高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年10月27日(金)
 台風の影響の雨

 京都:大雨・最低11.3℃最高14.8℃。台風34号の接近で終日の雨となった。
 1967年は台風が年間39個で観測史上最多の発生を記録した。台風34号は10月28日という遅い時期に愛知県渥美半島に上陸、三重県で集中豪雨による崖崩れで多数の死者が出るなど大きな被害となった。
☞1967年8月30日「新潟、山形、福島県下に豪雨」

 地域の子供会が終わって再び学校についたのは十一時ごろだった。府学連集会をやっていて「闘いの気分」がみなぎっていた。うたごえ行動隊のエンジのはちまきやライトブルーのはちまきをした仲間が歌をうたって気勢をあげていた。

 府学連は民青系府学連のことである。
子供会から広小路への地図
 うたごえ運動は、日本のうたごえ実行委員会(現・日本のうたごえ全国協議会)が主導し、職場や大学、地域を単位とするサークルや合唱団による様々な音楽活動を行う運動をいう。前面には出ないが、実質的には共産党系である。
 うたごえ運動では当時、「平和で健康な音楽を国民のものにする」(日本のうたごえ実行委員会規約第1条)として、特に流行歌、歌謡曲、ジャズについて「反動的、退廃的(後退的)音楽の代表的なもの」「これらの歌の特徴は、孤立、失望、悲観、闘いや生産からの逃避など、生活の後退面をあらわしていること。また、大衆自身がつくり出したものでなく、上から与えられたもので、作られた意図にかかわらず、本質的には反動勢力の支配を維持する目的につかわれている」(「うたごえ運動理論(初級)テキスト(改訂版)(その一)」『うたごえ新聞1967年12月1日』(日本のうたごえ実行委員会、1967年))と位置付けていた。現在は、このような考え方は取っていない。
 うたごえ行動隊は、うたごえ運動に参加するサークルや合唱団のメンバーによって編成されたチームで、集会やデモ行進などの現場に出向き、主に合唱による音楽活動を行って側面支援する。
☞1967年5月11日「部落研の子供会活動に初めていった」

 スト支援という一つの提起された行動を、私がなぜ行なうのか、その必要性を感じなかった。

 機関紙では、組合がストに「トロツキストが押しかけようとしている動きがあるため、京都府学連にこれを排除するための協力を申し入れました。これにこたえて京都府学連は26日、全市に550人以上の支援隊を派遣しました」(『赤旗1967年10月27日』(日本共産党中央委員会、1967年))としている。トロツキストとは共産党・民青の用語で社学同、中核派、反帝学評(以上が三派系全学連に含まれる)、革マル派の各団体を指す。
 京都市内最大の烏丸車庫では「応援にかけつけた府学連日共系の学生約150人と、反日共系の80余人も車庫内への引き込み線をはさんで対じし、学生たちはかわるがわる「京交労組ガンバレ」などと、軌道上をジグザグしながらシュプレヒコール」(「京の〝交通網〟マヒ」『京都新聞昭和42年10月26日(夕刊)』(京都新聞社、1967年))した。

公務員スト支援

 「公務員共闘会議(笹川運平議長)の日教組、日高教、都市交通、全水道、政労協の各組合は、公務員賃金に関する人事院勧告の完全実施、地方公営企業体の賃金保障などを要求して、26日統一ストに突入した。
 公営の地下鉄、電車、バスなどの組合である都市交通は、京都、大阪、東京、横浜、名古屋の五大都市で始発から午前8時まで、その他18都市で午前7時までストにはいったため、ラッシュ時にかかり、通勤、通学の足が大幅に乱れた」(「〝出勤の足〟乱れる─市電・市バスがスト突入」『京都新聞昭和42年10月26日(夕刊)』(京都新聞社、1967年))
 京都交通労組は予定通り始発から市電3時間、市バス2時間の時限ストに入り、市電318両、市バス389台がストップ、通勤・通学の約14万人に影響が出た。これは1951年12月の3日間全面スト以来の規模となった。

 私達、文産社、経済、経営は壬生車庫の労働者を支援した。
 早朝四・三〇に車庫につき、コンクリートの上に坐りこんだ。じわじわとコンクリートの冷たさが体のしんまでしみこんでくる。小倉さんや水藤さん、安藤さんらといっしょだったが、

