高野悦子が中学生当時の栃木県西那須野町は、1955年に旧・西那須野町と旧・狩野村が合併して誕生した町である。「にしなすのまち」と読む。
このうち国鉄東北本線・西那須野駅前に広がる中心部(下図)は合併前の旧・西那須野町地区に属しており、塩原温泉や大田原市の玄関口にあたる栃木県北部の交通の要衝として市街化していた。
ただ「大部分の地域は、明治初年先覚者の努力によって、不毛の原野に水が引かれ、各地より開拓者が入植して開拓が始められ」(『町勢要覧80年のあゆみ』(西那須野町、1967年))、那須疎水の整備によって田園地帯となった。
その後の北関東の車社会化に加え、1982年に隣の旧・東那須野駅が東北新幹線が停車する那須塩原駅となったこともあり、現在の西那須野駅前は各地の地方都市と同様に空洞化が著しい。一方で国道4号など幹線道路沿いにスーパーなどが並んでいる。
西那須野町は2005年に隣接する黒磯市、塩原町と合併し、那須塩原市となった。
ジロ(次郎)は高野家の二代目の愛犬。愛犬との散歩は自宅を出て北西に向うコースが中心だったとされる。
周辺道路は当時、車の通行は少なかった。
野々山さんは、小学校および中学校の同級生女子。野々山さん宅は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)扇町のタバコ店で、高野悦子の自宅のすぐ近くにあった。建物は現存せず、現在はマンションが建っている。
高野悦子が通った中学校は、栃木県西那須野町西那須野(現・那須塩原市下永田)にある西那須野町立(現・那須塩原市立)西那須野中学校である。
高野悦子は1961年4月に入学、1963年1月8日時点では中学2年生(14)である。
1947年創立の西那須野中学校では、いわゆるベビーブームの子どもたちの入学によって、このころ生徒数が急増し、それに対応するために1961年4月に5教室からなる木造の第三校舎が完成。さらに1962年5月18日、音楽室と普通教室の計3室をからなる木造の第四校舎を旧・西那須野町立東小学校から移築・完成した。1962年には学級数が20に達し、中学校発足以来最高となった。
当時は写真のように、校舎は木造平屋で東西広い廊下を真ん中にはさんで南北両側に教室が並び、学期ごとに南側と北側の教室が入れ替わった。校庭は広く、周囲は雑木林だった。
高野悦子の中学2年生と3年生で担任の三木先生は「彼女は、高野とか、悦ちゃん、カッ子ちゃんという呼び名で、先生方、多くのクラスの仲間から呼ばれ、特にクラスの男子にとっては憧れの存在でした。
小柄で端正な顔だちで、髪はかりあげで、それは愛くるしく、とっても好感がもたれました。いつも優しく、なごやかな表情で明るく、学習、体育面にも勝れ、部活動にも一生懸命参加、学級のもろもろの事などにも、前向きの姿勢で何ごとにも取り組んでいました。
人をかきわけて、先に立つということはなく、自然とみんなから推されて、いつのまにか、クラスの中で軸となって、活躍することが多々ありました。
例えば、構内の諸行事である、学級対抗の球技大会、水泳大会、合唱コンクールなど、偉ぶらず、目立たず、リーダーシップを発揮して、どの競技にも自らも参加し、どれもこれもよい成果をあげた原動力になりました」(「第18回卒業生 高野悦子」『萌 西那須野中学校50年の軌跡』(西那須野中学校、1997年))と話している。なお三木先生の教科は国語である。
☞中学校通学路
高野悦子は中学校時代、性格的にお高くとまったり気取ったりするところはなかった。しかし、同級生の女子のグループの一部には「お姫さま」と名付けて、仲間外れにしたり距離を置く者もいたとされる。
野々村さんが来たのは西那須野中学校の講堂である。
高野悦子は西那須野中学校で卓球部に所属していた。卓球部は講堂の一部に卓球台を並べて練習をしていた。
野々村さんは、小学校時代の同級生男子で中学校では柔道部員。同学年だが中学校ではずっと別のクラスだった。柔道部も講堂の一部に畳を敷いて稽古をしていた。
講堂は現存せず、1969年1月に体育館が完成している。
西那須野町役場は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)扇町にあった。高野悦子の自宅のすぐ近くである。
建物は現存せず、現在は那須塩原市の倉庫になっている。ただ入り口の松だけが往時を物語っている。
西那須野町役場は、1990年に栃木県西那須野町(現・那須塩原市)あたご町に新築・移転した。新築後の庁舎は、2005年に西那須野町が黒磯市および塩原町と合併して那須塩原市が発足してからは、那須塩原市西那須野支所になっている。
