高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 6月 1日(日)
 六月の闘争

 日記の記述、以下「学問の私的所有」に続く。

 岩井の学問とやらをコテンパアにやっつけて

☞1969年4月25日「岩井氏は人間、生きている人間には矛盾があって混沌さはないというのだろうか」

 ペソと遊び談笑する慰安の場としての存在でしかなかった。

☞1969年4月29日「文闘委の部屋のペットちゃんのニャロメ(猫)とペソ(犬)おまえもうねむっているかい」

 姉の家を一銭も持たずにとび出し、

☞1969年5月31日「決裂して飛び出す」

1969年 6月 2日(月)
 中村とのリレーション。四・二七、五・一三、五・一九、

中村

 中村は、京都国際ホテルの従業員(調理担当)。駆け出しのコックだった。
 当時の京都国際ホテルでは組織上、営業部の下に客室、レストラン、ビヤガーデン等の接客担当が置かれ、別に独立して、料理を担当する調理部にコックや板前らが所属していた。
☞1969年6月14日「調理場でキュウリを切ったりカツをあげたりしている彼に」
☞1969年5月4日「二十七日、中村氏と呑みに出かける以前と以後では」「私自身の二十七日における醜い姿を知らされただけだ」

 中村の年齢は高野悦子と同じか1歳年上くらいだったとされる。身長約1メートル75センチのしっかりした体格でスポーツの経験があった一方、身なりはおしゃれで口調は丁寧で穏やかなこともあり、学生アルバイトの間では実際より年上の印象をもたれていた。
 京都国際ホテル男子寮には1968年10月から入居していた。当時の上司は後年、中村の仕事ぶりについて「言われたことをそつなくこなし、協調性もあった。ただ丈夫そうな見かけほどは体が強くなく、体調を崩すこともよくあった」と評している。

 中村は高野悦子について「立命館大学で学生運動をしている学生」という認識を周辺に伝えていた。
 高野悦子の死亡後、父・三郎は当時の事情を聴くために、日記の登場人物で重要な位置を占める中村を京都国際ホテル男子寮に訪ねている。
 しかし寮では「中村は不在」と言われ、結局そのまま会えずに終わっている。

ビヤガーデンのバイト女子学生「『中さん』こと、中村さんと怪しいイメージ」

 当時ビヤガーデンでアルバイトのウエイトレスをしていて、高野悦子と別の大学の女子学生は、中村についてこう語っている。

 元バイト女子学生:中村さんとは屋上ビアガーデンで職場が一緒でした。中村さんはコーナーの一つにいました。
 私自身はアルバイトの学生の仲間どうしで仲がよかったんで中村さんと直接話した記憶はないんですが、女子の中では人気があったんですよ。
 バイトの中では、彼のことを「コックの中さん」って言ってました。中村さんって言うのが面倒だから「中さん」。コックさんで勤めてたから社会人だったんですよね。
 スポーツ選手のようにすごい体格が良くて、男前でしたね。バイトの女子の中ですごいモテてました。
 私は好みじゃなかったから“ふーん”でしたけど、女子が寄って中村さんと高野さんのことで「へぇー、高野さんがへぇー」っていう状況でした。

屋上ビヤガーデン
 「中村」は仮名で、実際は実名の名字の一部で「○さん」と呼ばれていた。

 中村さんは“自分が男前”だっていうだけでなく、“自分がモテるだろう”ということをよく知っているような人でした。プライドが高くて、キザっぽいとまでは言わないけど、そういった人でした。
 彼はホテルの中で付き合っている人がいただけじゃなくて、本当にモテてて結構いろいろな所に行っていたようでした。
 当時の私の中で、彼は本当に女たらしというか、“女の子の扱いがすごい上手そう”っていうふうに感じたものです。
 怪しい人という私のイメージ、今でも正しかったという気がしています。

☞1969年5月11日「そのあと吉村君から中村氏にはステディな関係な女の子がいるときいた」 

 御所で二回あい、テレを数回。

 御所は、京都御苑のことである。
☞1969年5月17日「屋上で中村さんにテレし、府庁で待ち合せ、御所で十一時ごろまで話す」
☞1969年5月24日「きのうも一昨日もテレしたがあなたはいなかった」
☞1969年5月26日②「中村にテレしたがおらず」
☞1969年5月28日「きのう中村にテレした」
 高野悦子が電話をかけたのは、中村が当時暮していた、京都国際ホテル男子寮である。

京都国際ホテル男子寮

 京都国際ホテル男子寮(写真左)は、京都市上京区新町通下立売下ルにあった京都国際ホテルの寮の一つである。
 鉄筋コンクリート5階建てで、当時、電話や食堂が1階あり、2階から5階の相部屋に50人あまりが暮していた。なお当時、新町通の向い側(西側)は住宅だった。
京都国際ホテル男子寮空撮男子寮周辺空撮
 京都国際ホテル、男子寮、京都府庁、京都御苑の位置関係は下の通りである。建物は後に予備校生の寮になったが、現存せず、現在は駐車場になっている(写真下、2012年4月22日撮影)。
京都国際ホテルと府庁と御苑京都国際ホテル男子寮跡
京都国際ホテル

 とにかく訣別だ。

☞1969年5月4日「恋愛の幻想からの訣別!」

 二十七日にテレしたとき、すっかり参っている中村であるのに、なぜ五ー六分でテレをきったのか。

 日記の記述、「けっきょく中村にあいたいという願いは」に続く。

 今はただ中村からのテレを待つだけである。

 男子寮に電話して不在のため、電話口の人に中村に折り返し電話をするよう伝言を頼んだと考えられる。

1969年 6月 3日(火)
 雨、そろそろ梅雨か
 九・四〇AM

 京都:大雨・最低17.5℃最高21.2℃。午前8時ごろから雨模様となり、正午から午後2時くらいまで雨足がかなり強くなった。
 1969年の近畿地方の梅雨入りは6月17日である。

 机の中をひっかきまわしてみつけた五〇円で煙草を買い、雨にぬれて(傘がない)喫っている。

川越宅とタバコ店 下宿からタバコを買いにいった店は、丸太町七本松電停近くの京都市中京区丸太町通七本松西入ルにあったタバコ・勢上(セガミ煙草店)の可能性がある。

 なけなしの金で買ったショートピースの味はうまいのか、にがいのか。

 当時ショートピースは10本入り1箱50円だった。最もポピュラーだったハイライトは20本入り1箱80円だったので金が足りない。

 中村にテレをしたがいなかった。

 電話をかけたのは、京都国際ホテル男子寮である。

 雨あがりの夜空をしばらく眺めた。

 日中の雨は、午後6時には上っていた。

 きっぱり訣別しよう。

☞1969年5月4日「恋愛の幻想からの訣別!」
☞1969年6月2日「とにかく訣別だ」

 中村の好きなシャンソンの一曲「アデュー」を暗い夜空に向って歌った。
 「アデュー」は、フランスのシンガーソングライター、シャルル・アズナブール(1924-)が歌うシャンソン(1967年)(Barclay Records(現・ユニバーサル・ミュージック・グループ))。別れの曲である。
 下宿の川越宅の西側は小学校の校庭であり、またこの日夜は西の空は雲に覆われ、月出が午後11時過ぎなので暗かった。
川越宅
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