高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和43年)
1968年10月23日(水)
 雨

 京都:雨・最低12.9℃最高14.3℃。

 「明治百年祭」反対、立命総結起集会に参加する。
 「明治百年祭」は、元号が明治に改元した1868年10月23日(旧暦・明治元年9月8日)から100年を記念して政府主催で行われた一連のイベントである。その最重要イベントである政府主催「明治百年記念式典」が10月23日(水)に行われることになっていた。
 立命館大学では10月19日(土)の学園振興懇談会(各学部長(理事)、学友会(自治会)、大学院生協議会、教職員組合)で、一部学友会(民青系)側からの要求を受けて、理事側が明治百年祭に関する文部省通知に対する抗議声明を出すことを確認し、10月22日(火)に大学と理事会の連名による抗議声明が発表された。
抗議声明
 政府は、1968年10月23日が明治改元から満100年に当たるという理由をもって、いわゆる「明治百年祭」を国家的行事として行なおうとしています。本学にも10月8日付文部次官通知をもって、当日、国旗掲揚、記念の趣旨の徹底、午後休日等の措置をとるよう求めてきました。教学内容に深くかかわるこのような要請を行なうことは、教育、研究の自由に対する介入のおそれがあるといわざるをえません。
 そもそも国家的行事としての「明治百年祭」は、第一に、近代日本の歴史についての特定の歴史観を基礎としてすすめられていることに問題があります。特定の歴史観を政府が式典、行事をとおして国民に強いることは、憲法第19条の思想および良心の自由、憲法23条の学問の自由を侵すものといわなければなりません。
 第二に、「明治百年祭」の理念の内容をなしている特定の歴史観、国家観そのものが、明治憲法体制とその思想を全面的に肯定し、そのもとに行なわれた数々の戦争をも基本的には肯定しようとするものであり、平和主義と国民主権の原則をかかげる日本国憲法の精神にそむくものであります。
 平和と民主主義を教学の理念とする立命館大学は、こんにち政府が行なおうとしている「明治百年祭」が、平和と民主主義の教学理念の依拠する日本国憲法と教育基本法の精神に反するものであるとの認識に立ち、この企画と措置に対して強い反対の意思を表明するものであります。
 1968年10月22日
    立命館大学
    学校法人立命館

 文学部では10月22日、学部五者会談(文学部長、教学主事(教務担当教員)、補導主事(学生担当教員)、事務長、文学部自治会代表)が開かれ、「自治会側の①文学部教授会は明治百年祭反対声明を発表せよ。②23日1、2時限をクラス討論にすることを保障せよ。③3、4時限を文学部集会とすることを保障せよ。④教授会は基本的に円山までのデモに参加せよ。の4つの要求を中心に話しあわれ、23日の日程についてはほぼ自治会側の要求が認められた」(「一文・法五者会談開かる」『立命館学園新聞昭和43年10月28日』(立命館大学新聞社、1968年))

明治百年祭反対立命総決起集会 10月23日(水)は3時限と4時限が全学休講となり、広小路キャンパスでは文学部など各学部で午後1時過ぎから明治百年祭反対の記念講演と学部集会が開かれた。
 さらに六者共闘=立命館大学六者共闘会議(一部学友会・二部学友会・大学院生協議会・教職員組合・生活協同組合・生活協同組合労働組合から構成、民青・共産党系)主催の「明治百年祭反対全立命大学人総決起集会」が午後4時20分から広小路キャンパス研心館4階で開かれ、理事(各学部長)らを含む1,200人が参加した。高野悦子が参加したのもこの集会になる。『二十歳の原点序章』では「総結起」という表記になっているが、誤字である。
 「集会で理事会を代表して藤井産社学部長は「政府の意図する明治百年記念行事は、今日の日本の繁栄がアジア諸民族の犠牲によってうち立てられたものであることを忘れ、かつまたこれは過去に犯した数々の戦争の罪も洗い去ってしまおうとするものでもあり、われわれは平和と民主主義の立ち場からこういった反動政策に反対する」ことを述べた。ひきつづき六者を代表して北村生協労組代表が決意表明を行ない、一部女子学生会が闘争宣言を読み上げ」(「政府へ抗議声明─明治百年祭」『立命館学園新聞昭和43年10月28日』(立命館大学新聞社、1968年))た。
 集会は午後5時10分すぎに終わり、そのあと理事を先頭に学生や教職員が秋雨の中を円山公園までプラカードデモを行った。

