高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和38年)

中3東北修学旅行

1963年 6月24日(月)
 修学旅行でのことも、今のクラス内のこともみんな話した。

東北修学旅行全体図 西那須野中学校の修学旅行は1963年5月18日から2泊3日の日程で、宮城・松島、岩手・平泉、仙台を見学した。
 コースは松尾芭蕉「おくのほそ道」を念頭に置いたものとみられる。
移動には国鉄(現・JR東日本)や仙台市営観光バスなどを利用した。

 ここでは『松島・平泉・仙台の旅』「西中生徒新聞昭和38年6月20日」(西那須野中学校生徒会、1963年)の記事を元に、当時の修学旅行を振り返る。記事は高野悦子と同学年の生徒(別のクラス)が書き、教師が添削したものである。


宮城・松島

西中生徒新聞記事修学旅行の車内
○ 出発
 青葉薫る五月晴れのこのごろ、われらのいる学校は生徒たちの希望の胸を躍らせるような雄姿を、那須野ヶ原一円を見下ろしている。
 しかし急に天候も崩れ始め、入梅期には一足早い小雨が降り続いた。楽しみの修学旅行はどうなるのか、ちょっと心配だった。いよいよ18日の出発の日が来た。

 一同元気に西那須野駅に集合し、校長先生からお話を聞き、父兄に見送られ、約300名近い私たちは元気よく西那須野を出発していった。どの友達も小雨のことなど気にせず、ただ旅行という方に心を引かれ、みんなの顔は朗らかだった。7時の汽車で出発したかと思うと、青葉薫る那須野ヶ原を北へ北へとばく進し、いつの間にか東北南部・白河へ到着した。
西那須野駅前と東北本線
 白河に着くと、あっちの方こっちの方から、バッグの開ける音、歌を歌っている声、やっと旅行という気分になった私たち、大声でわめきあっていた。
 松島まで約6時間という長時間、ただ楽しさに気を取られ、写真を写している人、トランプをやっている人で、長時間も飽きないで過ごしていた。
 いよいよ福島を過ぎ、宮城県地方に入り、みんなの憧れていた松島へと着いた。

 白河駅で停車したのは、機関車交換のためである。
西那須野駅

○ 松島で
 松島駅で下車し、歩いて海岸まで行った。

JR松島駅松島駅周辺図
 松島の観光には仙石線の松島海岸駅が近くて便利だが、列車が直通する東北本線の松島駅を利用している。
松島海岸拡大図現在の海岸の様子

 海岸で記念写真を撮った。ここからの松島湾の景色は予想していたよりも美しくなかったけど、やはり他には例のないような景色にうっとりさせられた。ここならもう一度、いや二、三度くらい来たいものだ。
松島記念撮影ポイント

 高野悦子は、松島の名所の一つである五大堂の見える宮城県松島町松島町内の海岸で3年3組の記念写真を撮っている。
松島空撮当時の海岸の状況
 高野悦子は最前列でしゃがんだ姿勢で写っている。
松島記念撮影ポイント松島での写真

 瑞巌寺(ずいがんじ)には男のガイドさんが親切に案内してくれた。中でも特に印象に残るのは、樹齢数百年を経つ大木の中に、がんと、ちょっとの力では動きそうもない円福寺が、緑の中に、過去を知らないかのようにあるのには感銘を受けた。
瑞巌寺

 瑞巌寺は宮城県松島町松島町内にある臨済宗妙心寺派の寺院。
総門瑞巌寺洞窟群
 9世紀に天台宗の寺院、青竜山延福寺(松島寺)として創建され、13世紀中ごろに臨済宗建長寺派の青竜山円福寺となったと伝えられている。円福寺はその後妙心寺派となり、1605年に伊達政宗が再建に着手、松島青竜山瑞巌円福禅寺(松島山瑞巌寺)と改め、1609年に今の本堂などが完成した。
 松尾芭蕉は1689年6月25日(旧暦5月9日)午後、瑞巌寺や五大堂に参詣した。
修学旅行の見学の様子現在の状況
 高野悦子は洞窟群、鐘楼、ふすま絵で知られる本堂などを見学した。
当時の本堂当時の孔雀の間
 本堂の建物は2009年から2016年まで大掛かりな修復工事が行われた。ふすま絵は1985年から復元模写の作業に入り、現在の本堂には往時を再現したものが配置され、宝物館に原本が展示されている。

