高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和43年)
1968年 4月17日(水)
 立命から四条まで寺町通りを下って古本屋あさりをしたが、あの通りには四軒しかなかった。

 原田方へ引っ越したことで、通学ルートでは立命館大学広小路キャンパスの東側の河原町通を市電やバスで四条まで行くことから、いつもと違う道を歩いたことになる。
☞1968年2月10日「寺町通りを四条まで歩く。古本屋あさり」

 丸太通りに三軒位あったが、
丸太町通の古本屋

 丸太町通は京都の古書店街の一つと位置付けられていた。特に学術書や教科書、参考書などを扱う店が多かった。
 丸太町通には1920年代半ばに25店近い書店があり、「数の上では寺町を抜いて、京都古本街のメッカとなったということができる。しかしこの本屋の内容を見ると明治30年以降の創業のものばかりで、江戸時代創業のものは一軒もない」「一般学生相手であって、それが明治末期から発達してきた丸太町書肆街の最大の特徴であった」(脇村義太郎「東西書肆街考」岩波新書(岩波書店、1979年))とされ、1920年代後半にピークを迎えた。
 しかしその後、京都市電の整備によって戦前から京都大学を中心とした学生の流れが変わったことなどから、丸太町の書店数は伸び悩み、戦後まもなくから減少の一途をたどった。1981年に立命館大学が衣笠キャンパスへの全面移転を完了したことも打撃となった。
 1968年当時、丸太町通の河原町丸太町付近にあった古書店は以下の地図の通りになる。
 高野悦子が見た「三軒位」を特定することは困難であるが、河原町丸太町より東側にある、狩野文京堂書店、田中群書堂、川瀬博文堂の可能性がある。
丸太町通の古書店
 狩野文京堂書店は1920年創業で京都市上京区丸太町通中町角にあって、新古書や雑誌を含めた古書を広く扱っていた。店は現存せず、現在はスポーツ用品店になっている。
 田中群書堂は京都市上京区丸太町通中町東入ルにあった。店は現存せず、現在は駐車場になっている。
狩野文京堂書店跡田中群書堂跡
 川瀬博文堂は京都市上京区丸太町通三本木東入ルにあり、社会、人文、理工などを中心に古書全般を扱っていた。店は現存せず、マンションの一部になっている。

 丸三書店は1910年代に当地で開店した老舗で京都市上京区丸太町通三本木東入ルにあり、学術書や参考書を中心とした古書を扱っていた。河原町丸太町より東側にある4店の中では最初に閉店し、現在はマンションの一部になっている。
川瀬博文堂跡丸三書店跡
 河原町丸太町の西側では、竹岡春正堂は京都市上京区丸太町通新烏丸東入ルにあった。
 佐々木九如堂は京都市上京区丸太町通新烏丸西入ルにあった。
竹岡春正堂跡佐々木九如堂跡
寺町通の古本屋

 一九六八年四月十五日、八・五五PM。日本の片すみのある下宿の部屋でラテン音楽のラジオを聞きながら、

 NHK-FM4月15日(月)午後8時20分~10時00分:ステレオコンサート①キューバ音楽の新しい波「ウォーター・メロン・マン」「バン・バン」②リクエスト「水晶の鐘」

1968年 4月19日(金)
 ノートをかうのに店までいくのがめんどうだの、

 原田方の下宿の近くには文具を扱う店がなかった。

 電車の雨うつ窓から見たおばあさん、

 4月18日(木)京都:雨・最高16.1℃最低12.4℃。したがって前日に見た光景の記述である。

 いかつい日本銀行の建物のわきにすわっていた。
日本銀行京都支店

 日本銀行京都支店は、京都市中京区河原町通二条下ルにある日本銀行の支店である。京都府と滋賀県を管轄している。現在の建物は3代目で、明治初期の官営織物工場である旧織殿跡に1965年完成した。
日銀京都支店周辺図当時の建物空撮
 京都市電河原町線の車内から見た情景ということになる。
現在の外観