 バイオリンの狂おしいほど優雅な響きに耳を傾ける。

 NHK-FM10月23日午後8時20分~10時00分:コンサート コダーイ曲「マロシェセーク舞曲」「山の夜」「ジプシーがチーズを食べる」バルトーク曲「弦楽四重奏曲第4番」

1968年10月28日(月)
 曇

 京都:晴・最低8.2℃最高19.2℃。午後から雲が広がる

1968年10月30日(水)
 ワンゲルの総会が衣笠で行なわれる。

 10月29日(火)のことである。総会は概ね1か月に1回開くことを通例にしていた。広小路キャンパスと衣笠キャンパスの各メンバーが顔を合わせる機会でもあった。
☞1968年7月1日「衣笠でfire keeperのmeetingと庶務のmeetingをし」
ワンゲル部

 公認問題に始まり、旧人合宿、スキー合宿、二重会員問題、

 公認問題は、ワンゲル部が任意の組織のままでいるか、それとも大学の公認団体をめざすのかという問題である。
 さらに公認団体になるとしても、運動系である体育会のクラブや同好会、または文化系である一部学術のサークルになるかを決める必要があった。公認団体になった場合、学生から徴収した学友会費からの支援が行われた。1968年度の場合、体育会、一部学術、さらに芸術系である学芸を合わせた全体で1204万5000円の予算が配分されていた。
 公認問題の背景には、ワンゲル運動の意義を強調するか否かをめぐる一種の路線対立があったという。
 OBの一人は「〝山に登って汗をかいて頂上に行って達成感があればいい〟という路線に対して、〝ただ山を登るだけではいけない、ワンゲルはもっと思想的なものを深めて、人間疎外に対して人間性回復のためにするんだから、いろいろ頭を使っていかないといけない〟というような中で問題があった」と語る。別のOBは「きつくなったら〝お前のワンゲルの位置付けはどこにある〟とか、〝行きたいだけじゃダメだろう〟とか言われて訳がわからなかった」と苦笑する。
 ワンゲル部は現在、体育会の同好会になっている。
☞1968年11月28日「私は旧人合宿に行くのをやめた」

 二重会員問題は、ワンゲル部の部員でありながら別の団体とくに一般の山岳会などに入ることを認めるかという問題である。
 当時のワンゲル部では、冬山を原則として禁止していたにもかかわらず、部員でありながら地元の山岳会にも入っていた男子学生が冬山で遭難、ワンゲル部からも急きょ捜索メンバーを出すという事態を経験した。それもあり、ワンゲル部の活動に物足りず、一般の山岳会などに入って険しくて難度が高かかったりリスクが大きい山行をする人に対しては、部として責任を引き受けられないので退部を求めるべきという意見が浮上していた。

 私はPRスキー、スキー合宿、旧人合宿と、春休み中に三つの行事が重なる。

美山荘・わらび平スキー場
高野悦子のスキー道具(遺品)

 ほとんど週に一回は山に行っていた。

 時系列でまとめると以下の通りになる。
・10月 5日(土)~ 6日(日)…月見パーワン(廃村八丁)
・10月12日(土)~13日(日)…女子部員3人で山小屋入り
・10月21日(月)…牧野さんと愛宕山
・10月26日(土)~27日(日)…Openワンデリング(花背)

 北山がほとんどだ。月見パーワン、

 愛宕山は周山街道(国道162号)より西側にあり、ハイキングの対象としての狭義の「北山」には含まれない。
 「北山の地域については定説がない。大正の初期ごろから登山する人たちによって、称されたまま今日に受けつがれている呼名であり、比叡や愛宕を含むとする人もあれば、含めないで、これらを東山、西山と区別してしまう人もある」(角倉太郎「比良連山と京都北山」『登山ハイキング─比良連山・京都北山』改訂新版(日地出版(現・ゼンリン)、1969年))とされ、当時の有力なガイドブックは愛宕山などを「いわゆる西山。北山との境界は周山街道とした」(「例言」北山クラブ編『京都周辺の山々』(創元社、1966年))と区分している。
 一方、歴史的には「北山は平安のむかしから「京の北方につらなる山々」という広い意味と、いまの鷹ヶ峯から衣笠山にわたる都の、ごく近郊を示した狭い範囲の二様につかいわけられていた」(「はじめに」毎日新聞京都支局編『京の里─北山』(淡交新社、1966年))という。
パーワン(パーティーワンデリング)
月見パーワン