 次に五大堂に行った。途中危なげな、一歩誤れば海の中に足を突っ込みそうな橋を渡って、五大堂へ行った。五大堂は幾百年間、松島湾からの冷たい潮風にさらされてしまって、当時の美しい姿はなかった。
 東西南北の方向を示すこの五大堂にはそれぞれ4面に十二支が彫りつけてあった。
五大堂

 五大堂は宮城県松島町松島町内にある瑞巌寺の堂で、寺を守るために五大明王が祭られている。
 瑞巌寺に伝来する「天台記」によれば、五大堂は平安時代初期の807年、坂上田村麻呂がこの島に毘沙門堂を建て、828年、圓仁が瑞巌寺の前身・松島寺を立てて、ここに五大明王を祭り、五大堂と呼ぶようになったというが、確かなことは明らかになっていない。
 現在の建物は1604年、伊達正宗が紀州(和歌山県)の名工、鶴衛門家次に命じて建立した。3間(約5.5m)の正方形の寄せ棟造りで、四方に欄干付きの縁側を巡らし、正面に向拝(こうはい)が張り出している。内部に重厚な家形の仏具を置き、五大明王像を安置する。
 有名な蟇股(かえるまた)の彫刻など、雄健な桃山建築として、国の重要文化財に指定されている。
すかし橋五大堂
 島全体が聖域とされている。すかし橋は江戸時代中頃の記録にすでに見られ早くから透かしの構造であったことが知られる。五大堂への参詣には身も心も乱れのないように足元をよく見て気をひきしめさせるための配慮とされている。

ここ松島での見学は大変印象に残った所であった。波の中にぽつんぽつんと浮かび上がった松の島、そして緑の中の円福寺、幾百年も潮風と戦ってきた五大堂、これらももう二、三度見たいものだ、こんなことを思いながら、船が波止場から遠ざかるのをじっと見つめていた。  松島海岸─塩釜港
松島海岸・塩釜港間の汽船松島・塩釜の地図
 松尾芭蕉は塩釜から舟で松島に着いた。「おくのほそ道」に松島で句を残さず「予は口を閉ぢて」(もはや句をよむどころではない、という意味)と文にしたが、紀行文の構成のためという見方が一般的で、実際には「島々や千々に砕けて夏の海」(蕉翁句集)という句の記録がある。
 宮城県松島町は2011年3月11日の東日本大震災で震度6弱の地震と3m80㎝の津波に襲われた。
 260余りの島が緩衝になったこともあり、周辺に比べ被害は比較的少なかったと言われる。それでも町民の死亡21人(うち町内で3人)、重軽傷37人、家屋の全壊219戸が出た。
 瑞巌寺を始めとする歴史的建造物に津波での被害はなかったが、地震によって壁の亀裂やしっくい壁の崩落等が生じた。その後、瑞巌寺参道のシンボルである杉並木の3分の1にあたる約300本が津波の塩害で枯れてしまい、伐採された。五大堂近くには松島町が2013年に建立した東日本大震災慰霊祈念碑がある。
瑞巌寺参道震災慰霊祈念碑

 これから第1日目の旅館小松館に行くのだということがわかると、今度は、旅館でのことなどが頭に浮かんで来て松島のことなんかすっかり忘れてしまった。
 塩釜港に到着後、塩釜神社を訪れている。
塩釜神社

 塩釜神社は宮城県塩竈市一森山にある神社。現在の社殿は1704年に建設された。
当時の塩釜神社現在の石段
 鳥居から202段の石段を上った山上にある。
202段の石段塩釜市東日本大震災モニュメント
 松尾芭蕉は1689年6月25日(旧暦5月9日)朝、塩釜神社を参拝している。
 宮城県塩竈市は東日本大震災で沿岸部で最大4m80㎝、島部で8mの津波に襲われ、沿岸部22%と島部居住区域が浸水した。市民の死亡47人(うち市内で17人)、災害関連死18人、家屋の全壊1017戸、大規模半壊2240戸に及んだ。