 牧野さんから『カラマーゾフの兄弟』『人間のしるし』をかりた。

人間のしるし表紙  「カラマーゾフの兄弟」はロシアの小説家、ドストエフスキー(1821-1881)の長編小説。日本では様々な翻訳で出版されている。
☞1968年2月7日「今ドストエフスキーを読んでいるらしいが」
 C.モルガン著石川湧訳「人間のしるし」岩波現代叢書(岩波書店、1964年改版)は、フランスの作家、クロード・モルガン(1898-1980)の小説。ナチス占領下のパリで非合法の新聞の出版に携わった著書が、収容所の捕虜となった体験などを元に書いた、いわゆるレジスタンス文学の作品。
 帯の紹介では「愛は闘いのなかに─この小説ほど、みずからの手でみずらかを解放する人間的行動の偉大さを、はっきりと教えているものはない。1942年のフランスは、暴虐あくなきナチの圧制下にあり、いたるところ拷問と虐殺が絶えなかった。ドイツ軍の捕虜収容書を釈放されたプチ・ブル知識人ジャンは、パリに帰るや祖国の栄誉のために立ち上り、数百万の愛国者に伍して抵抗をつづけた。愛する女をうたったアラゴンの詩が、祖国愛とかたく結びついているように、この物語には、フランス知識人の偉大な愛国心と人間的愛情とがあますところなく描き出されている」とされている。
 「自分自身の心をはっきり見るのは、なんとむずかしいことか! 人はおのれをしょっちゅう分析しているわけではない、それで、とつぜん自分を別人のように思うことがある」「ぼくは自分の感情のおもむくままに生き、自分ではそれに気がつかずに、押しながされていたのだ」(C.モルガン著石川湧訳「人間のしるし」岩波現代叢書(岩波書店、1964年改版))

1968年 4月21日(日)
 晴

 京都:晴・最低3.3℃最高23.6℃。

 私は、三・二八宣言をさらに発展させ、

☞1968年3月28日「そして今はこう思っている」

 岩井先生の『近代史学の形成』をよんだことで明治以後の歴史家の名前と本ぐらいはわかるようになった。

 岩井忠熊『日本近代史学の形成』「岩波講座日本歴史22(別巻1)」(岩波書店、1963年)である。序説、文明史学、史論史学、アカデミズムの成立、文化史、結論の6項目からなる論文。
 「日本近代史学の形成は、日本社会のあらゆる近代化とともに明治維新によって始まった。しかしながら、明治維新の変革は確かに近代化を志向するものであったが、他面において復古的傾向を帯び、封建制を完全には克服しなかったばかりでなく、結局、明治国家は温存された半封建制を自己の支柱の一つとしたといわれる。このような事情は近代史学の形成に当たって不幸な条件をかたちづくることになった」(岩井忠熊『日本近代史学の形成』「岩波講座日本歴史22(別巻1)」(岩波書店、1963年))