1968年10月31日(木)
 晴

 京都:晴・最低6.0℃最高20.2℃。

 資料講読と英語があったにもかかわらず、午前中は学校に行かず、

 10月30日(水)の行動についての記述である。

 OpenワンデリングのPL、
オープンワンデリング

 ワンゲル部のオープンワンデリングは1968年10月26日(土)~27日(日)に京都・北山で行われた。
 オープンワンデリングは、主に大学内の学生を広く参加対象にして、ワンゲル部に入部してもらうために行う山行である。PLは、ハイキンググループでの引率者を示すパーティー・リーダーの頭文字。ワンゲル部ではパーワンのリーダーから「パーリー」と略して呼ぶことが多かった。

 高野悦子がリーダーとして引率するオープン参加学生のグループ一行は百井別れから天ヶ岳山頂を目指した。カエデ以外の木々は紅葉の真っ盛りだった。
 出町柳駅停留所13:39-(京都バス花背線(現・広河原線))-14:36百井岐(現・百井別れ)停留所
オープンワンデリング広域地図オープンワンデリング詳細図
 「天ガ岳への登路は非常に数多くある。その中でもこのコースは最もアプローチが短く、かつバスによって高度をかせいでいるので、疲労も少ない。格好の家族向きコースといえよう」「さてバスが鞍馬谷の長いたいくつな道を通り、花背峠の登りにかかる直前が峠下であり、2度Uターンをくり返し、数分後に右下へ下りる林道に出合う。ここが百井分かれである」(北山クラブ編「天ガ岳から大原へ」『京都周辺の山々』(創元社、1966年))。

百井別れ
百井別れ停留所百井別れから百井方面

 百井別れは京都市左京区鞍馬本町にある京都府道38号京都広河原美山線の交差点である。当時は百井岐レ、百井分かれとも表記された。京都市街から来て右前方向の百井方面も当時から車道で、現在は国道477号になっている。百井別れから見た山々には真っ黒な杉林の周りに鮮やかな紅葉が織り成す光景が見られたという。
百井別れから見た山々

 一行は百井別れから百井峠に向かった。
 「百井への道は一たん谷に下りて橋を渡り再びゆるやかに上り出す。このあたり秋は尾花の穂が風になびき、周囲の山々はあかねに染まって非常に美しい」「道は尾根の肩へ出て明るくなる。ここから道は北へ谷を巻いているが、道の右方に天ガ岳から連なる尾根のなだらかな起伏が見える。下の谷は百井谷である」(北山クラブ編「天ガ岳から大原へ」『京都周辺の山々』(創元社、1966年))
百井別れ天ヶ岳詳細図百井峠
 「杉林の間の車道を登る。地蔵堂を過ぎるとまもなく百井峠である。峠を5分ばかり下ると、右手の杉林の中へ小道が入っているのを見る。道標が不完全なので見過ごすおそれがあるかも知れない」(創元社編集部編「天ガ岳から大原へ」『関西ハイキングガイド』(創元社、1966年))。

 現在は国道477号の右に「天ケ岳→」の小さな道標がある。
百井から天ヶ岳方向への分岐点天ヶ岳への道
 「すぐ雑木林に変わって、道は稜線の直下をまくようになる。東面の展望が開け、比良山や琵琶湖も見えてくる」「頂上への登り道にも不完全ながら道標がある。道はさらに細くなって再び杉の植林となり、短いクマザサの間を小さな登降をくり返して天ガ岳の頂上に立つ」(創元社編集部編編「天ガ岳から大原へ」『関西ハイキングガイド』(創元社、1966年))。
大原方向と天ヶ岳方向の分岐山道から見える琵琶湖
 秋の山道には落ち葉が重なっていた。当時は伐採後だった山腹は、現在は植林した杉などが成木となっており、途中で遠くの風景が見える地点は限られる。

 一行は天ヶ岳山頂に到着する。
天ヶ岳

 天ヶ岳は京都市右京区鞍馬本町にある山である。山頂付近の標高778m(現・788m)。
天ヶ岳山頂
 展望がよくきき、左には比良の山々の向こうに広い琵琶湖、右の山並みの向こうに京都市内が見えたとされる。

