センター)を攻撃した。同館にこもる民青系学生20人は投石、放水などで抵抗したが、約1時間でバリケードを破られ、午後5時すぎ、全共闘側が占拠した。同館から運び出されたロッカーなどで西門に高さ約4メートルのバリケードが築かれた。
 同じころ北門付近でも全共闘の学生は民青系学生と衝突した。約30分、激しい投石が続けられたあと、民青系学生は北部キャンパスに撤退した。このあと今出川通に面した2つの門にバリケードが築かれた。
 時計台前の正門は、夕刻まで全共闘学生が出入りをチェック、守りを固めていたが、午後7時すぎには、立て看板や机などでバリケード閉鎖。
 午後7時30分ごろ、構内への通路は、正門わきの通用門を残して、全共闘派の〝占拠〟状態になり、本部構内は封鎖された。
 続いて全共闘派の学生約100人は北部を攻撃したが、武装した民青系学生によって撃退され、本部に退いた。この間、封鎖中の農学部新館、理学部事務室は民青系学生により解除され、北部は全面的に民青系学生の制圧する状態となった。理学部正門にもバリケードが築かれ、一晩中本部と北部が対立する形となった。
 この間、機動隊約700人が北白川付近に待機していたが、22日の段階では実力行使に出なかった。京都大学当局は午後10時ごろから部局長会議を開いて対策の検討をはじめた(本項全体について『京都大学百年史資料編2』『京都大学百年史資料編3』(京都大学百年史編集委員会、2001年)、「全共闘700本部を封鎖─民青系学生と武力衝突」『京都大学新聞昭和44年5月26日』(京都大学新聞社、1969年)、『立命館学園新聞昭和44年5月26日』(立命館大学新聞社、1969年)、「三たび京大本部封鎖」『京都新聞昭和44年5月23日』(京都新聞社、1969年)参考)

 高野悦子は、立命館大学全共闘が間借りしている京大Cバリに泊った。電気は切られていなかったが、照明が暗かったと言われている。

 五・二三 労学総決起集会。機動隊乱入。投石してつかまるが帰される。 

京大に機動隊

京大付近での動き この日の動きを時系列に整理する。以下の動きには基本的に立命館大学全共闘も関係しているが、高野悦子がどこから最前線で参加したかどうかは確認できない。
06:00 京都大学当局は、ジープで東大路通と今出川通を巡回、奥田東総長の録音テープで本部および教養部構内の学生に対し「私は京都大学総長です。本学を封鎖・占拠している諸君、すみやかに学外に退去しなさい」との放送を約30分間行った。
06:35 百万遍付近に機動隊約500人が集結、京都府警の「5・23警備本部」も川端警察署長名で〝大学の警告〟を知らせて退去を命じたが、学生は応じなかった。
06:52 京都府警の機動隊は、不退去罪の疑いで、まず今出川通に面した北門バリケードを排除、大型電算機センター付近のサクを乗り越えて構内に入った。
 学生らはクモの子をちらすように離散し、機動隊は無抵抗のうちに文学部前のバリケードなどを撤去した。
06:57 学生が京大時計台前に集まり、投石で抵抗したが、機動隊は構内を制圧。学生はさらに正門のバリケードを火炎ビンで放火しながら本部構内から逃走した。火はすぐに消え大事に至らなかった。
07:12 機動隊はガス弾数十発を発射して応戦、6分後に正門バリケードを解除した。
 このあと約50人の機動隊員は構内西側の学生部(15日から封鎖中)に向かい、2階から子供の頭大の石やコンクリート片を落として激しく抵抗する学生にガス弾20数発を発射したあとハシゴをかけて踏み込み、約40分後に、立てこもっていた8人全員を逮捕した。