 高野悦子が宿泊したのは小松館である。
小松館

 小松館は宮城県塩竈市港町二丁目にあった旅館。付近は震災の津波で被害が出た。建物は現存せず、空地になっている。
神社から旅館へ小松館跡
 宮城県松島町松島にあるホテル「小松館好風亭」の前身にあたる。

岩手・平泉
 修学旅行2日目の朝食前に旅館近くの塩竈市魚市場で取引の様子を見学している。
塩竈市魚市場

 塩竈市魚市場は宮城県塩釜市港町一丁目にあった塩竈市の水産卸売市場。元々商業港だった塩竈市での漁獲物水揚げ量増加に対応するため宮城県によって建設され、1929年に開設した。開設当時は鉄道と直結する水産物市場として有数の規模を誇った。
 1963年ころは、8,343㎡の敷地に鉄筋スレート造の水産処理場や水揚げ岸壁、貨車ホームなどの施設を備えた。水揚げ量に占めるサンマの割合が高かったのも特徴である。
魚市場空撮塩釜市魚市場跡
 魚市場は1965年に移転した。建物は現存せず、塩釜港旅客ターミナルや駐車場などになっている。

 国鉄(現・JR東日本)・塩釜駅─(東北本線)─一ノ関駅
塩釜駅地図塩釜駅
 一ノ関駅からバス5台に分乗し、毛越寺へ向かった。

塩釜駅から一ノ関駅まで

○ 平泉について
 平泉と言えば、日本史の興味深い一こまが思い出される。
 奥州藤原氏がここを本拠地として3代が100年の繁栄の夢を残した。しかし蝦夷豪族の勢力を受け継いだ藤原3代も、源頼朝の新しい武家政治の体制に屈服した。
 それから800年経った。
 奥羽の富を集めた平泉も、今は貧しい一村にすぎない。しかし幸いにも保存されてきた藤原3代の史跡が私たちに昔を語っていた。
 私たちは、奥州藤原氏の人間、また生み出した環境、彼らの史跡を知るのが私たちの目的だったと思います。

毛越寺

 毛越寺は岩手県平泉町平泉大沢にある天台宗の寺院である。鎌倉時代には多くの堂がある大きな寺院だったが、1226年の火災と戦国時代1573年の兵火で消失した。1954年から5年間の発掘調査で当時の遺跡が確認された。
毛越寺の門南大門跡
 まず毛越寺(もうつうじ)は、二代藤原基衡が建てた寺である。ただ、今は毛越寺南大門の跡あるにすぎない。ここは七堂伽藍の正門で、二階総門の堂々たる建物で、鳥羽院の勅額「金堂円隆寺」が掲げられてあった。今は礎石12を残し、当時の壮大さを物語っていた。
 また大泉池は、塔山背景に3万余坪の園林に、七条楼閣が建ち並んで大泉池にその影を写したことであろう昔の盛観は今もしのばれる。
金堂円隆寺跡大泉が池
 また俳聖・芭蕉が元禄2年、平泉を訪れて「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと笠打敷きて時のうつるまで涙を落しはべりぬ」。
 「夏草や兵どもが夢の跡」
と詠嘆した真筆一句が刻まれている。

 現在の本堂は1989年に再建された。
 松尾芭蕉は現在の毛越寺付近を実際に訪れてはいないとみられている。「夏草や…」の句は広く平泉の風景について詠んだものである。
 修学旅行の一行はこのあとバスで中尊寺の入口にあたる月見坂まで移動している。