 「天ヶ岳は三角点もなく、だだっ広い尾根の一部であるので、どこが山頂か一見してわかりにくい。伐採されているので展望はよい。とくに初冬にここからみる比良蓬莱山の銀嶺は、実に壮麗である」(北山クラブ編「天ガ岳から大原へ」『京都周辺の山々』(創元社、1966年))。
天が岳山頂から見た比良山琵琶湖方向天ヶ岳山頂から見た京都市街方向
 現在は植林や雑木林が伐採されていないため、山頂からの展望はない。

 オープンワンデリングのサイト地は花背スキー場だった。
花背スキー場

 花背スキー場は京都市左京区花脊別所町にあったスキー場である(地図上参考)。スキーのシーズンオフはキャンプ場も行っていた。最寄りは京都バスの別所中ノ町(現・花背高原前)停留所。
花背高原前停留所花背スキー場跡への山道
 別所中ノ町停留所が「花背スキー場の入口である。学校の前を通って、山道にかかれば、5分もせぬうちにスキー場のすそに出る。シーズンの日曜には、あんなににぎわっていたゲレンデも、ひっそりと静まりかえって、リフトの鉄柱だけが、冬の来るのを待っている」(北山クラブ編「花背スキー場から雲取山へ」『京都周辺の山々』(創元社、1966年))。
花背スキー場空撮花背スキー場入り口付近跡
 花背スキー場ではシーズン中に食堂など3軒が営業していた。停留所から最も近かったのが食堂「三福(みふく)」(後の「ひゅって三福」)で、閉店当時の赤茶色の建物が残っている(写真上右)。

サイト地だった花背スキー場
 一行は花背スキー場でキャンプをして一夜を過ごした。一面のススキが白い穂を出して秋の風に揺れていたとされる。
 花背スキー場は雪不足で1991年に閉鎖された。

 立て看づくりがあったので。

 ここではPRスキー参加者募集の立て看板ということになる。
☞二十歳の原点1969年1月25日「ビラや立看で知るのが唯一の情報」

1968年11月 1日(金)
 晴

 京都:晴・最低6.4℃最高21.2℃。

1968年11月 5日(火)
 曇りのち雨

 京都:曇・最低9.1℃最高22.5℃。午後10時ごろから雨。

 北山でのコンパの席上感じたこと、

 「北山でのコンパ」は、回生別合宿のキャンプでの出来事を指している。

回生別合宿

 ワンゲル部2年生による回生別合宿は1968年11月2日(土)~4日(月)に京都市左京区広河原地区と京都府美山町(現・南丹市美山町)知井地区の京都・北山で行われた。男子5人女子1人(高野悦子のみ)の計6人が参加した。メンバーの役割分担で高野悦子は衛生担当だった。
 回生別合宿は、同じ学年の部員だけが参加する、夜営を伴う山行である。「合宿」の呼称になっているが、ワンゲル部としてのイベントというより、むしろパーワン(パーティーワンデリング)の一種にあたる。
 同行者が残した詳しい回生別合宿「行動記録」などを入手した。それに基づいて当時の山行の行程を紹介する。

[1968年11月2日]
出町柳広河原間地図 13:00京福(現・叡電)・出町柳駅前集合…出町柳(現・出町柳駅前)停留所13:39-(京都バス花背線(現・広河原線))-15:45広河原尾花町停留所

出町柳駅
 一行6人は大学の講義などが終わった土曜日午後、京福(現・叡電)・出町柳駅に集まり、バスで広河原まで向かった。
 京都バスは当時、三条京阪・広河原尾花町間を一日4往復しており、出町柳(現・出町柳駅前)停留所からは途中乗車になる。普通運賃250円、別に荷物の手回り品料金50円。現在は出町柳駅前・広河原間を平日一日2往復(冬季を除く土曜休日は3往復)している。
出町柳駅前停留所
 高野悦子は広河原に新人合宿でも来たことがある。
新人合宿

佐々里

 広河原尾花町停留所15:55…16:35佐々里峠16:45…17:40佐々里
 バス終点の広河原尾花町停留所で下車した一行は、夕暮れの中、川沿いの山道を上っていった。現在もこの道はほぼ同じルートでかろうじて残っているが、荒れている。
広河原から佐々里まで1967年地図
 佐々里峠で10分間休憩して出発した後、午後5時5分に日の入りで暗くなった。ただ佐々里までは下りの一本道だったため迷う心配なく急ぐことができたとみられる。佐々里峠から佐々里まで当時の平均所要時間約1時間20分の距離を、重い荷物を背負いながら55分で歩いている。
☞1968年12月8日「佐々里の部落の山里を思い出した」

