高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和41年)
1966年 1月 2日(日)
 塩原、憩の家にて
塩原町
 高野悦子の日記に登場する当時の栃木県塩原町は、1956年に旧・塩原町と旧・箒根村が合併して誕生した町である。
栃木県北部地図塩原町中心部
 このうち箒川沿いは11の温泉からなる塩原温泉(郷)で知られており、「二十歳の原点ノート」「二十歳の原点序章」に登場するのも全てこの地区である。1200年以上の歴史を持ち、明治・大正時代には夏目漱石、谷崎潤一郎、国木田独歩ら文人が訪れた。
当時の温泉街現在の通り
 塩原町は2005年に隣接する黒磯市、西那須野町と合併し、那須塩原市となった。
 旧・塩原町地区の宿泊者数は1991年の146万人をピークに減少し、東日本大震災直後よりは回復したもののの、約80万人(2013年)となっている。各地の温泉地の大半と同じく厳しい環境にあり、生き残りを懸けた模索が続いている。

 塩原の玄関口は国鉄・西那須野駅で、1963年当時、国鉄バス(現・JRバス関東)が西那須野駅前から塩原への乗客を運んでいた。
 当時の西那須野町から塩原町までの旧・主要地方道藤原西那須野線は「西那須野駅前を出発したバスは5分もすると町並からはずれて那須野原の中を走るようになる。途中左から東京からの国道4号線を合して、またすぐ右へ仙台方面へ分けるが、塩原への道もしばらくは快適的なドライブ・ウェイである」「明治の県令・三島通庸が那須野の中を2ヵ所しか曲線を持たせずに一直線に道路を建設したのは立派であるが、関谷宿で矢板からの道路を合流すると、そこから先は「ほこり高き道路」になってしまい、那須温泉への快適な道路にくらべてみると、やはり差ができてしまう。こういう道路の状態も塩原がお客を少なくしている原因ではないだろうか」(富田房太郎「塩原の旅」『日光─鬼怒川・川治・那須・塩原』(実業之日本社、1962年))と記録されている。

 主要地方道藤原西那須野線は1964年の西那須野バイパス開通を受けて国道4号との重複がなくなり、また1965年に塩原温泉までの舗装が完成して一新、「塩原バレーライン」と名付けられた。
藤原西那須野線塩原バレーライン
 1982年に国道400号となり、現在まで整備が続いている。

地方職員共済組合塩原保養所 憩の家

憩の家付近地図 憩の家は、栃木県塩原町下塩原(現・那須塩原市塩原)にあった地方職員共済組合の保養所(現・旅の宿)である。父・高野三郎が当時、栃木県庁勤務のため利用していた。
 当時のパンフレットは「塩原は、高原火山帯の山裾を流れる箒川に沿って古くから開けた温泉郷です。
 その渓谷美は、俗に水の塩原山の塩原、湯の塩原と言われているように、渓流のせせらぎ、奇岩・奇瀑・奇勝の数々、新緑、紅葉ツツジと四季を通じて自然美の極致を誇り、各所に湧出している豊富な温泉とともに皆様方に親しまれてきました。
 憩の家は、渓谷約16粁にわたって散在する塩原温泉郷のほぼ中央に位置し、箒川の清流に臨み雄大にして華麗なるこの自然のパノラマを皆様方に満喫していただけます。
 組合員を始めご家族のかたがたの憩の場として、ご宿泊、ご休憩、ご会議、ご会食等にお気軽にご利用くださることを、心よりお待ち申しております」と紹介している。

 利用する場合、利用日の3日前までに予納金を添えて、栃木県人事課内の地方職員共済組合栃木県支部、または憩の家へ直接申し込むことになっていた。
憩の家外観憩の家客室

 二部屋かりて、お父さん、お母さん、昌之のいるのが「ごよう」、私、ヒロ子ちゃん、おじさん(富山の)は隣の「さくら」。

 施設は地上3階地下1階の本館と2階建ての別館からなり、客室が10畳6室、8畳10室、6畳9室、8畳・4畳(特別室)1室の計26室あった。 間取り図によると、本館2階の「ごよう」と「さくら」はともに客室8畳で隣接している。
憩の家間取り図

 ここはセルフサービスで、食事は食堂、部屋にはお茶わんと魔法びんがおいてある。

 憩の家には会議室が食堂兼会議室(洋室)86㎡、客室兼会議室(和室)30畳の計2室、ロビー、男女浴場、食堂などがあった。娯楽用にジュークボックス、麻雀卓、碁・将棋なども備えられていた。
憩の家食堂憩の家ロビー
 憩の家に行くには、箒川の橋(遊園橋)を渡る。遊園橋の名称は、大正時代にリゾート開発にあたる事業を行った鹽原遊園地が自前で架けた橋の名残である。現在の橋になったのは1957年。さらに急な坂道を登る。
遊園橋急な坂道
 建物は現存せず、空地になっている。
憩の家跡
☞二十歳の原点序章1967年1月1日「例年通り、塩原で新年を迎えた」

