高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和39年)
1964年 7月22日(水)
 八時四十分の汽車で母と宇都宮へ出た。

 08:40国鉄(現・JR東日本)西那須野駅-(東北本線(上野行普通列車))-09:32宇都宮駅
宇都宮女子高校周辺図

宇都宮駅

 宇都宮駅は、栃木県宇都宮市川向町にある国鉄(現・JR東日本)の駅である。
宇都宮女子高通学のため下車した国鉄宇都宮駅のホーム
 高野悦子が利用した当時は4代目駅舎だった。4代目駅舎は国鉄と地元民間企業の共同出資で建設され、商業施設を併設する〝民衆駅〟として、1958年3月に営業を始めた。鉄筋コンクリート造り2階建て延べ2263㎡で、正面には「うつのみや」と大きく表示され、1階には駅の券売窓口、改札口、待合室など、2階には「宇都宮デパート」として食堂や売店があった。駅舎にはその後、中央玄関口前車寄せにコンクリート製のひさしが取り付けられた。
国鉄宇都宮駅
 4代目駅舎は1974年まで利用された後、東北新幹線の工事のため取り壊された。現在は1980年完成の6代目駅舎になっている。

 母と別れて私は学校へ、図書館へ本を返しに行った。
 その後体育館へ行ってスカートのまま練習した。

栃木県立宇都宮女子高等学校

 高野悦子は1964年4月1日、栃木県宇都宮市操町(地図上)にある栃木県立宇都宮女子高等学校に入学した。
栃木県立宇都宮女子高等学校正門表札
 宇都宮女子高校は、女子が通う高校としては、栃木県でナンバー1の進学校である。
1875年に栃木女学校として創立し、1931年に栃木県立宇都宮第一高等女学校に校名を改称、戦後の新制高等学校発足に伴い、1948年に宇都宮女子高等学校となった。現存する公立の女子高としては全国で最も古い。
 自主性を重んじ、自由闊達な校風でも知られる。栃木県内の高校で唯一、制服が定められていない。地元の通称は「宇女高」または「宇女」。
 宇都宮女子高校となるのにあわせて現在の校章が制定された。「デザインはフランス古代紋章にヒントを得た白百合(マドンナ・リリー)をかたどったもので、本校英語教師で版画家としても有名な川上澄夫氏が担当した。白百合の花言葉は「純潔」であり、リボンの紅は「誠心」を意味するものであった」(「宇女高140年のあゆみ」『140年史─栃木県立宇都宮女子高等学校』(栃木県立宇都宮女子高等学校、2016年))
 校旗は校章の白百合をかたどったデザインで、明治時代以来の旧校旗から1965年に変更された。
校章のブローチ校旗

 宇都宮女子高校では1964年11月、近代的で設備の充実した新館を中心とする校舎増改築が完成した。総工費2億4496万円、工期4年あまりにわたる全面的な新築で鉄筋コンクリート3階建て2棟の新校舎となった。1997年に南校舎、2001年に北校舎で耐震工事が行われた。
学校全景

 宇都宮女子高校の図書館は、創立75周年記念事業として建設され1951年に完成した。
完成当初の閲覧室
 1964年度末現在で23,300冊を自由開架式で所蔵していた。
高校図書館
 1989年に解体され、新築された現在の図書館になっている。

 体育館は、創立60周年記念として建設され1936年に完成した。建設当時は模範的な体育館だったとされる。長く「旧体育館」と呼ばれたが、1994年に解体され、1995年に第二体育館が完成した。
体育館記念館
 記念館は、創立50周年記念として建設され1928年に完成した建物を、校舎増改築に合わせて1962年に移築した。各クラブ、操会(同窓会)事務室、ホールなどに使われた。1977年に解体された。
 テニスコートは教室が入る新館南校舎の西側で西門近くにあった。
南校舎とテニスコート
☞1965年2月23日「昨日は記念館の二階で、先生もはいっての反省会だった」
☞1965年9月30日「いつものようにテニスコートを通ってきた」

 視聴覚教室は北校舎3階東側にあった。
視聴覚教室
 音楽室は北校舎3階西側に位置した。
音楽室
☞1965年10月27日「「京都」という映画を視聴覚教室までヤスカワクンとコバチャンで見にいった」
☞1966年2月22日「急にテツヤさんのいった音楽室の小さなピアノが気になった」