佐々里の集落 「佐々里の部落」は、京都府美山町佐々里(現・南丹市美山町佐々里)にある集落である。
 「広河原でバスを降り、平坦な道を川沿いにさかのぼると二つの谷の出合いにつく。左の尾花谷に道をとり砂防堰堤を越えると、車道は終わり細い谷道となる。川も岩が多くなり小滝がつづく。佐々里峠へはこれに沿って森林帯の暗い、湿った登りになるが、白い飛沫をあげる清冽な流れ、野鳥の声などに慰められながら、次第に高度をあげていく。川を越えその左側の斜面を道は進むが、このあたりは樹木の美しい明るい谷で、初夏のころフジやタニウツギ、トチの花が目をやすめてくれる。登りきり左へカーブして古い杉林へ少し登ると佐々里峠の石室に出る」「石室の前から奥瀬谷へおりる道は、原生林の中をゆくいいみちである。木肌の美しい大樹の間をジグザグに下ると、梢の間から国境の山々が見え、長い奥瀬谷の曲折が見下せる眺めに思わず立ち止る。
 坂を降りきると流れがあらわれ、奥瀬谷を歩くことになる。ところどころ草が道をおおっていたりするが、一本道なので迷うこともない。緑や岩や川を楽しみながら進むと、植林が現われ、山田や、農小屋もあって、里近い様子になってくる、と不意に広い立派な車道に出る。
 そして5分もゆくと佐々里の村にはいる。川も護岸された立派なものとなり、八丁川と合流点になる」(北山クラブ編「佐々里峠から田歌へ」『京都周辺の山々』(創元社、1966年))
 佐々里森脇にある八幡宮の木々がランドマークになっている。この日の京都の日の入りは午後5時3分。
 当初の計画通り、この日は佐々里をサイト地としてキャンプした。
 広河原・佐々里間は1978年に京都府道38号広河原美山線が開通した。
 19:35夕食、22:00就寝

[1968年11月3日]
 05:00起床、05:55朝食
佐々里から須後・芦生への道 佐々里06:55…07:35(休憩)07:45…08:35芦生(須後)

 暗いうちに目を覚まし、放射冷却で冷え込んだとみられる中で朝食。午前6時16分に日の出を迎える。
 一行は佐々里(①)から整った道を佐々里川沿いに北上する。おおむね緩やかな下りである。白石橋(②)を過ぎて出合橋(③)までに向かっている間で休憩をしている。
佐々里から北へ向かう車道
 「佐々里の村をはずれて北に車道を行く。ここからは舗装こそされていないが、自動車も通れる広い道を気楽に歩くだけである。道を回るたびに展開する景色を楽しんでいると、山すそのひっそりとした集落─白石につく。
白石橋
 白石より約2キロ歩くと由良川との合流点となり、コンクリートの大きな出合橋を渡ると、道はT字型になっている」(北山クラブ編「佐々里峠から田歌へ」『京都周辺の山々』(創元社、1966年))
 当時は国鉄(現・JR西日本)山陰本線・和知駅から京都交通のバスが京都府美山町(現・南丹市美山町)田歌の田歌停留所まで運行していたものの、この付近までバス路線は通っていなかった。現在は南丹市営バス芦生・佐々里線が佐々里停留所まで運行している。
由良川にかかる出合橋芦生演習林到着地図
 一行は出合橋を渡って芦生車道(林道、現・美山町道)を東に向かった。ここから一部に急な上り坂もあり、30分弱で芦生(須後)と呼ばれる地区(④)に到着したとみられる。この付近で休憩し再び歩き始めた
 「出合から奥は京都大学が開設した林道にはいる。すぐに、廃屋を含めて、7、8軒の民家と少しの田んぼに出るが、ここは口芦生の部落である。そして、急な須後坂にかかる」「お地蔵さんのある峠をすぎ、下り坂になると、杉の木の間に、細長くのびた芦生の部落がみえる。須後と呼ばれている古くからの部落と斧蛇の京都大学芦生演習林の事務所と職員宿舎である」
芦生・須後付近内杉橋手前
 「芦生原生林の入り口、由良川最上流の部落芦生は人口約70人、典型的な山村である。冬は1.5メートルの雪が積り、電灯がついたのが、つい最近、昭和36年春のことである。ここにある知井小学校芦生分校は京都府下で最も僻地の分校の一つであるといわれ、生徒数は16人」(渡辺弘之「秘境芦生原生林」『京都の秘境・芦生─原生林への招待─』(ナカニシヤ書店、1970年))
 美山町(現・南丹市美山町)芦生須後に京都府青少年山の家(現・芦生山の家)が開所したのは1969年8月になる。また知井小学校芦生分校は1983年に休校し1986年に廃校となった。
芦生研究林入り口芦生研究林事務所
 芦有(須後)地区を先に進み内杉橋(⑤)を渡ると、京都大学芦生演習林(現・芦生研究林)(⑥)がある。
 「芦生の事務所は由良川に沿うて一つの小部落を作っている。芦生というけれど地図で見ると須後である。林間に大きく建っているスイスの山小屋風な本部は異国風な趣きがあって大変美しい」(森本次男「みなかみの隠れ里─京大演習林付近」『京都北山と丹波高原』アルパイン・ガイド45(山と渓谷社、1964年))
 芦生演習林は京都府知井村(1955年・美山町、現・南丹市美山町)の共有林の一部4179.7haを学術、学生実習のために京都大学が99年の契約で借り、後に事務所付近6haを国有地として1921年にスタートした。演習林では戦後、昭和30~50年代には木材生産とスギ人工林の造成などが行われてきたという。2003年にフィールド科学教育研究センター芦生研究林に改称された。

