高野悦子「二十歳の原点」の時代の日本の社会運動や学生運動をテーマとした企画展示が2017年10月11日(水)から12月10日(日)まで千葉県佐倉市で開かれた。
企画展示を開いたのは千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館、通称「歴博」である。1981年に開館し、1983年の一般公開からすでに30年以上の歴史がある博物館だが、東京から遠いこともあって存在を忘れていた。見学は今回が初めてになる。京成佐倉駅から徒歩で向かった。
企画展示は「1968年─無数の問いの噴出の時代」と題されている。入り口に大きな〝立て看〟風の案内板を設置しているのが印象的である。入館料は企画展示と総合展示(常設展示)合わせて一般830円。
1960年代後半に日本で起こった、ベトナム反戦運動や三里塚闘争・水俣病闘争などの市民運動・住民運動、全国的な大学闘争などの多様な社会運動に総合的に光を当てている。特に「1968年」は、この時代の象徴的な出来事である東大闘争や日大闘争といった学生運動が活発に行われた年だったと説明している。
企画は3年前に元東大全共闘議長・山本義隆氏から東大闘争の資料約6,000点を寄贈されたことなどがきっかけ。国立の博物館でこの時代の社会運動を取り上げることは初めてとされる。
☞1969年1月10日「東大 機動隊の導入」
展示された資料は、当時の書籍・雑誌・パンフレット、ビラ、写真といった印刷物から〝ガリ版〟印刷機や旗、ヘルメットなどまで約500点。
冒頭パネルのプロローグ、『なぜ「1968年」か』では、「日本における「1968」年社会運動高揚期の重要な特徴である「個」の主体性を重視する社会運動に焦点を当てる」「これらの運動は、同時代の平和・民主主義体制の実態・日常に鋭いメスを入れ、平和意識や人権意識の内実、現実の息苦しさの根源を深く掘り下げた。そして、これらの運動が切り開いた運動理念や柔構造の組織論、運動スタイルは、後の時代まで大きな影響を与えるとともに、この時代に噴出した様々な「問い」は、今なお「現役」としての意味を持ち続けていると思われる」という視点を提示している。
展示はこの視点から構成され、社会の様々な「問い」が市民や住民の運動に広がっていくプロセスに力点が置かれている。一般の社会運動としてはベ平連運動や三里塚闘争、熊本水俣病闘争などが取り上げられている。
学生運動については「大学という「場」からの問い―全共闘運動の展開」として独立して展示していた。
そこでは「全共闘運動は、敗戦直後に広く誕生した学生自治会を基盤とした学生運動や、左翼政治諸党派の影響が強い学生運動形態からの転換であった。党派の有する組織的規律・上下の指示関係から自由なこの運動は、学生一人ひとり=自由な決意を前提にした個人の集まりであり、党派の学生が関わった場合も、党派色を表面化させないことを原則とした」と個人原理、個人の主体性を重視した運動に特徴を位置付けている。
展示の中心は日大闘争、東大闘争に関するもの。特に日大闘争は、大学当局の不正への怒りが爆発した明確な図式と豊富な資料で全共闘運動の代表例に扱っていた。また全国的な広がりを示すものとして京都大学や北海道大学、広島大学などに関する資料も一部あった。
入って右側すぐに「社会のなかの大学生」と題して、「1965年1月に始まる慶應義塾大学の学費値上げ反対運動を画期として戦後の学生運動は新しい様相を呈し始め、一般の学生も広く参加する「学園紛争」という性格を帯び始めた。社会との緊張関係のなかで「大学とは何か?」が問われ始めた」と当時の状況や学生文化の説明がある。その文章の下には歴博所蔵の高野悦子『二十歳の原点』単行本(新潮社、1971年)表紙の写真を象徴的に配置していた(写真上左)。
さらに『二十歳の原点』単行本の実物も展示され、「高野悦子は立命館大学の学生。大学2年生時から自殺するまでの日記は、『二十歳の原点』として刊行された。高野は『青春の墓標』を愛読していた」と紹介している(写真上右)。『二十歳の原点』の奥には奥浩平『青春の墓標』(文芸春秋、1965年)も並べて置かれていた。
☞青春の墓標
『二十歳の原点』単行本は当初は紫色の帯であり、表紙写真や実物で展示されていたのは1973年に増刷されたバージョンで赤色の帯である。
1960年代後半の社会運動や学生運動全体を描き切ろうというものではない。さらに政府や各政党、新左翼党派などについてはほぼ触れられていない。
ただ組織的な〝上から〟の主義・主張ではなく、個人という〝下から〟の意識や思考こそが、様々な運動に参加した人たちや、あるいは共感しつつも参加にはちゅうちょした人たちの多数にあったのは間違いない。この点で高野悦子「二十歳の原点」が扱われているのも違和感を感じさせない。
たくさんの人が訪れて、展示を熱心に見学していた。
当時を知らない者にとって一番思うことは、「1968年」日本の〝熱気〟ではないか。良くも悪しくも〝熱気〟はどこに行ったのだろう。
夕暮れの人影少ない道を京成佐倉駅へ向かって歩いた。