 講堂は、1905年に完成した建物を1933年に一度拡張して収容人員600人となった。しかし生徒数の増大に対応するため、真中で切って新しい部分を継ぎ足す形で1952年に増改築した。全景(写真上)で講堂の屋根の色が一部違うのはこのためである。1977年に解体され、1978年から体育館兼講堂(現・第一体育館兼講堂)になった。
講堂講堂内部
☞1966年9月29日「夏休みの研究発表会を七時間目(短縮四十分授業)に講堂で行なった」

 高野悦子は、宇都宮に下宿してからは通学には主に西門を利用していた。
宇都宮女子高校西門
☞1966年2月7日「西門近くまで来たとき、予鈴のチャイムが鳴り始めた」

大町雅美 高野悦子に立命館大学進学を勧めたのは、宇都宮女子高校で社会科教諭の大町雅美(1927-2011)だった。『二十歳の原点ノート』では、仮名の赤津(孝司)先生として登場している。歴史全般で、日本史だけでなく世界史も教えていた。
 生徒からの愛称は「ガビさん」。「雅美」をそのまま音読みして付いたという。
 高野悦子の同級生は「大町先生は授業が楽しく、脱線する話がおもしろくて、みんな大好きだった」、「顔はあれだけど…(笑)、物知りというか…、すごかった。とにかくいい先生で、高野さんだけでなくみんなから慕われた」と話している。

 当時の生徒に対するメッセージでは「社会の安定と共に宇女高の生徒たちの生活も、思想も安定してきた。この安定は往々にして自己本位におち入りやすくなってくる。かつて活発だった生徒会活動も、昭和24・25年当時の運動クラブの活動も昔の語り草となっていった。これらが日本教育の風潮、受験ブームの影響として片づけられることは少々さびしい気がしてならない。
 かつての宇高女、宇一女、宇女高は云ってみれば女子最高の学校で、上級学校進学は一つの職業を身につけるといった考え方であった。しかし、今日の生徒たちはこのような時代、考え方の上に安住してはいられなくなった。
 時代の変化は、あの男女差の時代から平等に、かくて今日の女子学生大学亡国論まで出てくるようになった」
 「私たちの学校は、突然変異によって生まれたのではない。そこには、長い伝統によって陶冶されたある何ものかが存在することを知らなければならない。一定の型にはめた教育がいかに簡単で、おそろしいものであるかはすでに戦前の社会で経験してきた。戦後、私たちが感じたことは、いかに責任ある行動をとるかということとその困難さである。80周年をむかえたころ、学校において問題となっていたのは制服のことであった。あらゆる場において、あらゆる人たちとの話し合いが行なわれたが、その結果は今日の制服のない姿であった。これは実行の過程において相当の困難があろう。しかし、この問題を通して一つの考え、行動がそれなりに次第に生まれてくるのを期待するものである。このことは思想面においても、生活そのものにもいえることである。時代の流れ大学進学ブームに水をさそうとするものではないが、時代に迎合する規格にはまった、一色にぬりつぶされた女性の誕生には賛成できないものがある
 「歴史や伝統は消そうとしてもそう簡単に消せるものではない。だからといってそれに頼ることはできない。宇都宮女子高校が、常に社会の、そして時代のパイオニアとして、今日こそ「宇女高のフロンティア精神」を生かすべきであろう(大町雅美「80周年から90周年へ─新しき校風を求めて─」『女学生生活─宇女高90年のあゆみ』(大町雅美、1965年))と訴えている。