芦生演習林から小野子西谷とナヤスケ谷付近の地図 芦生(須後)08:45…09:45小野子東谷・西谷分岐…10:00(休憩)10:10…11:05(昼食)
 芦生演習林に入った一行は、山小屋のような事務所前(⑦)を通って、森林軌道の橋は渡らず由良川右岸のルートで小野子西谷をめざした(⑧)。現在このルートは崩落の危険があるため立ち入りが禁じられている。
小野子西谷への道
 当初の計画では小野子西谷からブナノ木峠(939m)を経て、あるいはその一部をショートカットして、天狗岳・天狗峠まで歩いてサイト地とするルートのつもりだったとみられる。しかし小野子東谷・西谷分岐を過ぎた付近のどこかの地点からルートを外れることになる。
計画した天狗岳へのルート
 (昼食)11:40…12:40(休憩)12:55…13:15(休憩)13:20…13:45(休憩)13:55…14:20(706mのピーク)14:25…15:20ナヤスケ谷二股
 結局、昼食や休憩をしながら午後2時20分に「706mのピーク」を通ったあと、午後3時20分にナヤスケ谷二股(⑨)にたどり着いた。ここで再び地図上の現在地が確認できる形となった。
ナヤスケ谷二股竜王橋
 ナヤスケ谷二股15:55…16:20芦生(須後)…16:45廃村灰野
内杉橋上流芦生須後再び通過地図
 ナヤスケ谷二股の落合橋から林道の下りを急ぎ、竜王橋(⑩)を通って、再び芦生(須後)を過ぎ(⑪)、今度は森林軌道の由良川橋(⑫)で由良川左岸に渡った。由良川橋は1965年の台風24号で一部消失する被害があった。1973年に鉄筋コンクリート橋に架け替えられている。
由良川橋森林軌道跡
 森林軌道は本来、レール(軌条)上を走行する台車(トロッコ)に木材を載せて運搬する林業用施設のうち、木材を積載した台車の乗り下げは自重を利用し、空の台車の引き上げには動力車を使用せず、人力や牛馬の力で行うものである。
 芦生演習林(現・芦生研究林)の森林軌道は林道建設に先立つ1927年に建設が開始され、林道建設に先立って運材や木炭運搬などあらゆる事業に貢献した。1950年から1970年にかけて木材輸送が集中し、1962年に動力車が、1965年にモーターカーが導入されることになった。由良川本流沿いでは苗木が1975年まで生産されていて、生産物や人員の輸送に用いられてきた。
 1975年以降は廃村灰野までの不定期運行となり、2016年より安全管理上、使用停止となっている。2008年に近代化産業遺産に登録された。