 本部を出た全共闘約500人は吉田参道(東一条通)で本部の機動隊に投石を行い、また東山東一条交差点にいた機動隊50人を西に200メートルほど後退させ、簡単な路上バリケードを築いた。
07:30 装備を持つ機動隊はジリジリと前進し、全共闘を教養部構内に押しこめ東一条通は機動隊で埋まった。
 このころ近衛通停留場付近で全共闘約50人は東大路通に路上バリケードを構築し始め、道路をマヒさせていた。
08:45 正門前で東一条通をはさんで石とガス弾の応戦が続く中、機動隊員約100人が吉田グラウンド北西スミの垣根を破って教養部に突入した。
 抵抗をくり返してい学生たちはヘルメットを脱いで、垣根の破れ目などから脱出、逃げ遅れた数人が逮捕された。

 教養部を南下してきた全共闘は近衛通停留場付近の学生たちと合流し東大路通の南北及び東の近衛通の三方に路上バリケードを築いて抵抗したが、機動隊の一隊は教養部の東、近衛通を通って近衛通停留場付近に集まり、装甲車とともに東大路通を南下してきた。
東大路に解放区を築こうとする反日共系学生
 ここで学生と機動隊の間に激しい市街戦が行われ、機動隊は多量のガス弾を撃ち込み、それに応戦する学生も激しい投石を行った。
09:00 学生たちが京大病院構内に入ったので機動隊は東大路通のバリケードを歩道にどけ、一時的に全ての機動隊が東大路通を北上した。このため学生たち約500人は近衛通停留場付近で激しいジグザグデモを行い始めた。
 少しのち教養部に入っていた機動隊約100人が校内を南下し突然吉田寮から東大路通に飛び出してきてジグザグデモの中央部に突入、デモ隊を真二つにした。
 このためデモ隊の一方は医学部構内に入ることができたが他方は東大路通において、はさみ打ちの状態にされ混乱に陥り、9時45分には20数名の学生が逮捕された。

学生の投石を盾でよけ追い詰める機動隊
10:00 教養部構内も全共闘学生が排除され、混乱が一応収まり、全共闘は医学部構内に、機動隊は東一条交差点付近にまとまった。
11:00 機動隊は全員構内から退去した。
けさ京大に機動隊出動12:00 教養部に入った機動隊は、全共闘を追って西門の東大路通へ向ったが、その後に民青系の学生多数が教養部に入り、教養部A号館の封鎖解除などを行った。
12:30 全共闘の学生が本部構内に戻り、約200人が本部時計台前で集会をはじめた。
13:00 京大五者連絡会議が「大学立法粉砕」の全国統一行動の一環として、教育学部と図書館の間の広場で“京大一万人集会”を開き、京大職員組合や同学会(民青系)各自治会の代表が、全共闘糾弾、「大学立法の強行をたくらむ政府・自民党の策動抗議の行動を展開しよう」と呼びかけを行った。
13:30 全共闘は京大医学部付属病院で隊列を組み直し、再び教養部のバリケード封鎖を決め、約1時間ほどで正門のバリケードを築いて再封鎖した。また本部構内の文学部本館・東館、工学部電気総合館なども再封鎖した。

投石の現場にいた立命館大生「一生懸命に石を作ってくれた彼女」

 当時、高野悦子の1学年下にあたる立命館大学文学部史学科日本史学専攻の2年生(1968年入学)で、この日に投石の現場にいたYさんと会って話を聞いた。

 Y:京大に機動隊が入った日だった。高野悦子の姿が印象深かった。
 その時、僕は東大路通の東山東一条交差点より少し北にいた。通りの西側。塀と車道の間で段差がある歩道部分だった。
 東大路通の北の百万遍の方から来た機動隊とにらみ合う距離になり、歩道から機動隊に向って投石をした。
東山東一条1969年高野悦子が石を作っていた場所
 近くにいた彼女は白いヘルメットをかぶっていたが、タオルは口元までしていなかったと思う。本当に真剣な顔で、一生懸命に投石用の石を僕らのために作ってくれた。
 あれは歩道の敷石を剥いだものだったんだろうか。大きな石を道路にぶつけて割ったりして、だまって一心不乱に投石の石を作っていた。それを僕らは投げていた感じだった。投げることに専念していた。
 彼女とその場に居合わせたのは偶然だった。付近で女の子は彼女だけだったと思う。
 火炎ビンが飛んだとされているが、僕のいた周辺では見えなかった。天気が良くて、5月にしては結構暑い日だった。

