高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 2月 1日(土)
 雨のち曇
 京都:曇・最高12.6℃最低4.4℃。明け方まで小雨で、午後も雲が多かった。

 十一時ごろ「シアンクレール」(注 喫茶店名)

シアンクレール

店舗外観地図
 シアンクレールは、京都市上京区河原町通荒神口角にあったジャズ喫茶「しあんくれーる」(写真上)のことである。写真上は1984年撮影で建物は現存しない。
 ※正確な店名表記はひらがなで「あ」が小さい「しぁんくれーる」だが、本ホームページでは便宜上、日記の記述および当時の店のネオンサイン(写真右下)と同じカタカナで統一する。
 店名の由来について、オーナーの星野玲子は「「しぁんくれーる」とはフランス語で「明るい田舎」という意味で、その頃の河原町荒神口はひなびた感じで、喫茶店をやるような感じの所ではなかったんですよ。今でこそ周辺部も随分と開けましたけど…。それと、「思案に暮れる」というのが偶然に…。別に思案にくれるという意味で付けたわけではないんですよ」(星野玲子『「しぁんくれーる」…私の人生そのもの』「jazz1975年8月号」(ジャズピープル社、1975年))と説明している。

 星野玲子は、マイルス・デイヴィス、ソニー・ロリンズ、アート・ブレイキー、ルイ・アームストロング、セロニアス・モンクといったアメリカの大物ジャズ・ミュージシャンと親交があり、来日して関西に来た際のアテンドをしていた。また彼らも来たら店に立ち寄っていた。とりわけマイルス・デイヴィス、ソニー・ロリンズと親しかった。
 星野玲子は自分について「私の生活信条はね、ころんだっていいんですよ。長い人生、この人生険しいんですから。でも、その時は泣けるし、痛いですよね。でも、ゴールまで全力で走る。小意気な生き方は出来ないんです。いらぬスキャンダル、噂を立てられたり…。
 恰好いい生き方は私には出来ないんです。まあ、私も女ですから、男性関係の失敗もよくあったし、仕事の上でももうイヤだと思った時も幾度もありました。泣きながらでも立ち上がって生き続けるべきだと…。だから器用に傷つかないで生きて行こうと思ったことはないんです」(星野玲子『「しぁんくれーる」…私の人生そのもの』「jazz1975年8月号」(ジャズピープル社、1975年))と話している。
シアンクレール提供写真側面提供写真

 「シアンクレール」はバックにクラシックを流す。

 シアンクレールは、1956年4月オープンの京都で草分けのジャズ喫茶であり、1階ではBGMとしてクラシック、2階では本格的にモダンジャズをレコードで演奏した。
 とくに毎月第3日曜日正午から開く久保田高司解説によるレコードコンサートが知られた。
 高野悦子は、1階では荒神口通に面した窓側(写真上の右下)に座ることが多かった。
立命館大学探検部OB「私が会った高野悦子」
店内広告
 2階について「店はあまり広くはないが、なかなかインテリアにもこったやや古めかしいサルーン。ちょっと珍しいランプのほややガラス器や、六角時計や蓄音器などのアンティックが所せましと、しかしよく考えて置かれ、若い男女や教師やサラリーマンや客多勢。本を読んだり、居ねむりしたり、コーヒーをのんだり様々」(西条和尚『ジャズ喫茶行脚─京都「シャンクレール」』「スイングジャーナル1974年4月号」(スイングジャーナル社、1974年))
店のマッチ英字でシアンクレールの名称と住所が書かれている

シアンクレール跡 本ホームページ編集人は1984年、当時営業中の2階に入ったことがある。そこは窓が完全に目張りされた簡素な造作でライトが照らされ、建物の外からはイメージできない音響が大型スピーカーから流れた。
 ただ、その時の率直な印象は「思ったより狭いな。こんな所で何時間も粘れるのかな」ということだった。編集人は、クラシックが流れる小さな名曲喫茶でよく長時間粘った経験があったが、そこでももっと広かったからである。
 今回改めてシアンクレールの跡を見て、やはりその狭さを実感した次第である。

