高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和38年)
1963年 6月27日(木)
 モーター小屋の水の音が大きく聞える
 小川の水はそんな音はよそに清らかにゆっくりと流れている

 モーター小屋とは、電気ポンプで地下水をくみ上げる井戸がある小屋。くみ上げた水は主に水田に使われた。
モーター小屋 西那須野町(現・那須塩原市)のある栃木県北部の那須野が原は、扇状地のため川の水がほとんど伏流水として地下に潜って流れており、明治時代に入るまで慢性的な水不足で開発は遅れていた。このため1885年に那須疎水事業がはじまり、那珂川の上流に堰を建設し、そこから用水路を引いて飲料・農業用水を供給することになり、これによって那須野が原では安定した水供給が一応確保されることになる。
 しかし疏水を利用できたのは権利を有する家だけであり、開田には限界があった。水田化できたのは限られた地域で、疏水の水を効率よく使用し開田したため、水田は疏水の水路沿いに多かった。
 これに対して戦後、深い地下水もくみ上げられる電気ポンプが普及することによって、水利が十分に及ばない地域でも水田が広がることになった。1968年の調査では、西那須野町ではポンプ1,398台が設置され、那須疏水利用地区における水田面積においても64%が電気揚水だけを水源にしており、疏水・揚水併用が23%、これに対して疏水のみを水源にしているのは13%にすぎなかった。
 「疏水利用、併用の開田は電気揚水による開田には及ばなかった」(『地下水利用と開田』「西那須野町の産業経済史」(西那須野町、1997年))のである。

 それから講堂にきたとき、

西那須野中学校講堂

 帰り道、モーター小屋の所で少し止まって休んだ。小川の水がすんでいたし、水草のきみどりの色があざやかだった。
中学校通学路

 高野悦子の自宅から西那須野中学校への通学路は以下の通りである。ただし当時、中学校の正門は校舎北側ではなかった。
中学校通学路空撮小川跡
 また途中の裏道などを通って近道することもあったとされる。
下校途中自宅間近
西那須野町立西那須野中学校

幹部訓練

幹部訓練の写真 日記の記述にはないが、高野悦子は1963年8月6日(火)~8日(木)の3日間、雲照寺で行われた「幹部訓練」に参加している。
 幹部訓練は、地元の小中学校で優秀な生徒・児童だけを集め、将来のリーダー役の育成や交流をめざすことを意図して特別な研修指導を合宿形式で行うというものである。当時の栃木県では同様の行事が各地で行われていたとされる。
 「昨年に順じて、8月6、7、8の3日間、雲照寺に於て、小中合同の幹部訓練が行なわれた。各校の代表者だけに、行動もぴちぴちして、関係者を驚かせた。ハンゴー炊飯も2、3回から先生方の手もわずらわすことなくよくやれたし、リズム、ゲーム、話し合いもうまくいった。特に最後をかざるハイキングでは、途中にまちうけた指導の先生方の扮装の鬼や地ぞう様に苦しめられてふーふーしていた。いずれおとらぬ珍談が続出した…」(『幹部訓練の一コマ』「西中生徒新聞昭和38年10月5日」(西那須野中学校生徒会、1963年))
 「西中生徒新聞」紙上に高野悦子の『感想文』が掲載されている。

○ 感想文
生徒新聞に掲載された感想文 今、雲照寺の境内のしばふに座って、この3日間を思うと、途中では、「ああはやく帰りたい。」とか、「来てよかった。」とかいろいろに思ったが、今の現在は、来てよかったと思っている。
 いろいろな講話、水泳訓練、つなの結び方、3拍子とか4拍子などのリズム運動、一風変わっていたキャンプファイヤー、その他たくさんあった行事、今思えばすべて楽しい思い出である。そしていくつかの意味をふくんでいてくれる貴重なものである。
 またこの静かな、そして美しい新せんな緑の中で、時々鳴くカナカナゼミの音、また私の知らない鳥の声、こんな所で3日間くらしてこられて、私のプラスだと思う。
 それに初対面の人との生活。7班の朝顔で中学生は私一人だったので困ってしまったがそれだけプラスになった。自分一人の生活でなく全員の生活ということを。そしてそれにはいろいろなものがのりの役目をしている。そして、それを講話で、または体験で知らされたこの3日間、私にとってはプラスになった幹部訓練だった。(7班)

雲照寺

 雲照寺は、栃木県西那須野町三区(現・那須塩原市三区町)にある真言宗東寺派の寺院である。以前は本堂などを合宿や研修の場として提供していた。
雲照寺地図雲照寺の写真
 境内が芝生になっている。
境内の芝生

1963年 8月28日(水)
 きのうで部屋のかたづけ(引こし)が終りました。

高野悦子の実家

1963年10月11日(金)
 たとえば私は内心、私よりできる人が現れたらいやだなと思ったりする。

 高野悦子は小学校入学当初から学業成績が極めて優秀だった。
 中学3年生当時の席次は学年全体で7番前後、女子だけでみると2番だったとされる。
姉のヒロ子も中学校時代に成績優秀だったので、勉強ができる美人姉妹という評判になっていた。中学3年生当時の学年のトップが、野々村さんだった。
 当時の栃木県の公立中学校では試験のたびに科目ごとの点数や成績そして順位を全部廊下に張り出して発表するのが一般的だった。このため同級生で誰ができるのか、何番にいるのかが一目瞭然でわかったとされている。

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