中尊寺

 中尊寺は岩手県平泉町平泉衣関にある天台宗の寺院である。奥州藤原氏の初代・藤原清衡が1105年から創建し、このうち金色堂は1124年に基本構造が完成している。
 平泉中尊寺は、藤原清衡、基衡、秀衡の3代が栄えた。
 平泉は秀衡が建てた後、田畑になって、金鶏山だけが形を残している。芭蕉が書いた平泉は、今から860年前、藤原3代が、京そっくりの都、文化を作り上げた、しかし源氏の白旗、白河の城下に翻るや、その勢いは秋風が木の葉を払うように、前9年、後3年の役で三代は終わりを告げた。今は、ただ金色堂、経蔵が当時の面影を残していた。
武蔵坊弁慶の墓中尊寺月見坂
 中尊寺の入口の坂下の広場の中央に柵に囲まれ弁慶の松があり、その根元に古い石塔があり、弁慶の墓と伝えられている。俳人、素鳥の句碑がある。
 「色かえぬ松のあるじや武蔵坊」
 表参道をつま先登り、月見坂を登る両側に、古木の杉並木が連立して、東北の名刹(めいさつ)、中尊寺を印象づけていた。

金色堂

 金色堂は俗に光堂とも呼ばれ、清衡が15年の歳月を費やして工事したものである。宝形造・三間四方・単層、木瓦ぶき、内側、外側屋根瓦に至るまで黒漆を塗り、その上に金箔を押したものであった。金色堂の朽廃をおそれ、鎌倉時代に正応元年(1288)に覆堂(ふくどう)が建てられた。
金色堂経蔵
 この金色堂を芭蕉はこう歌った。
 「五月雨の降残してや光堂」
 金色堂の内部は、中央および左右後方に3つのしゅみ壇を構え、それぞれ壇下には、初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体が安置されている。また秀衡の子、忠衡の首も安置されている。
 内部の華麗なことは、柱、はりに螺珠玉をちりばめ、要所に金銅の金具を付し、中心に玉をはめたもので、浄土表現において世界最高とも言うべきである。幸い、僕たちの行った時は覆堂が取り外され、金色堂そのものが見られたのは本当に良かったと思った。

 見学当時、金色堂は金ぱくが失われており、解体修理の準備に入っていた。覆堂も工事中で、1965年に現在の鉄筋コンクリート造の建物が完成。1968年に東京で復元作業が済んだ金色堂が収められた。
 松尾芭蕉は1689年6月29日(旧暦5月13日)に中尊寺・金色堂を訪れている。

 次に経蔵は、初代清衡公が天仁元年中尊寺の一部として建立したものである。
 経蔵には三代が奉納した一切経3部が納めてあり、初代清衡公の金銀一切経、二代基衡公の金泥一切経、三代秀衡公の宋版一切経である。当時は2万巻もあったと言われるが、2階造り瓦ぶきであった経堂が、建武4年、野火により2階が焼けた時に焼失あるいは散逸して、現在は2,800余巻しか残っていない。この一切経は1,000人の坊さんが8年かかって作ったと言われている。
 讃衡蔵(さんこうぞう)は、中尊寺山内に残る重要文化財を収め、後世に守り残すために作られた蔵である。そこには「三体の仏像」、金剛界大日如来、閼伽堂(あかどう)釈迦如来、峯薬師如来、また一字金輪大日如来などが安置されてあった。また、金色堂の再建のために3遺体の上にあった仏像32体が一緒に安置されてあった。藤原4代の棺内遺品があった。

 1950年、金色堂にあった藤原四代の遺体に対する学術調査で、中尊寺は全国的な脚光を浴びた。
 現在の讃衡蔵の建物は2000年に新築された。

 昔の面影今はなく、田畑が広々と広がり、ひっそりとした、一農村平泉。太陽の下に、地面の下に、藤原三代いや四代の文化は静かに眠っている。

平泉記念撮影ポイント

 高野悦子は、平泉のハイライトである中尊寺金色堂の前で3年3組の記念写真に写っている。背景には工事中の覆堂付近に仮設の建物が見えている。高野悦子は最前列で写っている。
平泉記念撮影ポイント平泉での写真
 バスと列車で国鉄・仙台駅へ向かい、仙台駅からバスで旅館に到着した。3年1組、2組、3組の3クラスは旅館に先着している。

○ 旅館で
 汽車の都合で全員が旅館に着いたのは7時過ぎになってしまった。外出もできないので残念だと思っていたら、先生が「レクリエーションをやる」とおっしゃったので大騒ぎになった。班対抗でご褒美が出るというのだから全員一生懸命である。
 トップを承ったのは1組女子のファッションショー。奇妙な服装が飛び出して大笑い。新聞の服じゃ雨の日が心配になりました。
 ツイスト、歌、タップダンス、そして校長先生の踊りなど、日頃取り澄ましていた友達も、すっかり本性を現して、おなかを抱えて大笑いの連続でした。