 モダンジャズは当時まさに現在進行形だったため、ジャズ喫茶は海外の新譜を紹介することに注力し、リクエストが新譜に集中する傾向があった。
 シアンクレールは、店が独自のルートを持ち、直輸入の新譜をいち早く手に入れたため人気があった。

 地元の人の話によると、高野悦子より前の時期になるが、歌手の沢田研二(1948-)も、近くにある京都府立鴨沂高等学校の生徒時代に、シアンクレールによく顔を出したという。
 同学年にあたる作家の亀和田武(1949-)は「京都に修学旅行でいったのは、高校2年の秋だった。夜の自由時間には当然のように、京都の名店「しあんくれーる」を目指した」「ジャズを聴きながら、懊悩の果てに青春にピリオドを打った女子大生。彼女のことを思うと、切ない。もっと、いいかげんに生きりゃ良かったのに、俺みたいにさ」「あの時代のジャズは危険な毒を内包していたんだ。俺のような高校生まで内省的にして、思案に暮れさせてしまう力が、ジャズとジャズ喫茶には、まだあった」(亀和田武『60年代ポップ少年─ジャズを聴くならジャズ喫茶。渋谷DUETと京都しあんくれーる。』「本の窓2013年1月号」(小学館、2012年))と振り返っている。
 店は早くも1960年代初めには倉橋由美子(1935-2005)の小説の舞台として「電車をおりるとそこからこの河原町通りと直角に、左への道、荒神橋に至る道がはじまつてゐる。《シァンクレール》はその角にある。木造の、小さな、二階だけの店だ」「若いウエイトレス、どこの喫茶店でもみられるタイプのウエイトレスが二人、あなたを迎へる。なかは暗い、少々暗すぎるほどだ。あなたはストンド・グラス風の窓のそばに坐り、コーヒーを賴む…」(倉橋由美子「暗い旅」(東都書房、1961年))と登場している。

 シアンクレールで1969年春にリクエストが多かったアルバムは、いずれもサキソフォン奏者のスティーヴ・マーカス(米、1939-2005)“Count's Rock Band”(1969年、ボルテックス・レコード)ジョン・コルトレーン(米、1926-1967)「マイ・フェイヴァリット・シングス」(My Favorite Things)(1961年、アトランティック・レコード)だった(『有名ジャズ喫茶リクエスト・トップ2』「スイングジャーナル1969年5月号」(スイングジャーナル社、1969年)参考)
Count's Rock BandMy Favorite Things
☞1969年6月21日「ステーヴ・マーカスの何とかいうのをリクエストしたのだが」」

 また、シアンクレールが当時、新譜としていち早く紹介したアルバムとして、アメリカのオーネット・コールマン(米、1930-)“New York Is Now”(1968年、BlueNote)ソニー・クリス(米、1927-1977)“Up, Up and Away”(1967年、Prestige)(『ご自慢LP表』「スイングジャーナル1969年3月号」(スイングジャーナル社、1969年))。西ドイツ(現・ドイツ)のウォルフガング・ダウナー(西ドイツ、1935-)“Free Action”(1967年、MPS)と、グンター・ハンペル(西ドイツ、1937-)“Heartplants”(1964年、MPS)(『ジャズ喫茶告知板』「スイングジャーナル1969年6月号」(スイングジャーナル社、1969年))などを挙げている。
New York Is NowUp, Up and AwayFree ActionHeartplants

 北側から見た店の外観開店当初の昭和「31、2年頃はG・シアリング、S・ロジャース、C・ベイカー等のW・コーストジャズが盛んでした。34、5年頃から漸次E・コーストジャズに人気が移ってH・シルバー、A・ブレーキー等のファンキー的なもの、特にD・バードのヒューゴ等は盤がすり切れて何枚も買換える程でした。
 ファン気質も当店について言えば、当初は何となく知的でスッキリお洒落な方が多くフィーリングを楽しむ傾向がありました。うちの客層はいつも大学生が中心ですが唄は世につれの諺通り世代を反映してホットでハッピーに、のち学生運動盛んな昭和43年前後は前衛ジャズが圧倒的で理屈っぽいお客様が多かったようです」(星野玲子『しあんくれーる(京都)─ジャズ喫茶の50年代ノスタルジー』「ジャズ批評21号」(ジャズ批評社、1975年))