 文産社は、文学部と産業社会学部の意味。

京都市交通局壬生車庫

 京都市交通局壬生車庫は、京都市中京区後院通蛸薬師下ル壬生坊城町にあった京都市電の車庫である。同じ敷地に京都市交通局の本庁舎があった。
 壬生車庫の前では〝大幅賃上げ実施、市電廃止反対〟のスローガンを大書した幕が掲げられ、〝要求貫徹〟の鉢巻きをした運転士や車掌ら100人あまりが労働歌を歌って気勢を上げたりした。
広小路から壬生車庫へ壬生操車場
 壬生車庫は現在、京都市交通局壬生操車場などになっている。

 10月26日午前4時30分の気温は約13.0℃。
四条大宮拡大図とスト支援市電・市バスがスト突入
 壬生車庫前での集会には「府学連のメンバーも応援にかけつけたが、100人ほどの府学連の中には女子学生も2、30人まじり、市電軌道の上にゴザを敷いてすわりこみ。「4時ごろからすわりこんでいるんだけど、朝がたは寒くて……」と新聞紙で足をくるんだり、たき火にあたったり」(「ターミナル大混乱」『夕刊京都昭和42年10月26日』(夕刊京都新聞社、1967年))した。

 集会に参加した同級生の長沼さんに、この時の状況を聞いた。
長沼さん「寒かったです」

 長沼:私も民青のスト支援に行きました。当時はまだエッチャンと一緒に活動をしてたので、彼女がどこにいたかはわかりませんでしたけど、近くにはいたと思います。
 寒かったです!あちらこちらから「寒いなあ」って声がしてて、新聞紙を使ったりとかいろいろしたんですけど、あまりに寒かったもので、私は「もう、イヤだわ」って言いました。
 そうしたら同級生の女子に何て言われたと思います?
 「ベトナム人民は今この時、苦しんで頑張ってるのに、この寒さに耐えられんとあかん」ですって(笑)。怒られたんです(笑)。この子はこういう子なのかなと思いました。
 それで労働運動してる人は、私たちが初めて座り込みで行ったのに、きちっと物を貸してくれたり、そういうことができました。やっぱり労働者の運動と学生運動とは質が違うんだなと思いましたね。(談)

大学1年で一緒・長沼さん「日記に命を懸けてたエッチャン」

 「小倉さん」以下は部落研のメンバーのことである。
☞1967年7月16日「さっき、こくらさんと梅沢さんが」

 今日のストの意義は富井市長をはげまし、その後で圧迫している自民党に抗議し、市交通職員の要求をさらに勝ちとっていこうということにあるといった。

 「とくにこんどのストを京都市政の面からみると、結果的には〝富井革新市政〟を苦境に追い込んだともいえる。富井市長をはじめ市交通理事者は、こんどのストが〝市民の足〟に及ぼすばかりでなく、来月1日からの臨時市議会に再提案する交通財政再建計画案の審議にも響くとみて、労組側に対し最後まで説得を試みた。しかし、結局失敗に終わり、こんご責任者の〝処分〟を検討しなければならないといった大きな荷物までかかえ込んだ」(「解説─富井市政、苦境に立つ」『京都新聞昭和42年10月26日(夕刊)』(京都新聞社、1967年))

 スト支援をしてえたものは、十年勤続で二五〇〇〇円という低賃金の中から、生活を守るために処罰されることを覚悟で、

 独立採算制の京都市交通局は、赤字による借金の増大で破綻状態となり、1967年1月、交通事業者として「財政再建団体」に転落、国の管理下で財政再建を進めることになった。
 組合側としては、他の都市では決着済みの前年度の賃上げが見送られ、さらに1967年度の賃上げはもちろん年末手当についても見通しが立たない状況にあった。

 三浦さんも十・二六ストにきていた。

 三浦さんは大学生協の活動をしていた。

1967年10月30日(月)
 曇

 京都:晴・最低6.0℃最高21.4℃。

 土曜日に同志社近くの食堂でたべたときには確かにあったのだが……
同志社女子大学

 同志社女子大学(現・同志社女子大学今出川キャンパス)は、京都市上京区今出川通寺町西入ルに本部があった私立の女子大学である。大学本部は京都府田辺町(現・京田辺市)に移転し、現在は一部の学部が今出川キャンパスにある。
今出川通付近地図同志社女子大学と今出川通
 同志社女子大学(現・同志社女子大学今出川キャンパス)と同志社女子中学校・高等学校、西に同志社大学今出川キャンパスがある。一体として同志社と呼ばれる。立命館大学広小路キャンパスから見て、この近くの食堂となると寺町今出川付近と考えられる。
寺町今出川交差点

 ふと隣保館のことや、

京都市壬生隣保館

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