 5月23日京都:晴・最低15.4℃最高28.7℃。朝からほぼ快晴で気温が上がった。

 われわれは機動隊に追われて東大路通を東山東一条を越えて南に下がり、僕は途中で通りの西側の塀を乗り越えて京大病院に逃げ込んで運良く無事だった。
 彼女が警察に連行されたシーンは見てない。彼女も追われて東大路通を南に逃げたはずで、たまたま遅れて取り残されちゃったんじゃないかと思う。
かつての東大路通近衛付近高野悦子が身柄確保された場所
 この時点で僕はまだ高野悦子という名前を知らなかった。でもはっきりと彼女だとわかった。
 実は以前に恒心館のバリケードで彼女を見かけたことがあった。僕は日本史学専攻だけど基本的に寮、学思寮の部屋に泊まり込んだりしていた。たしか下の階に日本史闘争委員会の部屋があって、彼女はそこに出入りしてたと思う。
 恒心館の廊下とかで2度くらいすれ違ったというか…。硬い表情で会話することはなかった。
 日本史は結構女子学生も多くて、彼女は僕とは学年が違うけど、小柄でキュートな感じじゃない。だから言われれば“あの子だね”ってすぐ思い当たる感じで、それまでデモとかで一緒になったこともないのに、東大路ではっきりわかった。

 学思寮(がくしりょう)は、京都市北区鷹峯南鷹峯町にあった立命館大学の学生寮。1964年完成で学生寮の中では設備等も新しかった。建物は現存せず、現在は住宅が立ち並んでいる。
恒心館

 このあと京大のバリケードで再会することもないまま、6月9日、僕はASPAC粉砕闘争で現地に行って、国鉄・小田原駅で警察に逮捕され、8月まで拘置所にいた。
 彼女が亡くなった話を聞いたのは、9月5日に東京・日比谷野外音楽堂で開かれた全国全共闘結成大会の会場だった。
 「高野さんという人が亡くなったよ、日本史だよ」。
 瞬間、“あっ、高野さんって、あの時の彼女だよな”って、東大路での投石の時を思い出した。本当にその時初めて名前と一致したんだ。そのことは今でもはっきり覚えている。(談)

 6月、「アジア・太平洋協議会(ASPAC)閣僚会議に反対して8日、伊東市内で警官隊と衝突したあと、同夜、横浜市の慶応日吉校舎に引きあげていた反代々木系の一部学生約320人は9日朝、また東海道線で伊東に向ったが、途中、辻堂、小田原両駅で二度にわたって警備に当った神奈川県警の警察官と衝突、学生144人が公務執行妨害、凶器準備集合罪などの現行犯で逮捕され」(「今度は列車内で激突─ASPAC開幕日」『朝日新聞1969年6月9日(夕刊)』(朝日新聞社、1969年))た。

 高野悦子が身柄確保された場所の特定は極めて困難だが、京都市左京区東大路通近衛上ルの京都市電・近衛通停留場付近の可能性がある。

京都府川端警察署

 高野悦子が連行されたのは、京都市左京区東大路通冷泉下ル岡崎徳成町の京都府川端警察署である。
川端署地図
 任意の事情聴取を受けただけで終わり、逮捕されることはなかった。
 聴取後、高野悦子は川端警察署を後にして、全共闘が再封鎖した京大教養部に戻った。

京都府警川端署連行後の動き
 京大では「機動隊が引き揚げた午後、全共闘派の学生たちは再び教養部キャンパスを占拠、正門にバリケードを築き直し、文学部の建て物など再封鎖した。機動隊との衝突で荒れはてた本部構内では日共、反日共系両派の集会が開かれ小ぜりあいなど緊張が夜おそくまで続いた」(「文学部など再封鎖」『京都新聞昭和44年5月24日』(京都新聞社、1969年))
振り切られた・宮原さん「斜めのヘルメットでべそをかいてた彼女」