 大町雅美は、栃木県郷土史研究の第一人者で、1954年から1974年まで宇都宮女子高校で教鞭をとった後、栃木県立図書館副館長、作新学院大学経営学部教授などを歴任した(写真右上は1966年ごろ撮影)。
 高野悦子について「日本史をやりたいというので、それなら立命へと言いました。明るくてあらゆることに全力でぶつかってゆくファイターでした」(「学園紛争に散った青春─那須文学に高野さんの日記」『下野新聞昭和45年12月9日』(下野新聞社、1970年))「いちずな性格だけに学生運動に走ったのでは。歴史を学ぶなら教授陣の優れた立命館大に、と薦めたのは私だけに、責任を感じています」(「おしゃべり交差点─歴史学への評価に喜び」『毎日新聞(栃木版)1995年10月29日』(毎日新聞社、1995年))と話し、また関係者にも後悔の念をもらしている。
 また栃木県の県民性について「明治時代に入って幾度か反骨精神が台頭したが、封建社会の後遺症はあまりに深刻で、主体性をもった傑出した人物はあまり現われなかった。現在、首都圏内に入り東北高速道が通り新幹線工事も進んでいる。工場誘致も盛んで他県人の流入も多く、本県も大きく変わろうとしている。他から変化を強いられる前に自ら過去の後進性からの脱皮を宣言し、行動しなければならない。今こそ一時も早く新たなる県民性を問いたださねばならない」(大町雅美「風土と人間」大町雅美他『栃木県の歴史』(山川出版社、1974年))と述べている。
 「二十歳の原点」については、「今の世の中、ズルイやつばかりで、つらいこと、いやなことを避けて通ろうとする。でも、悦子君は正面から〝壁〟に挑み、力尽きて倒れた。そのひたむきさが、惰性で生きている者にショックを与えるのでしょう」(「何がうける自殺者の日記」『毎日新聞(栃木版)1981年7月5日』(毎日新聞社、1981年))と語っている。
☞二十歳の原点巻末高野悦子略歴「この頃から歴史に興味をもち大町先生に私淑。同年九月、進学先を立命館大学史学科と定める」

 当時の宇女高生気質について、生徒会長だったまゆみさんことKさんに聞いた。
まゆみさん「女が引っ込んでるようじゃダメ」
 K:当時の宇女高生気質と言えば、前々からあったんですが「自主自立」「自由と責任」。当時の校長先生の指導方針にも「利己主義の秀才を作りたくない」と書かれています。制服がないのも自立心、制服で縛らない、その自由の裏には責任が伴いますよと。だから校風は〝自分で考えて自分で生きて行きなさい〟というもので、それを叩き込まれました。
 私も生徒会長に立候補した時の公約に生徒会の会則改正を掲げて、90周年の伝統は大切にするけど、〝これからの女は、男尊女卑なんて女が引っ込んでるようじゃダメ〟と、〝女だって日本の国を立て直す一役を買うんだ〟という…。そういうことを私だけでなく、みんなもカッコも内に秘めていて、学校全体を包んでいたと思います。
 それに加えて、AFS交換留学の影響もありました。アメリカの女子生徒が宇女高に来て、宇女高からもアメリカに1年間留学したんです。同学年でも3人ほどが留学しました。カリキュラムが違うので、アメリカに1年留学して戻ってくると、日本では1年下の学年になります。前年に留学に行った方々が戻って来て、1年下の私たちの学年に入り、同じクラスや隣の席にいて、アメリカ生活での自由な雰囲気や身に着けた自立責任の精神といったものを教えていただきました。来日した生徒から生きた英語を学ぶ機会にもなりましたし、当時の栃木県の高校では画期的だったと思います。

☞1965年9月12日「AFSの内藤さんの話をきいたり」

宇都宮女子高校同窓会(操会)卒業年別同窓会(1967年卒業生)

 2015年11月8日(日)、宇都宮女子高校の同窓会である操会の第38回操会卒業年別同窓会が校内で開かれた。
当日の正門
 操会卒業年別同窓会は現在、卒業48年後、30年後、16年後の3つの学年を同時に行う独特のシステムをとっている。
 2015年は高野悦子と同学年にあたる1967年3月卒業生のほか、1985年と1999年の卒業生が対象になった。1967年卒業生にとってはこれが卒業年別同窓会として集まる最後の機会になる。地元・栃木県在住を中心に3学年合計で274人の参加申し込みがあり、当日は午前10時50分までに図書館で受け付けが済まされ、操会の会報『みさお第139号』(2015年)や『平成27年度学校案内』などが配られた。
会報みさお平成27年度学校案内

全体会
 3つの学年の卒業生が一堂に集う全体会は午前11時から第一体育館で開かれた。
全体会次第全体会の参加先生
 はじめに真田富美子操会会長と萩原伸二学校長があいさつ。宇都宮女子高校は創立140年を迎え、卒業生総数35,875人となった。2015年3月現在の生徒数は21クラス839人で、〝白百合よ、貴きをめざせ〟のスローガンのもと、強健実践、自主創造、温雅清純、至誠敬愛、報恩奉仕を掲げ、「豊かな人間性の育成と学力の向上を目指し、社会のさまざまな分野で活躍すると共に貢献できる人材を育成する」ことを目指した教育を行っていることが紹介された。
 3つの学年それぞれの恩師として高校3年当時の担任教諭12人の紹介が行われた。1967年から2人、1985年と1999年から各5人が姿を見せた。
 続いて1967年卒業生から順に写真撮影が行われ、幕の下ろされたステージをバックに当時の担任2人、操会会長、学校長とともに写真に収まった。
同窓会全体会記念写真