 一日は一日中、スケート。
塩原スケートセンター

 塩原スケートセンターは、栃木県塩原町下塩原(現・那須塩原市塩原)にあった冬季の屋外スケート場である。
スケート場付近地図当時の塩原スケートセンター
 塩原開発が1962年12月にオープン、国際規格の400m滑走リンク、アイスホッケーリンクを有していた。また管理棟は暖房完備で大食堂や休憩室などがあった。
 オープン時の料金は、一般・高校生で一日150円、半日100円。
リンク空撮オープンの広告
 オープン当初は関東各地や福島県から集客、ピーク時にはシーズンで約8万人の利用客があった。それ以降は減少傾向が続き、1990年代に入って3万人を割り込み、採算が難しい状況に陥った。
 2000年シーズンには約1万2,000人となり、リゾート施設の一部として運営していた塩原グリーンビレッジは、スケート場について2002年2月をもって閉鎖した。塩原町の小学校が体育の授業などでも利用し、栃木「県北地方のスケート愛好者に親しまれた塩原温泉の“冬の顔”は、39年で幕を下ろす」(「アイスる“冬の顔”に幕─塩原グリーンビレッジ・スケート場」『下野新聞2001年12月13日』(下野新聞社、2001年))ことになった。
 現在は塩原グリーンビレッジ内のオートキャンプサイトなどになっている。
塩原スケートセンター跡リンク跡

1966年 1月 3日(月)
 現代国語の教科書にのっていた「幸福について」(田中美知太郎)を読んだ。

 田中美知太郎「幸福について」(『現代国語2』(明治書院、1964年))は『哲学的人生論』(河出書房(現・河出書房新社)、1951年)によっている。
 幸福とは何かについて、生活の向上との関係から論じている。ソクラテスの考えから「私たちの生活が、単なる生存以上に出る時、すでに私たちの幸福は始まっているともみられる」とした。
 「学習の手びき
 1、ソクラテスの説く幸福とはどんなものか、考えてみよう。
 2、「幸福とともに不幸も始まる」ということはどういうことか、話しあってみよう。
 3、「私たちがもっている唯一の神性」とはどんなものか、まとめてみよう。
 4、「知足」と幸福との関係について話しあってみよう。
 5、「生存」と「生活」とはどのようなちがいがあると述べているか、考えてみよう。
 6、ヘラクレスはどうして困難な生活を選んだのであろうか。またそれは、わたしたちに「幸福」ということに関してどんなことを教えるものか、考えてみよう。
 7、作者の「幸福」を説くにあたっての論のすすめ方について考えてみよう」(「幸福について」『現代国語2』(明治書院、1964年))
現代国語2(明治書院)

1966年 1月 4日(火)
 今日、益田氏宅へ、岡村さん、瑠美子さん、私の三人でいったのだが、

 益田氏は、高野悦子の高校2年の担任教諭。担当教科は国語。後に著名な国語辞典の編集にも協力した。
 益田氏は個性的なキャラクターとされていて、高野悦子と高校2年で同じクラスだった同級生によれば「優しいけど取っつきにくい先生で、明るい感じではなく一歩引いたような感じだった。先生の所に行くなんて考えられない」と話している。同じクラスで別の同級生は「ちょっと変わってて、物事を正面からじゃなく脇から見る感じの先生なので、高野さんが友達と一緒に行ったと書いてるんで“アレっ”て驚くほど意外だった。でも高野さんが本で書いてる好きな男性のタイプ、ちょっと憂いを含んだみたいな…かもしれないなとも思った」という見方をしている。
栃木県立宇都宮女子高等学校

 市内で三人でチャンポン(六〇円)とロイヤルプリン(一〇〇円)をたべて、解散。

 益田氏宅の最寄り駅は東武・江曽島駅だった。帰りの電車は、江曽島駅─東武宇都宮線─東武宇都宮駅。東武宇都宮駅に比較的近い市内中心部で食事をしたとみられる。中心部を代表するオリオン通り商店街にアーケードが完成したのは1967年である。
益田氏宅から江曽島駅1969年の東武宇都宮駅外観
 高野悦子の高校同級生によると、特に宇都宮市江野町(現・池上町)のオギノ食堂(現・オギノラーメン)がチャンポンで知られていたという。この店に代表されるように宇都宮市内で「チャンポン」とは、一般的に〝五目あんかけラーメン〟と言われるメニューを意味する。
オギノラーメンのチャンポン宇都宮オギノ食堂地図