 平泉の観光はJR平泉駅前を起点として徒歩やレンタサイクルでできるが、町内の各名所を回る巡回バス「るんるん」の1日フリー券利用も便利である。毛越寺、平泉文化遺産センター、中尊寺などを結んでいる。
巡回バスるんるん

仙台
○ 仙台市見学
 5台のバスに分乗した私たちは、ガイドさんの説明を聞きながら、まず競技場を見学しました。西中の野球場しか見ていない私は、広いこととスタンドの立派なのに驚きました。

 仙台市営バスを利用している。
宮城陸上競技場

 宮城陸上競技場は、仙台市原町南目生巣原(現・宮城野区宮城野二丁目)にある宮城県の陸上競技場。国体の開催に備えて1952年に完成した。
宮城陸上競技場仙台市陸上競技場
 2009年から仙台市陸上競技場になっている。
西那須野町立西那須野中学校

仙台城跡

仙台市周辺図当時の仙台市の風景
 そこではすぐバスに乗せられてしまい、目的地・青葉城へ向いました。荒城の月で有名な所だというので、お城を想像して行ったら、石垣しか残っていなかったので少し残念でした。山の上に築かれた要塞だけあって、バスから降りてみると、市全体がよく見渡せました。ガイドさんの案内で荒城の月の碑を見たり、伊達正宗の銅像を見たりしました。
 仙台城跡は、仙台市川内(現・青葉区川内)の青葉山にある城跡。公的には青葉城址と呼んでいた。仙台城跡には江戸時代の建物は残っていない。現在ある脇櫓は1964年に復元された。
仙台市中心部の眺め伊達正宗騎馬像
 ガイドさんは、この銅像の右の眼をウインクしているなどと言って笑わしていましたが、伊達の殿様として勇名をとどろかしたこの人をもう一度仰ぎ見ると、何となく圧迫されそうな、また勇ましい気持ちが湧いてくるのでした。
 戦時中に撤去された伊達正宗騎馬像は1962年に再建されている。伊達正宗は幼少時に右目を失明し、後世「独眼竜」と呼ばれたが、騎馬像では両目を開いている。
仙台城本丸跡仙台城空撮
 仙台城跡は東日本大震災の地震で石垣が崩れるなどの被害が出た。

仙台記念撮影ポイント

 高野悦子は、仙台城本丸跡にある宮城県護国神社の前で昭忠碑をバックに3年3組の記念写真を撮っている。当時の付近は未舗装で、周囲の木々が現在ほど茂っておらず、塔の先端に、金鵄(きんし)と呼ばれるトビをモチーフとしたブロンズ像がはっきり見えている。高野悦子は最前列で写っている。
仙台記念撮影ポイント仙台城跡での写真
 昭忠碑は東日本大震災の地震で金鵄が落下した。

野々村さん撮影ポイント

 仙台城本丸跡にある「荒城の月」(こうじょうのつき)の歌碑の前で、野々村さんが高野悦子を撮影した。
 歌碑は作詞者の土井晩翠が存命中の1952年に建立されている。写真では向かって右に倉橋さんも一緒に写っている。
「荒城の月」の歌碑野々村さん撮影ポイント
 歌碑脇の土井晩翠像は近年になって建立されたもので、高野悦子が見学した当時はなかった。像の設置に伴い、歌碑が向かって左手前方向にわずかに移動している。
当時の歌碑の状況
小学校同級生・野々村さん「憧れの人、高野悦子」

 「荒城の月」 は土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合しているのが特徴。土井晩翠(どい・ばんすい、1871-1952)は仙台ゆかりの詩人で、歌詞は仙台城がモチーフになっている。
歌碑の碑文 荒城の月の歌碑は1952年に教え子など有志の後援会である晩翠会によって建てられた。碑文は以下の通り。
 荒城の月
春高楼の花の宴(えん) めぐる盃(さかずき)影さして
千代の松が枝(え)わけいでし むかしの光いまいづこ
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいづこ
いま荒城の夜半(よわ)の月 変はらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら 松に歌ふはただ嵐
天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなほ ああ荒城の夜半の月
 晩翠