灰野谷廃村灰野付近
 森林軌道に沿って歩き、左に由良川があり、右にあたる山側にも伐採後間もない状態で見通しの良い所があった。このため道に迷うことなく、灰野谷(⑬)を越えて京都府美山町(現・南丹市美山町)芦生の廃村灰野(はいの)に着き、サイト地とした。日の入りが近づいており、キャンプの設営を急いだ。
 18:10夕食、22:30就寝
 『二十歳の原点序章』にある「四日、北山でのコンパの席上感じたこと」は11月3日夜のキャンプでの出来事であり、振り返ったのが11月4日である。

[1968年11月4日]
 05:30起床、06:30朝食

廃村灰野サイト写真ポイント

 一行はサイト地である廃村灰野で出発前に記念撮影をしている。撮影ポイントは灰野神社の鳥居前。
廃村灰野地図森林軌道と灰野神社
 周囲の木々やほこらの基礎部分は当時と同じ位置にある。当時傾いていた鳥居は建て替えられ、現在の鳥居はほぼ直立している。
廃村灰野サイト写真ポイント廃村灰野での高野悦子
 撮影者がいるため写っているのは5人。この写真は、ワンゲル部の高野悦子の山行で撮影場所が当時のままピンポイントで特定できる数少ない一つである。

往時の廃村灰野 「灰野もすでに廃村になってかなりの月日がすぎた。いまだに藁屋はそのままの形で残っているので、山旅人は廃村と知らずに通りすぎるかも知れない。しかし気をつけて見れば、どこか人気のない君の悪い静寂と、崩壊しつつある「時」のきざみが聞えてくるように思われる」(森本次男「みなかみの隠れ里─京大演習林付近」『京都北山と丹波高原』アルパイン・ガイド45(山と渓谷社、1964年))
荷物を担ぐ高野悦子 廃村灰野付近は当時、伐採後間もなくの状態で見通しが良かった。現在はうっそうとした杉林の中にあり、廃村灰野の集落跡には屋敷跡の石垣だけが点在している。
 芦生では木材生産や炭焼きをする山番が江戸中期に各所に配置されていたが、江戸末期にはほとんど去り、最後に残ったのは灰野村(集落)だけだった。
 その灰野が廃村になったのは1961年。廃村となった時には由良川最上流の集落だった。最盛期には8軒、旅人相手の宿もあって、今も芦生の集落に残っている松上げや盆踊りが盛大に行われていた。人によっては山仕事のほか、ヤマメを釣って売り、冬には狩猟を行って生活していた。

廃村灰野から佐々里峠と広河原への地図 廃村灰野07:45…09:00(休憩)09:15…10:15(休憩)10:30…11:20佐々里峠
佐々里峠への道
 廃村灰野を出発した一行は、芦生(須後)方向に前日来た道を少し戻って(⑭)、左にある灰野谷の山道を上った。
ササの中を進む高野悦子 この道は古くは芦生から京の都への街道としてよく使われた一本道だったが、灰野谷から佐々里峠に至る「点線路は全然通れないのは山好きな人にはまことにお気の毒だ」(森本次男「みなかみの隠れ里─京大演習林付近」『京都北山と丹波高原』アルパイン・ガイド45(山と渓谷社、1964年))とされる状態にあった。 
 当時の京都・北山全体に言えることだったが、山道をササ(ブッシュ)が深く覆っていた。
 ただ後には「廃道になっていたこの歩道も、ハイキングコースとして、再び開設された。しかし、まだネマガリダケの切株がでているので、しばらくは歩きにくい。尾根歩きなので、佐々里側、広河原側のながめはよい」(渡辺弘之「秘境芦生原生林」『京都の秘境・芦生─原生林への招待─』(ナカニシヤ書店、1970年))とされ、その後は「久しい間荒れていたが、京都府が芦生山の家と京北山の家を繋ぐコースに指定してから整備されて復活するようになった。この道は殆んどが尾根道で、左右に移り変る谷々の景観が楽しめ、由良川の深さが味わえるとてもよい尾根道である。雑木林あり、ブナ林あり、それに緑の笹が終始追随する」(金久昌業「佐々里峠」『北山の峠─京都から若狭・丹後へ─(下)』(ナカニシヤ出版、1980年))と評されるようになっている。