学年別懇談会(1967年卒業生)
 学年別に分かれ、1967年卒業生は会場を校内の図書館に移して正午から懇談会が開かれた。懇談会には約80人が参加。卒業当時3年4組担任教諭(英語)と3年8組担任教諭(国語)の2人があいさつして健在な姿を示した。
学年別懇談会次第学年別懇談会次第の部分拡大
 このうち当時3年8組担任教諭(国語)は、高野悦子が高校2年生時のクラス担任で『二十歳の原点ノート』の記述に登場する「益田氏」である。
☞1966年1月4日「今日、益田氏宅へ」
宇都宮女子高校図書館
 乾杯後、昼食をしながら懇談が始まった。現在の状況や家族の話、そして先生やクラスメートの消息を中心に懐かしい話が弾んだ。
 参加した人は「卒業後50年目のことし、講堂などが見違えるほど立派になった母校で同窓会が開かれました。学年全体会後のクラス別昼食会では県内だけでなく香川、千葉、東京など遠方から参加した方や、結婚によって義姉妹になったという方などとの50年間の話は尽きませんでした。
 同窓会に参加できたことは、自分だけでなく家族が皆元気だから可能になったと、自他ともに健康であることが大切なのだと皆で納得し合いました」
(「級友・朋友─宇都宮女子高(昭和41年度卒)」『下野新聞2015年12月24日』(下野新聞社、2015年))と話している。

 懇談会では最後に参加者全員で校歌を合唱した。
校歌歌詞栃木県立宇都宮女子高等学校 校歌

 恵みの波をたたえたる 幸の湖水きよみ
 二荒の峰の姫小松 千代も変わらぬ影うつす
 これぞここなるまなびやの 庭に集へる乙女らの
 心をこめて朝夕に 磨く操のかがみなる

 学びの園のおくふかく 智恵の花咲き風かをり
 婦女の徳のうるはしく 百世くちせぬ実を結ぶ
 これぞ名に負ふ下野の ながめたへなる花の色
 心にそめてとこしへに 匂ふほまれのかざしなる

二次会
 懇談会に参加した1967年卒業生の多くは午後3時、バスに乗るなどして栃木県宇都宮市泉町にあるホテル丸治に移動。7階宴会場「松竹梅の間」で二次会が開かれた。
ホテル丸治ホテルロビー
 テーブルを囲んで飲食をともにしながら、午後5時過ぎまで大いに盛り上がった。終了後さらに気のおけない仲間による〝三次会〟が近くのバーで開かれ、夜まで語り尽くした。
宇女高昭和42年卒同窓会二次会会場になった松竹梅の間

1964年 7月31日(金)
 日記は三月七日から七月二十一日まで空白だった。
 三月十八、九日が宇女高の入試、受験番号は三九八番。

 高野悦子にとっては、宇都宮女子高校は西那須野町(現・那須塩原市)から学区外への進学だった。宇都宮女子高校への進学は、最終的には本人の希望だったが、背景には中学校の指導、端的に言えば〝宇都宮女子高校の合格者を出したい〟という事情があったとされている。
宇都宮女子高校合格者高野悦子の名前
☞1964年2月2日「だけど宇女高へは入りたい」
☞1964年2月16日「宇女高を受けることが決定した」

 宇都宮女子高校に入学以降、7月末までの動きは以下の通りである。
4月 8日(水)入学式
 講堂で行われた。外は雨が降っていた。教室で担任教諭から校章のブローチを受け取った。
・4月21日(火)生徒総会
4月25日(土)遠足
 バスで宇都宮を出発した。車中で歌を歌いながら、栃木県那須町湯本の駐車場(現:栃木県営大丸駐車場)に到着した。予定していた茶臼岳登山は雨天のため中止になった。
・5月 7日(木)体力測定
・5月19日(火)音楽鑑賞会
・5月25日(月)~27日(水)中間テスト
・6月 4日(木)~6日(土)春季校内体育大会
・6月11日(木)合唱コンクール予選
 各クラス対抗で合唱を競う。
・6月16日(火)講演会
 日本赤十字社青少年課長の橋本祐子(1909-1995)が赤十字の国際的活動について講演した。
・6月23日(火)合唱コンクール本選
・7月 4日(土)米カリフォルニア州ロータリー女子高校生来校
・7月 9日(木)~11日(土)期末テスト
7月17日(金)バスケット部入部
☞1964年12月27日「私の入部は七月十七日で夏休み直前だったので」
・7月20日(月)終業式
 1996年から7月20日は「海の日」の祝日となり、さらに2003年から「海の日」は7月第3月曜日になった。