 宮駅でヘルマン・ヘッセ『荒野の狼』(角川文庫 一二〇円)を買う。角川より岩波の方がいいんだけど、なかったから仕方ない。

 宮駅は、国鉄・宇都宮駅のことである。宮は、宇都宮の地元での略称。
 ヘルマン・ヘッセ『荒野の狼』角川文庫(角川書店、1954年)は、ヘッセが1927年に発表した長編小説。岩波書店から『荒野の狼』が発行された記録はない。
宇都宮駅

1966年 1月 7日(金)
 奥浩平『青春の墓標』─ある学生活動家の愛と死─、阿部次郎『三太郎の日記』、木村正雄『詳解世界史』の三冊を落合書店で買った。あそこの雰囲気は、集英堂や西沢のそれより落ちついていていい。場所がらだろうか。本もさがしやすい。

青春の墓標

詳解世界史青春の墓標 奥浩平『青春の墓標─ある学生活動家の愛と死』(文藝春秋新社(現・文藝春秋)、1965年)は、学生運動の活動家で自殺した横浜市立大学生の手紙や日記などを集めた遺稿集。帯には「全学連という組織の中で引き裂かれてゆく愛を、克明な日記と恋人にあてた手紙で綴る清冽な青春像」。
 高野悦子が大きな影響を受けた本の一つである。
☞二十歳の原点序章1967年6月6日「高校二年の三学期に『青春の墓標』を読み、奥浩平にあこがれをいだいた」
☞二十歳の原点巻末高野悦子略歴「奥浩平「青春の墓標」を読み、彼の理論でなく〝社会に対する働きかけ〟に感動、以来心の友とする」

 阿部次郎『三太郎の日記─合本』角川文庫(角川書店、1950年)は、大正時代にベストセラーとなった教養書を集成し文庫本化。阿部次郎の次男である阿部啓吾は西洋哲学史専攻で立命館大学法学部教授だった1969年5月12日に47歳で病死している。
 木村正雄『詳解世界史』(昇龍堂出版、1964年)は、東京教育大学教授・木村正雄(1910-1975)執筆の高校・世界史の参考書。

落合書店

 落合書店は、栃木県宇都宮市西一丁目にあった書店である。ユニオン通りに面している。
宇都宮地図1966年落合書店と宇都宮スカラ座
 建物は建て替えられ、現在は宇都宮市を代表する書店として多店舗展開する落合書店の本部(オフィス)になっている。
落合書店地図落合書店本部
落合書店 落合均社長の話

 落合書店・現社長の落合均氏に話をうかがった。
 「1957年に先代の落合雄三がこの地で開業し、当時の店舗は木造で1階が売場で、落ち着いて本を選べる店づくりに力を入れていた。ユニオン通りを通る宇都宮女子高校の生徒も多く利用していた」
 「文芸活動もしていた落合雄三は、(売場の)「棚に〝人生〟を出せ」が信念で、自分が歩んでいる人生を棚に現わそうとしながら本を並べるよう心がけていた。自分はまだその境地まで届いてないが…」。

 落合社長は、高野悦子が「本をさがしやすい」と記述した背景について、このように説明された。

 落合書店は地元中心に文芸書を出している。落合社長によると、先代の落合雄三(1928-2005)が社長当時、高野悦子の日記について『那須文学』の関係者から出版の相談があった。日記の内容を見て、「これは東京の大手出版社で出した方がいい」とアドバイスしたという。
 落合雄三は、『那須文学』を創刊した大平義敬が「昭和44年立命館大学生の高野悦子が鉄道自殺をし、その死に到るまでのノートを同誌45年9月号に掲載した。このノートは大平の友人落合の手によって新潮社に斡旋され『二十歳の原点』として売り出された」(落合雄三「近代文学と那須・塩原地方」落合雄三ほか編著『栃木県近代文学アルバム』(栃木県文化協会、2000年))と残している。

集英堂書店

 集英堂書店は、栃木県宇都宮市鉄砲町(現・馬場通り二丁目)にあった書店。
集英堂書店地図集英堂書店跡
 閉店し、現在は駐車場となっている。
 集英堂書店と西沢書店は、戦前からあった宇都宮市の書店の老舗。

