高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 2月 11日(火)②

テレをしてきて待ち合せた井上君「なぜそこまで頑張るの」

 高野悦子がワンゲル部の追い出しコンパに参加した翌日、原田方の下宿に電話をしてきたのがワンゲル部の井上君である。
 九日の日は朝早くから井上がテレをしてきて、待ち合せ。

 追い出しコンパの翌日にもかかわらず高野悦子の下宿に電話をしてきて待ち合せた井上君はどういう人物だったのか。高野悦子より1学年下の1年生(1968年入学)だった井上さんに話を聞いた。


南アルプスで同じパーティに

京都から南アルプス 井上さんは1年生の時、夏合宿に向かう高野悦子と同じパーティで南アルプス山行をともにしていた。

 井上:南アルプスに一緒に行ったのは高野さんが2回生で私が1回生の時。パーティを組んで事前に役割を決めて行った。当時の立命のワンゲルの夏合宿は「集結地」が先にあって、そこに集まるまでに〝〇〇に行きたい〟ってパーティを組んでリーダーを決めて参加者を書いていく。その行き先は山はもちろん、島だったりもする。それぞれのパーティが終わって「集結地」に集まるわけ。あの年は集結地が八ヶ岳だったか。
 この時の南アルプスのパーティは、自分が親しかった3回生の人がリーダーで、メンバーは高野さんと自分も含め10人くらいいたと思う。女子は高野さん1人だけだった。みんなで京都から出発した。

夏合宿

南アルプス拡大図 南アルプスでは南から北に向かって山頂・稜線を縦走した。南から行くと、一番南で高いのが赤石岳で、そのすぐ北が荒川岳、次が塩見岳。あの時はどこまで行ったのか…。赤石岳、荒川岳、塩見岳はすべて山頂まで行った記憶がはっきりあるので、その一帯は間違いない。鳳凰三山や甲斐駒ヶ岳といった北の方までは行ってないと思う。
赤石岳
 南アルプスは山深いから、6泊7日か7泊8日くらいじゃなかったかな。泊まるのは全部テント。北アルプスと違って、当時は南アルプスはアプローチが長く、本格的な登りが始まる取り付きまで1日で行かなかった。1つ越えて、ようやく1つの山にたどり着き、山が2つあったら2つ越えて行くみたいに。

 当時の南アルプスでは僅かなエリアを除く「他の山域では、寝具・炊事具・米・副食・間食、場合によっては天幕さえ持参しなければならない。したがって荷も巨大なものになり」「縦走も安易に計画できない。何よりもまず基礎体力、そして登山経験、特に山での生活技術の習得が必要とされる。
 こんな事情から、南アルプスには初心者用の縦走路はないといえる」(山を楽しむ会編「縦走プランのたて方」『南アルプス』アルパインガイド33(山と渓谷社、1967年))とされた。

 南アルプスに行くともなると荷物は思い切り軽量化するから。みんなで持っていくものを選んでいったら、「要らない!要らない!」って、着替えもパンツ一丁だから。そうやって「軽く!軽く!」、それで35キロくらいになるんで。
荒川岳塩見岳
 自分ら男子で平均35キロ超担ぐね。女子はぐっと軽くしてた。何キロか覚えてないけど軽くする。それでも高野さんは男子とごして、負けない。彼女は小柄だから、体力がそんなにないはずなのに、負けず嫌いなのかなあ。とにかく“なぜそこまでがんばるの”という印象。〝行くと決めたら、たとえはってでも、足を取られてでも行くよ〟と。非常に必死だった。根性があったね。

うん、おいしい

 井上:高野さんとは山にこの南アルプスを含めて4回行った記憶があって、たいてい一緒に歩いた。そんな回数を一緒に行ったのは俺以外にいないんじゃないかなあ。
 彼女は山で頑張ってた。何人かでパーティを組んで行くと、どうしても一番先にばてる人がいて、ばてると吐いてしまったりする。そうするとパーティで先頭にいるサブリーダーのすぐ後ろにその人が並ぶわけ。一番弱っている人が前で歩くのが鉄則だからだけど、ペースはぐっと下がる。
 そうやって行くんだけど、彼女はなかなかばてなかった。弱い男子の方が必ず先に参ってしまう。ペースを一番遅くする役割になったことはない。そうなっても不思議なくらいの体格なのに、弱音を聞いたことがない。