 JR仙台駅から仙台城跡の往復には路線バスもあるが、仙台市営バスの循環バス「るーぷる仙台」も利用できる。クラシックな車内の雰囲気を味わえ、専属運転手の車窓ガイドも楽しい。
るーぷる仙台週末パス
 首都圏から週末を使って松島、平泉、仙台などを鉄道で周遊する場合、JR東日本が発売する特別企画乗車券(おトクなきっぷ)の「週末パス」を利用すると運賃が安上がりになる(2014年7月現在)。ただし当日の購入はできない。

○ 帰り
 修学旅行の一行はバスで国鉄・仙台駅へ向かった。
国鉄仙台駅
 2泊3日の楽しかった旅行も終わり、今は家へ帰るばかりだ。帰りの汽車の中は来る時と同様あまり混んでいなかった。だが帰りとなるとみんな黙って口の中だけがもぐもぐしている。仙台を出発した時の汽車の窓から見た田畑は耕地整理がしてあって碁盤の目のようにきれいだったが、福島、郡山と来るにつれて段々畑が多く、山がたくさんあることをよく表している。
 白河を過ぎ栃木県に入った時、何だか急に家が恋しくなり、早く家に着きたいという気持ちで胸がわくわくしてきた…今まで雨が降っていたが、黒田原近くではすっかり雨が上がった。
 東那須野を過ぎて、ついに西那須野に着いた。家の人たちがたくさん迎えに来ていてくれ、みんな元気だったので安心したらしい。校長先生の話を聞いて解散した。楽しい2泊3日の修学旅行だった。

 東那須野駅は1982年、東北新幹線開業に伴い那須塩原駅に改称した。
 ※記事の引用は原文に忠実にしながら、誤字・当て字等の修正、若干の表記の手直しを行った。

 高野悦子の中学3年生当時の担任の三木先生は「中三の修学旅行の時、旅行寸前にわたくしの不注意から高熱で倒れ、旅行の前々日は平熱になり、引率を校長に願い出たのですが、許されず、生徒達にあやまりながら、松島の旅を見送りました。
 旅行後の感想を書かせた時に、生徒達からたくさんの不満の声がありました。「先生が行かなかったので楽しくなかった。代りの先生が行っても、ただついているだけでつまらなかった。」など……。
 その中で彼女は、こう書いていました。見学地の様子、旅館での夜の楽しかったなど、そして、先生方が、列車の中、見学地、宿泊の部屋で、「元気か?気分の悪い者はいないか?グッスリ寝ろよ。」など声をかけてくれて、楽しい旅行ができました。と、彼女の細やかな気くばりに、わたくしの心はいやされ、先生方への感謝の気持でいっぱいでした。
 「楽しい旅行ができました。」この時彼女から何よりの土産をもらいました。中学最終の学年の旅立ちのため、ひとりひとりの生徒達に心の支えになるよい思い出をたくさん作り、楽しかった学校生活にしてやりたいと、強く思ったものでした。
 修学旅行のみんなのプレゼント、悦ちゃんが選んでくれたという、静御前のこけしが、彼女と重なりあって時折り語りかけ、語りあっています」
(『第18回卒業生 高野悦子』「萌 西那須野中学校50年の軌跡」(西那須野中学校、1997年))と振り返っている。

 私は倉橋さんを誠の親友として三年生という期間を過していきたい。
 転校生という荷をせおっても
 いつもあかるく楽しい
 現代的な女性

 倉橋さんは、4月に栃木県宇都宮市から西那須野中学校に転校してきた女子生徒。日記の記述で後出する「美紀子ちゃん」は倉橋さんのことである。
 修学旅行では高野悦子と一緒にいる時間が多かった。
 西那須野中学校の生徒たちにとっては当時、宇都宮からの転校生は“都会から来た”と扱われたとされる。
☞1964年1月1日「四月の?日かに美紀子ちゃんが転校してきた」

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