1964年 8月 9日(日)
 朝のマラソンは羽黒山までだった。
羽黒神社

 羽黒山は、栃木県宇都宮市鶴田町にある羽黒神社のことである。羽黒山神社とも表記され、地元では「羽黒山」と呼んでいる。当時は南東からの参道しかなかった。
羽黒神社地図羽黒神社
 宇都宮女子高校から羽黒神社までは鹿沼街道(旧道)を通って往復約6キロである。現在の栃木県道4号宇都宮鹿沼線・睦町地区バイパス(新道)は2006年に開通した。

1964年11月 2日(月)
 昨日の日曜日は鹿沼まで遠征して練習試合を二試合やった。
 終ったとたん、荒木さんが抗議したが、ピタッとやめてしまった。
栃木県立鹿沼高等学校

 宇女高バスケット部が11月1日(日)に遠征したのは、栃木県鹿沼市万町の栃木県立鹿沼高等学校である。高校の正門は当時、西側にあった。
宇女高から鹿沼高校鹿沼高校の門

岩山カラー写真ポイント

 練習試合を行ったあと、高野悦子を含む宇都宮女子高校バスケット部のメンバーと引率の石橋先生は鹿沼市の名勝である岩山に登った。
 岩山には、東武・新鹿沼駅の北西約1.5キロにある栃木県鹿沼市日吉町の日吉神社を起点とするハイキングコースがある。
鹿沼空撮日吉神社入り口
 ハイキングコースは神社横の山道から入り、途中から岩場が続く。また景色を楽しめる展望ベンチがコース途中の随所に設置されている。
岩山ハイキングコース途中のベンチ
 尾根に沿ったルートを進むと三番岩(標高275m)、二番岩が順に登場する。
三番岩二番岩
 ハイキングコースのゴールが一番岩(標高328.3m)で、岩山の頂上にあたる。三角点がある頂上から広い眺めを満喫でき、二股山(569.8m)などを望むことができる。
一番岩頂上からの眺め
 尾根沿いのルートは栃木県の山岳家、矢島市郎(1895-1955)が1937年に紹介して以来ハイキングコースとして利用され、「岩山は前日光のパノラマ台でもあり、深岩の左に氷室と熊鷹の稜線が走り、二股山の右肩から三枚石、地蔵岳、夕日岳の峯頭がつづき、カマドグラ、鶏鳴山、石尊山の上に表日光連峯が圧倒的な高度感で北の空を区切っている。大山の右に明神ヶ岳が覗き、優美な裾野を引く高原山と雲烟の彼方に浮かぶ八溝山を背景にして赤岩古賀志の岩峯が指呼の間に聳えている」(鹿沼山岳会「鹿沼の岩場」『岳人120号-岩登の特集』(中部日本新聞社(現・中日新聞社)、1958年))と評されていた。
 しかし、コース途中には岩場の起伏が存在しており、バスケット部のメンバーが練習試合を行ったあと軽装で登っていくには時間も体力もかかりすぎる。
 実際に岩山を登ったルートは、このハイキングコースではなく、西側の水田沿いの道の可能性があると推定される。
岩山付近の地図
 登ったルートと推定される水田沿いの道は現在、水田が休耕していることもあり、途中から荒れている。たどることは困難になっている。
登ったルート入り口登ったルートの荒れ様
 代わりに岩山ハイキングコース側から行こうとすると、二番岩を過ぎて、一番岩手前にある分岐点を西側に行った尾根の先の斜面の中腹付近にあたる。
一番岩手前の分岐点西側の尾根
 写真を撮影したポイント付近にハイキングコース側から接近する場合、尾根からの下りの傾斜がきつい部分があり、進めない。さらに当時の岩山は木々が少なかったが、現在は樹木に深く覆われており、多くの岩は輪郭が判然としなくなっている。このためポイントとなる岩の位置を完全に特定できない。下の写真はポイントそのものではなく、付近の現況を合成して作成している。
宇女高バスケット部岩山カラー写真ポイントバスケット部メンバーと
 高野悦子のカラー写真が明らかになるのは初めてである。二股山を背景に、ジャケット姿で肩から水筒を下げ、右手に大きめの手提げバッグを持っている。
 二十歳の原点ノートに登場する「石橋先生」、1学年上の「荒木さん」、同学年で後に生徒会長となる「まゆみさん」、後にバスケット部キャプテンになる「よっちゃん」らも同じ岩の上で一緒に写っている。