酒を語った山小屋 彼女は酒は強かったよ。南アルプスはもちろん酒を持って行かなかったけど、北山に立命のワンダーフォーゲルで造った山小屋がある。そこに集まったら、「山小屋コンパ」と称して必ずコンパをしていた。自分は実は酒が一滴も飲めないのに1回生の時に、山小屋コンパの機会があって、上回生に強く飲まされたりした。その時にいた彼女に酒がうまいのか聞いてみたら、「うん、おいしい」というふうな感じで言っていた。酒は男子よりも強いくらいに思えた。“酒がうまいと思う人が世の中にはいるんだな”と初めて思った。酒が嫌いな自分には不思議だった。
 酒の話は普通の会話だったけど、山は何回も行ったわけだしお互いにしゃべったと思う。高野さんには好感を持ってたし、憧れもあった。彼女の方が学年は1年上だったけど、一浪してる自分の方が実際は上だということは当時から知っていて、生意気にも“同じだ”と思っていた。

☞1968年5月13日「山小屋コンパに参加して」
☞1968年11月28日「山小屋コンパのは絶対消すことができない」

すべてのことに「なぜ」

登山帽の写真 井上:高野と言ったらワンゲルのリーダー会員選挙の総会の時の質問。もうあれほど強烈な印象はない。
 総会は理工学部がある衣笠学舎で教室かどこかを借りて集まった。その時に高野が手を挙げて真面目に思っていることを質問していた。それに対してほとんどの人の印象は“何を馬鹿なことを言ってるの”。高野が話してる意味がわからず、“何をあなたは言いたいの”という感じで「ワァー」と笑い声の反応が起こるのが聞いてて明快にわかった。
 リーダー会員選挙の時は、一年間どんなことがあったか、来年はどうするか。誰がするか、いわゆる人事を決める。立候補をする人もいる。高野はずっと手を挙げてて、質問をした、「ナゼ、イッショウケンメイヤッテルンデスカ?」。 私だって“何という質問だ”と思った。私ならたとえば「ワンゲルで来年1年どんなことをするのか」とか「どんな目的でこれから続けていくのか」とか質問する。ところが高野は立候補した人に対して〝あなたががんばってるのがわからないので教えて〟って個人的な質問をするからおかしい。総会という公的な場所だから公的な質問をすべきなのに私的なものを持ち込んだ発言。だから周りの反応は“違う”“どうしてあなたはそんなことをしゃべるの”。今で言う空気を読もうとしてなかった。その純粋さと言うか…、私は本当にびっくりした。 彼女は自分自身に対して非常に純粋だから、その時に自分自身が一番悩んでたのかもしれないな。それに対してだれも答えてくれないのかもしれない。それがそのまま素直に出てる。

 ワンゲルでボックス代わりに自分たちで勝手にたまり場にしている狭い所の壁に紙をペタペタ貼って「リーダーだれ」とか「いつまでに」とかパーワンを募集する。「行こうかなあ、どうしようかなあ」と言いながらためらってて友人が名前を書いてたら、「ナゼ書カヘンノ!自分デ書キ!」って言われたかもしれない。 自分の認識としては、行くのは一緒だから誰が書いてもどう書いてもいい。しかし、高野にとっては違う。書く書かないとかに対して、〝なぜ自分で手を上げないの〟〝なぜ、自分で考えないの〟〝考えたら自分で手を上げるべきでしょう〟。人まかせでなくて、〝自分は、自分の行為で、自分で書く〟のが非常に大事だという認識を持っていた。 すべてのことに「なぜ」。ものすごい印象に残っている。

 ただ、こっちが一方的に好感を持っていただけで、彼女は自分のことを一切気にしてなかっただろうと言い切れるくらいだった。毎日のように広小路の階段踊り場にあるスペースに顔を出してた自分が今思い返しても、彼女が実際にどう考えてたかは全く見当が付かない。全て自分の印象だけだ。
 彼女はワンゲルの中でいつも1人、女の子どうしではしゃべったりしてると思うけど、親しかった女子とかは思い出せない。山の関係の人に彼女のことを聞いたところでそんなに出てこないんじゃないかなと思う。

 高野さんが亡くなったことは、広小路のワンゲルのスペースから行った荒神口通北側の喫茶店。だいたい知っている顔の連中がいる〝たまり場〟の店で、そこにいたワンゲルの女子から聞いたと思う。自分はワンゲル以外に知り合いいなかったし。亡くなって3日後くらいか…。そこで初めて聞いた。
 死に方が死に方だから、すごい衝撃を受けた。ただ衝撃だったけど、“ありうる”“高野さんなら死ぬかな”と思った。彼女の自分を突き詰めていくことがああいうことになった、“不思議ではないなあ”と。

 井上さんは栃木県西那須野町(現・那須塩原市)で行われた高野悦子の葬儀・告別式にも参列している。3回生の時に自らパーティのリーダーとして南アルプスへ行ったあと、ワンゲル部での活動を事実上止めたという。
 ※注は本ホームページの文責で付した。

 インタビューは2019年12月27日に行った。

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