高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 5月28日(水)
 晴

 京都:晴・最高24.5℃最低12.9℃。未明の雨が朝方までに上った。

 私は何故に十九日全学バリ闘争をたたかったのか。

☞1969年5月24日「恒心館にて全学バリ闘争準備」

 そして二十日朝、私たちは機動隊の封鎖解除という洗礼をうけたのである。
 二十日早朝の恒心館および正午の機動隊の学内乱入においてあらわれたのである。

恒心館に機動隊

 ワルシャワ労動歌を怒りをこめて歌った。

 ワルシャワ労働歌は、元々ポーランドの労働運動の歌を日本語訳したもの。圧政と対決する趣旨の歌詞である。

 きのう中村にテレした。

中村

 まさしく長沼がいうように、ある人間が中卒で就職するように、あるいは高卒で家事見習いをするように、私もたまたま大学にきただけなのである。

 「長沼」は仮名であり、日記の記述での実名は「中島」である。そしてこの段落以下の記述は、「怒りを日々の糧に」所収の中島誠(1930-2012)の次の文章を受けたものである。
 「現代社会に生きる人々は、厳然たるこの階級社会のなかで、生きるために、つまりおのれの労働力を少しでも高く資本に売りつけて存在を維持するために、たまたま大学生になるのであり、たまたま中卒で、あるいは高卒で就職するのである。就職か大学受験か、と迷うことがそれほど深刻かつ重大な難問であると思うこと自体が、資本制社会の擬制の幻想に、たぶらかされていることなのだ。誰も、あなたは是非大学生になってくれ、と頼んではいないのである。大学生になることを何か、人生の必然、自然の成りゆきのように考えているところに、社会の決定的欺瞞性がある。この欺瞞を徹底的に破砕してみれば、東大や日大の全共闘学生がここ一年間闘ってきた主題の意識こそが、階級社会に生きる人間として全く正常なものであることがわかるのである。私に手紙をくれた少年のように迷うことが、いわば当たりまえなのであって、高校を出れば大学、大学を出れば就職というように、すーっと歩んでしまう精神構造こそ実は人間として異常なのである」
 「自主大学は反帝反スタつまり反体制でなければ存立できないし、反体制大学は、当然のことながら、現存の大学の否定解体のうえに築かれねばならぬから、権力との真向うからの対立によりつくられねばならない」(中島誠『混沌を越え、断絶から変革の持続へ』「怒りを日々の糧に─学生闘争の記録・栗原達男写真報告」(冬樹社、1969年))
 したがって、単行本の編集時の基本ルール(友人等に限って仮名とする)に従えば、仮名ではなく、1969年5月30日での扱いと同じように、実名の「中島」で表記すべきであった。そうしないと1969年1月30日付記述「四回生の長沼さんが中心で」と同一人物と勘違いされる可能性がある。
☞1969年5月30日「朝「怒りを日々の糧に」の中島の文をよむ」

1969年 5月29日(木)
 愛知訪米阻止

 愛知は、第二次佐藤(栄作)第2次改造内閣(1968年11月30日発足)の愛知揆一(1907-1973)外務大臣のことである。当時の日米間の大きな懸案である沖縄返還問題をめぐって、首脳会談の前に愛知外務大臣が訪米して交渉を行うことになっていた。これに対して全共闘系の学生は、日米安保体制の継続と沖縄の米軍基地を恒久化するものだとして反発、羽田空港に向けて訪米阻止闘争を行った。

 清バリ貫徹

 清バリは、清心館バリケードのことである。
清心館

 四・二六、四・二八を私は何故闘ったのか。

四・二六
四・二八御堂筋デモ

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