栃木キリストの幕屋は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)扇町にあった新宗教の会堂(地図上参照)。
栃木キリストの幕屋は1959年、栃木県西那須野町扇町に創設された。1948年に手島郁郎(1910-1973)によって設立された無教会主義の宗教団体「キリストの幕屋」の流れをくむ。1962年には高橋久雄が着任した。
「キリストの幕屋」は、キリストの文字が入っているが、カトリックやプロテスタントなどの一般的なキリスト教会とは無関係の日本独自の団体である。機関紙『生命の光』を出し、政治的には右翼の立場で活動を行っている。
1956年に建てられた会堂の建物は現存している(『西那須野町の宗教史』(西那須野町、1991年)参考)。
竹内勝次は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)永田町で竹内医院を開いていた。竹内医院は旧満州・奉天市(現・中国・瀋陽市)から戦後、西那須野町に移って1947年に開院した。内科・小児科で、竹内勝次は高野悦子の掛かりつけの医師だった。
妻の竹内楽子がピアノの指導をしていた。竹内楽子は戦前に女子音楽学校(現・日本音楽学校)で学んでいた当時、後に歌手となりヒット曲「東京行進曲」(1929年)で知られる佐藤千夜子(本名・佐藤千代、1897-1968)と交友があった。
佐藤千夜子は歌手として大陸の日本軍慰問の公演で奉天市を訪れた際、かぜの診察を現地の竹内医院で受けることになり、竹内楽子と偶然再会した。
竹内「楽子はピアノ教室を開いた。そこへ高野悦子という子が習いに来た。その子が長じて大学生となり、鉄道自殺をした。その日記「二十歳の原点」は竹内医師の世話で世に出た」(結城亮一「大陸慰問」『あゝ東京行進曲』(河出書房新社、1976年))。
竹内医院は1974年5月に閉院した。建物は現存せず、駐車場になっている。
☞『那須文学』「高野悦子さんの手記」
三チャンネルはNHK教育テレビ(現・NHKEテレ(地上デジタル2チャンネル))。
『ピアノのおけいこ』は、ピアノ初心者を対象にした実技習得のための講座番組である。講師は作曲家で後のTBS系『家族そろって歌合戦』審査員でも知られる高木東六(1904-2006)だった。当時の放送時間は月曜日と水曜日の午後7時00分~30分。
『ミスター・エド』は、人間の言葉を話す馬のエドと飼い主夫婦を主人公とするアメリカのテレビホームドラマである。エドの声の日本語吹替は三遊亭小金馬(現・四代目三遊亭金馬)(1929-)だった。フジテレビでナショナルリビング劇場として月曜日午後7時00分~30分に放送されていた。
「昭和34年(1959)年ごろになると西那須野町でも少しずつテレビが普及しはじめ」、「そして昭和35~37年には、一般家庭に急速に普及していった」(「社会の変化とオリンピック」『西那須野町の社会世相史』(西那須野町、2004年))。
『二十歳の原点ノート』に記述はないが、高野悦子は西那須野中学校時代に行われた〝お気に入りテレビ番組〟のアンケートで、中学2年生の時に『ホームラン教室』、中学3年生の時に『うちのママは世界一』『てなもんや三度笠』と回答していることがわかった。いずれも当時は白黒テレビ放送である。
『ホームラン教室』は、牟田悌三(1928-2009)が父親役を演じるパン店の子供(小柳徹(1948-1969))を主人公とした少年野球チームの子どもたちに学校や家庭で起きる問題を描いたホームドラマである。
NHK総合テレビの「子供の時間」で土曜日午後6時35分~50分に放送されていた。
『うちのママは世界一』は、米ABCテレビ制作でドナ・リード(1921-1986)が母親役を演じるアメリカの中流家庭を舞台にしたホームコメディである。
TBSテレビで火曜日午後7時00分~30分に放送されていた。日本版の番組主題歌に番組スポンサーである味の素の名前が入っていたことでも知られる。この放送時間帯は上記の『二十歳の原点ノート』の記述にある『ミスター・エド』が放送されていなかった曜日にあたる。
『てなもんや三度笠』は、藤田まこと(1933-2010)と白木みのる(1934-)が演じる「てなもんやコンビ」が江戸時代に全国を旅するという設定のコメディである。ギャグやドタバタ芸それにミュージカルの要素などが混じったバラエティとして、テレビ史に残る有名番組。
大阪・朝日放送製作でTBSテレビでは日曜日午後6時00分~30分に放送されていた。1963年においては11月24日放送分が視聴率40.5%(関東地区)で、年間視聴率の17位に入っている。
このように見ると、当時の高野家のお茶の間では、他のテレビがある家庭と同じく、夕方からテレビを見ていたのが日常だったとみられる。