 高野悦子の日記中で訪れた他のジャズ喫茶は以下の通り。
ダウンビート三条店
リザ

 清心館前での文学部の群衆、ガナリたてる二つのマイク、入れずにウロウロしている入試受験者たち。しばらくして実力の排除が行われた。
広小路西側地図清心館

 1月31日(金)に全共闘準備会(反代々木系)に参加する文学部闘争委員会が学生大会を開催、期末試験の延期・スト権の確立・清心館(文学部棟)の封鎖を決議したとして、2月1日(土)早朝に清心館の封鎖を試みたが、別の学生によって排除された(『立命館における「大学紛争」とその克服』「立命館百年史通史二」(立命館百年史編纂委員会、2006年)参照)
  この時点で文学部とくに日本史専攻では教授陣が辞意を表明しており、一方で試験を行おうとしたことから事態が深刻化したとみられる。
 立命館大学では2月1日から期末試験が実施される予定だった。1969年度の立命館大学の入学試験が2月14日(金)開始であることも考えると、「入試受験者」の表記は事実と異なり、「期末試験受験者」を意味すると考えられる。

 乱闘。柴田君が放り出され、渋谷君が眼鏡をとられていた。

 柴田君と渋谷君は、ともに文学部史学科日本史学専攻の同級生。

 学部事務室から本日の入試中止が発表される。

 「「試験強行阻止」「暴力学生に屈するな」─両派の学生のマイク合戦、学内デモなどで、1日朝の立命館大は、後期試験の実施をめぐって、全くの混乱に陥った。29日午後から再開された寮連合と大学側の大衆団交で、寮連合側は試験の無期延期を強く迫ったが、大学側はこれに対し、はっきりした回答を示さないまま、1日午前6時前に中断。この日から試験が行なわれる予定になっていたので、早朝から多くの学生が登校してきたが、大学側のあいまいな姿勢と目前の混乱ぶりに、どまどいの表情をみせていた。
 文学部と産業社会学部では、この朝になって大学が試験は予定通り行なうとの掲示をしたところから、寮連合を中心とする反日共系の学生が硬化、29日の学生大会(反学友会派)でスト権を確立した文学部の学生たちは、清心館正面にピケをはって試験強行阻止をはかり、学友会系の学生と小ぜり合い。反日共系の学生は、イスや机を持ち出してバリケードを築き、さらにシャッターをおろして実質的には試験が出来ない状態となり、混乱のエスカレートを恐れた教授会は試験中止を決定した」(『文学部も試験できず─立命大』「京都新聞(夕刊)昭和44年2月1日」(京都新聞社、1969年))
 「本日の入試中止」は、期末試験の中止のことを意味すると考えられる。

 小林のことを考えるとクラブにいる必要性はないと感じるのだが、

☞二十歳の原点序章1968年12月17日

 あの夜想曲の始めのメロデーがきこえてきたのだ。

☞二十歳の原点序章1967年11月15日「ショパンの夜想曲をまどろみながら聞いているときでも」

 「教授のいない大学に一体誰が授業料を払おうとするのであろうか」という私の意識。
 「北山茂夫教授(非代々木系)、ついで代々木系といわれる岩井教授が辞任、24日には内地留学中で紛争圏外にいた非代々木の奈良本辰也教授が」「辞職してしまった。
 林屋学部長も辞表を出しているので、立命館大学の日本史研究室は講師一人を残して、みなやめてしまったことになる(鈴木沙雄『特集・新局面を迎えた大学問題─関西にみる東大紛争の衝撃』「朝日ジャーナル1969年2月9日号」(朝日新聞社、1969年))
 なお、このうち岩井忠熊は辞意を撤回し、大学に残った。
☞1969年1月25日「また教授が相ついで辞表を提出するなど」
☞1969年4月25日「岩井氏は」
高野悦子「二十歳の原点」案内