1964年11月15日(日)
 十四、五日にバスケット総合選手権予選があった。宇女商との試合に出してくれた。
 練習試合に負けると公式試合に勝つというジンクスがあり、果せるかな勝ちました。51-36で十五点もの大差をつけました。

宇女高と作新高校バスケットボール大会の会場
 全日本バスケットボール総合選手権大会の栃木県予選を兼ねた昭和39年度栃木県男女総合バスケットボール選手権大会が1964年11月14日(土)、15日(日)に栃木県宇都宮市一の沢町(現・一の沢一丁目)の作新学院高等部(現・作新学院高等学校)円形体育館などで開かれた。
試合結果 宇都宮女子高校は11月14日、一回戦を46-39(28-18、18-21)で県立鹿沼高校に勝った。
 しかし二回戦は43-100の大差で宇都宮女子商業高等学校(現・宇都宮文星女子高等学校)に敗れた。「宇女商はレギュラーの平均身長が1メートル64と相変わらずの大型チーム」(「宇女商、4連勝飾る─県男女総合バスケット」『下野新聞昭和39年11月16日』(下野新聞社、1964年))大幅にリードされ早い段階で勝敗のすう勢が固まったため、高野悦子にも出場機会が与えられたとみられる。
 11月15日の決勝戦は宇都宮女子商業高校が94-44で宇都宮須賀高等学校(現・宇都宮短期大学付属高等学校)に大勝して、大会4連勝した。宇都宮女子商業高校は当時、全国高等学校バスケットボール選手権大会女子で1961年、1962年に優勝、1963年に準優勝、1964年優勝するなど全盛期にあった。
 宇都宮女子高校は女子三位決定戦では40-32(18-20、22-12)で作新学院高等部(現・作新学院高校)を下している。

1964年11月20日(金)
 明日の落成式の準備で校内がざわついていましたが、

 宇都宮女子高校の新校舎落成式は1964年11月27日(金)に行われた。
新校舎落成式

1964年12月25日(金)
 鶴田発六時四十八分に乗り、宇都宮駅へ。七時十三分の黒磯行に乗って帰宅が八時五分。
 六時三十七分の電車で宇都宮へ。

 この日常生活に関するスケジュールを整理すると以下の通りになる。
04:00目覚まし時計(起床)
06:37国鉄(現・JR東日本)・西那須野駅-(東北本線(上野行普通電車))-07:23宇都宮駅
07:35関東自動車・国鉄駅前停留所-(関東バス(六道経由鶴田行))-07:45宇女高前停留所
通学客が並ぶ国鉄宇都宮駅前停留所 宇都宮市では戦後ベビーブームで生まれた世代が高校進学を迎え、通学でのバス利用が急増していた。
 このため関東自動車で「学生輸送に総力を挙げて対処している当社市内バス営業所の経験によると、朝の7時50分から8時17分の僅か27分間に国鉄宇都宮駅に上下線が6本到着し、駅前広場はこれら列車からあふれ出た学生達で忽ち埋まってしまう。これを当社では約45分間に延92台の車両を動員して約5000人の学生を輸送している。(昭和38年4月)」(「経済成長期の社業」『関東自動車株式会社四十年史』(関東自動車、1967年))と記録される状況になっていた。
 関東自動車のワンマンバス運行は1964年12月1日に国鉄駅前-作新学院前線で始まったばかりで、宇女高前停留所に停車する運行系統のバスには車掌が乗務していた。
07:45練習
08:30授業(~15:10)
15:10清掃(~15:40)
16:00練習(~18:30)
18:57関東自動車・宇女高前停留所-(関東バス(18:48鶴田発六道経由国鉄駅前行))-19:07国鉄駅前停留所
 「鶴田発六時四十八分」は乗車するバスの起点・鶴田停留所の出発時刻を意味している。
19:13国鉄・宇都宮駅-(東北本線(黒磯行普通電車))-20:01西那須野駅
20:05帰宅

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