全関西学生総決起集会当時の京都大学本部
 全関西労学総決起集会は、午後7時から京都大学本部時計台前で開かれ、京大全共闘、立命館大全共闘、関西学院大全共闘や反戦青年委員会など約3,000人が集まった。この中で各大学全共闘や職場反戦などからの闘争報告と決意表明などが行われた。
京都大学本部構内百周年時計台記念館前京都大学本部から円山公園
 午後9時にデモ行進に移り、2,500人が丸太町通、河原町通を通って円山公園に向った。途中、京大病院前で、学生8人が逮捕された。
 デモ隊は円山公園で総括集会を持ったあと午後10時半解散した(本項全体について『京都大学百年史資料編2』『京都大学百年史資料編3』(京都大学百年史編集委員会、2001年)、『京都大学新聞昭和44年5月26日』(京都大学新聞社、1969年)、「けさ京大に機動隊出動、封鎖の500人排除」「都大路…〝わが物顔〟の無法」『京都新聞昭和44年5月23日(夕刊)』(京都新聞社、1969年)、『夕刊京都昭和44年5月23日』(夕刊京都新聞社、1969年)、「大学立法粉砕の突破口に」『立命館学園新聞昭和44年5月26日』(立命館大学新聞社、1969年)参考)

 五・二四 京大にて文闘委の集会

 立命館大学文学部闘争委員会は5月20日以降、京都大学教養部(京大Cバリ)に間借りしており、民青系の力が及ぶ立命館大学広小路キャンパス周辺ではすぐには集会を開けなくなっていた。
 このため京大教養部バリケード内で開かれたもので、5月20日の恒心館への機動隊出動以降の一連の動きを批判したとみられるとともに、今後の闘争の方針として、「広小路(キャンパス)奪還」「情宣」「組織確立」が確認された。
 那須文学社版の記述では「大学臨時措置法案が…」の段落の次に出てくる。

 大学臨時措置法案が「朝日」に出る。大学機能正常化のための紛争処理法と称するが、

大学立法朝日記事  『朝日新聞(大阪本社)1969年5月22日』(朝日新聞社、1969年)である。
 「大学立法をめぐる政府、自民党の意見調整は21日から本格的に動きだしたが、佐藤首相は同日午後、坂田文相、根本政調会長ら関係者との会談で「こんどの立法は大学正常化のため、当面の紛争処理に最小限必要なものに限りたい」との基本的な考え方を改めて明らかにした。
 この首相発言は、法案づくりの大詰で焦点となっている「管理運営面の改善措置」について、党側の主張をできるだけ押え、あくまでも紛争処理を中心とした立法内容に限りたい意向をはっきりさせた事実上の〝裁断〟だと政府、自民党首脳は受取っている。
 こうした情勢から、こんどの立法内容は文部省案に近い線に落着く見通しがにわかに強まってきた」(「大学立法は紛争処理中心─ほぼ文部省案通り」『朝日新聞(大阪本社)昭和44年5月22日』(朝日新聞社、1969年))

 中村よ。

 中村へのメッセージは前日までの電話についての振り返りであり、5月24日(土)午前中に書かれた可能性がある。「一○・○○PM」ではなく午前10時(10・00am)とみられる。
☞1969年5月26日「中村がきて、歩いて下宿まで帰る」
中村

 きのうも一昨日もテレしたがあなたはいなかった。

 電話をかけたのは京都国際ホテル男子寮である。
☞1969年5月17日「屋上で中村さんにテレし」

 学生証という薄っぺらな紙きれに己れの存在を託すほど薄っぺらな存在ではないのだ、私は。

 中村へのメッセージ「今まで己れの存在を形づくってきたものが、いかに弱い基盤の上に立っていたかを知る」を受けて、学生である自分の決意を述べた記述である。

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