 ・基礎的歴史知識をみにつける→『日本の歴史』岩波新書。

☞1968年2月21日「『日本の歴史』(中)の一章分をよむ」

 「教育学」の山下先生は、

 一般教育科目「教育」の講義を指している。山下幸雄は文学部教授(教育学専攻)。

1968年 4月23日(火)
 曇

 京都:曇・最高16.5℃最低10.5℃。

 話の中心でありたい

 この一連の文章が「二十歳の原点序章」(新潮社、1974年)のカバー表面に掲載された。

1968年 4月24日(水)
 ハイ、ワンゲル部に入りましたというのである。

立命館大学ワンダーフォーゲル会

ワンゲル部のスペース

 入ったのは、立命館大学ワンダーフォーゲル会である。
 立命館大学ワンダーフォーゲル会は、学生有志によって1956年4月に設立された。山岳部やスキー部といった体育会の体育系クラブとは一線を画し、同好会の形をとってメンバーが各々自由に山野等を歩いて楽しむことを目的とした活動を行っていた。
 ※本ホームページでは便宜上、「ワンゲル部」と呼ぶ。また日記の記述に登場するワンゲル部独特の用語についてはそれぞれの項で解説する。
 ワンゲル部は部員の自主性を重んじるのが大きな特徴だった。OBの一人は「当時の関西にある他大学のワンゲル部は先輩・後輩の上下関係が厳しいところもあった。でも立命では上級生も下級生も関係なく活動に参加していて、たとえば食器洗いなんかも一緒にしていた。ただやっぱり上級生だから近づきにくいといった雰囲気がなかったわけじゃない」と話す。
 この自主性は設立時の趣旨に含まれる理念であったが、1965年5月に東京農業大学「ワンダーフォーゲル部の登山訓練で〝シゴキ〟と称する暴力団なみの暴行を受けて」(『重体の農大生死ぬ』「朝日新聞(夕刊)1965年5月22日」(朝日新聞社、1965年))学生が死亡した事件を教訓にさらに浸透したという。

 ワンゲル部の部室(BOX)は衣笠キャンパスにあった。広小路キャンパスでは存心館の屋上に通じる4階階段踊り場にスペースを有していた。そこは長いすが置かれ、壁に連絡のための掲示板があった。装備品も広小路側に置いていた。上階だったため、気軽に立ち寄るには少し不便な位置だった。
 部としては両キャンパス一体で運営されていた。BOXやスペースは主に連絡や待ち合わせの場所になっていて、総会など多数が集まる場合は教室を利用し、少人数のメンバーによるミーティングは、広小路の場合は荒神口通などキャンパス近くの喫茶店で行うケースが目立った。ただ全体として衣笠と広小路の間で部員どうしの交流が多くはなかったという。
広小路キャンパスの新歓出店 新入生に広く呼びかける勧誘は主にキャンパス内でテーブルを置くなど“出店”をして行っていた。部員に知り合いがいなかった高野悦子が入部の申し出をしたのは出店だった可能性がある。
 またワンゲル部では広く学生を対象とした「オープンワンデリング」や「PRスキー」も入部のきっかけにしてもらうイベントとして開いていた。
☞1967年11月30日「ワンダーフォーゲルのPRスキーを牧野さんの分と二人分申しこんだ」
 ※当時の立命館大学の状況をモデルとして扱い共産党系文芸誌に掲載された小説の中で、ワンゲル部の「正式な部室はHキャンパスの学生会館内にあった」(草薙秀一『射光(長期連載第1回)』「民主文学1994年1月号」(日本民主主義文学同盟(現・日本民主主義文学会)、1994年))として、広小路キャンパスの学生会館に部室があったかのようなディテールが書かれているが、事実と異なる。

 ワンゲル部は男子が圧倒的に多かったこともあり、高野悦子の入部について男子部員の間では「かわいい女の子が入ったらしいが、どんな子なんだろうなあ」と話題になったという。「(今で言う)オーラのようなものがあったと思う」と話すOBもいる。
 当時は新入部員が当初約80人いたこともある大所帯で全盛期だった。その後徐々に部員数が減少し、一時は存続の危機に直面したこともあったが、それを乗り越え、設立から60年たった今も「立命館大学体育会ワンダーフォーゲル同好会」として活動を行っている。

 今日は、反帝反植民地デーとして府学連の第一波統一行動であった。

 この「府学連」は民青系府学連の意味である。
☞1967年4月22日「三つの全学連の対立をどうみるか」

 「若もの」のもつ明るさとはちがうものなのだ。

☞1967年11月18日「勤労会館の「若者」の定期演奏会へ行った」

1968年 4月26日(金)
 晴

 京都:晴・最低9.6℃最高26.5℃。

高野悦子「二十歳の原点」案内