佐々里峠スナップ写真ポイント

 一行は、前々日の夕方以来再び立ち寄った佐々里峠(地図上右)でスナップ写真を撮っている。撮影ポイントは石室の前である。
佐々里峠ポイント写真佐々里峠での高野悦子
 当初の計画とは異なるが、廃村灰野をサイト地とするルート変更で再び佐々里峠に立ち寄ることになった。この石室は山道沿いにあったが、京都府道38号整備のために解体された。現在の石室は再建されたものである。
 当時は「石を積みあげブリキ屋根のある立派な石室で、広く焚火あとまである。降雪期にここを越える土地の人人が、暖をとり、風のおさまりを待つ避難小屋ともなるところであろうか。ここで出会わせた人々が、互いの里の様子を話しあい、山村の交流に役立つ場所であったようにも考えられる。
 室の奥に祭られた素朴は石仏は、それらの人々の、儀式ばらない信仰に今も守られ、あるいは廃村となった灰野の人々のまた八丁の人々の、心の底に生きつづけているふるさとであるようにも思われる」(北山クラブ編「佐々里峠から田歌へ」『京都周辺の山々』(創元社、1966年))とされた。
 「佐々里峠の峠小屋は石を畳んだ石室で大変りっぱな、そして古風な峠小屋である。こういう峠小屋は近くの五波谷峠の麓にあるがほかには見たことがない。この峠小屋を見ただけでもこの峠を越える価値があろう。しかしこの峠もやがて府道として車道になるそうだから、そうなればこの峠小屋もどうなるかわからない」(森本次男「みなかみの隠れ里─京大演習林付近」『京都北山と丹波高原』アルパイン・ガイド45(山と渓谷社、1964年))と行く末が心配されていた。

佐々里峠の石室石室内部
佐々里峠の丸太いすに座る高野悦子 佐々里峠には現在の石室内部にあるような丸太作りの長いベンチが石室の外にあって、一行はここにも並んで座って写真を撮影している。
 「云わば車道は旧道を直角に断ち切っているのである。だから車道の上部は今でもトチの木が残っているし、旧道も残っている。だが道というものは使わなければ雰囲気が変るものである」
 「佐々里峠の車道が完成したのは昭和53年頃である。山肌が削り取られて大きく切り開かれ、10メートル巾以上もあるような舗装路が峠を貫通した。と同時にかつての峠のイメージも軋断してしまった。だが以前石室があった場所には新しく頑丈な二世が作られている。以前に比べて似て非なる感じがするのは石組が本格的なものでなく、セメント補強が目立つからであろうか。それでも再建されているのは、村人の昔日の峠に対する愛惜と解釈したい」(金久昌業「佐々里峠」『北山の峠─京都から若狭・丹後へ─(下)』(ナカニシヤ出版、1980年))

 佐々里峠11:35…12:00広河原(昼食)
 佐々里峠からは前々日と同じ川沿いの山道を下り、広河原に到着して昼食となった。
広河原尾花町バス写真ポイント

 バス出発時刻まで余裕があることから、一行は広河原尾花町停留所で停車中のバスの前で写真を撮影した。
広河原詳細地図広河原尾花町停留所跡
 車体はボンネットバスで、行先表示器には「三条京阪─出町柳─鞍馬─大布施→広河原」とあった。
バスの前でポーズ広河原菅原町停留所の高野悦子
 時刻表通りであれば三条京阪発の京都バスが午後0時26分に広河原尾花町に到着、折り返しで三条京阪行きとなって出発を前に停留所で待機していたことになる。

 広河原尾花町停留所14:01-(京都バス花背線)-16:17出町柳-16:26三条京阪停留所
バスの行先表示器同行者の行動記録
 一行は広河原尾花町停留所で京都バスに乗車し帰路に就いた。2時間余りの車内では寝ている時間が多かったとみられる。

 『チボー家の人々Ⅴ』─アントワーヌ、ジェンニー、ジャン・ポール、彼らは強く私を感動させる。

 いずれも作品の主要人物である。チボー家の次男・ジャックから見た場合、ジャックの兄・アントワーヌはチボー家の長男で、内科・小児科の医師。ジャックと恋愛関係になるジェンニーは、ジャックの少年時代からの親友・ダニエルの妹。ジャン・ポールは、ジャックとジェンニーの間に生まれた息子にあたる。
チボー家の人々

  1. 高野悦子「二十歳の原点」案内 >
  2. 序章1968年7-12月 >
  3. 回生別合宿 佐々里