1966年 1月12日(水)
 本名をちょっと紹介すると、『青春の墓標』、『日本女性史』、『よくわかる数ⅡB』、『重要構文の徹底的研究』(英語)etc。

よくわかる数学ⅡB  井上清『日本女性史 上』三一新書(三一書房、1955年)。『青春の墓標』で「「日本女性史」はぼくが君に下巻を返してもらおうかなと思っていたところ」(奥浩平「中原素子への手紙1962年5月5日」『青春の墓標─ある学生活動家の愛と死』(文藝春秋新社(現・文藝春秋、1965年)))と登場する。
 田島一郎・中沢貞治『よくわかる数ⅡB』(旺文社、1964年)は 1963年度高校入学者から施行の学習指導要領で始まった科目、数学ⅡB用の参考書。2色刷り、当時350円。
 数学ⅡBは高校2年履修で、順列・組合せ、数列・級数、三角関数・ベクトル、図形・座標、微分、積分が内容。進学校では数学ⅡAではなく数学ⅡBを学ぶのが通例だった。
 『重要構文の徹底的研究』は、西尾孝『英語重要構文の徹底研究』(吾妻書房、1958年)。西尾孝は戦後の大学受験英語指導を代表する人物の一人。
☞1966年1月29日「現在読んでいるのは、『日本女性史』井上清著と」

1966年 2月25日(金)
 矢野さんの家を引き払って、中島さんに移った。荷物だけおいてきたのだが。

 中島さん宅は、宇都宮市内の大場宅のことである。矢野さん宅(大島宅)から近い。建物は建て替えられ、現存しない。
高3で下宿仲間の同級生「階段で話した将来」

1966年 5月 1日(日)
 スカラ座で映画をみた。「嵐が丘」と「黄金の七人」だったが、「嵐が丘」を見にいったのだ。九時半についたら、十メートルぐらい並んでいた。

スカラ座

 スカラ座は、栃木県宇都宮市相生町(現・馬場通り三丁目)にあった大型映画館である。「宇都宮スカラ座」と呼ぶこともあった。
 前身の映画館「電気館」として1905年に開館し、第二次世界大戦の空襲で焼失したものの、戦後まもなく再建された。大映封切り館を経て、「スカラ座」に改称し、洋画や大映作品を上映した。後には東映作品を上映するようになる。経営は当時のマスキンと同じグループの斎藤商事。斎藤商事は1970年までスカラ座を含め宇都宮市内で映画館6館を経営していた。
 1995年1月、地区の再開発事業に伴い閉館した。建物は現存せず、1997年に開店した宇都宮パルコの南西部分等になっていたが、宇都宮パルコは2019年5月に閉店した。
宇都宮スカラ座地図宇都宮スカラ座跡
 『嵐が丘』(米、1939年)は、愛憎を描いた同名長編小説の映画化。この時は東和(現・東宝東和)配給。「死を越えて燃える愛の激しさ 世界文学史上不滅の名作映画化」。
嵐が丘
マスキン

1966年 9月16日(金)
 矢沢さんはお茶の水女子大にいくらしいが、あの人のように自分の範囲でうまく事柄、人間関係を処理して、自分の生活を守っていくというやり方もいいなあと思う。

 矢沢さんは高野悦子と同じクラスで、大場宅に下宿していた。同級生によると「矢沢さんは『二十歳の原点ノート』の記述のような感じの人でした」ということで、高野悦子と矢沢さんの関係も〝ビミョー〟だったと言う。

1966年11月 6日(日)
 これから入試までいかに過ごすべきか、「高三コース」の四月号を参考にプランをたててみた。

高3コース1966年4月号表紙 『高3コース』は学習研究社(現・学研ホールディングス)が発行していた、大学進学希望の高校3年生向け月刊雑誌。主に入試情報や受験勉強について掲載していた。1966年4月号は「大学入試対策スタート号」で、巻頭大特集が『現役合格のための年間総合プラン―史上最大'67入試への完全設計』。
 「実際の入試では、志望大学によって、入試科目がかなり違うから、これが年間計画を立てる際に大きな制約を与える。したがって特別な事情がないかぎり、まず志望大学をはっきりさせてから、受験勉強の具体的なプランを立てるのが順序である。大学を決める際には、当然学部・学科まで明らかにしておくべきである」
 「自分の現在の学力については、高校1、2年で行なわれた中間テスト、期末テスト、それに校内、校外の模擬テストの結果などをよく反省してみて、「総得点」「順位」「得意科目と弱い科目」などから、重点のおき方、学習法、時間の配分などを決めていくようにしたい」(「現役合格のための年間総合プラン―史上最大'67入試への完全設計」『高三コース1966年4月号』(学習研究社、1966年))
 雑誌『高3コース』は1982年に『大学受験Vコース』と改題されたあと、1997年に『ベス・キャン』に統合される形で刊行が終了した。

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