京都府立植物園は、京都市左京区下鴨半木町にある植物園である。当時の入り口は、北大路通の植物園前停留場・停留所から最寄りの正門だけだった。
「賀茂の中心に位置した府立植物園は、終戦後接収されて、たちまちにアメリカ村を現出していた。それは千年の歴史のなかに、思いもかけぬ大きな変化であった。しかし、昭和36年5月、ながい沈黙を破って、それは新装をととのえて再開せられた。清々しい日光のもと、七色のチューリップがさきみだれるなかに、近代的設備をほこる大温室をもった植物園は、この賀茂というよりも京都に新しい魅力をそなえるものであった」(林屋辰三郎「京都のアクセント」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。
京都府立植物園では5月13日(土)から観賞植物展が開かれていた。温室などは1992年に大規模な改修をされている。
クラスコンパは5月14日(日)午後1時から京都府立植物園の中央芝生地(現・大芝生地)南側で行われ、日本史学専攻の同級生40人余りが参加した。
コンパの様子を記録した貴重な写真が残っていた。
謄写版(ガリ版)で作った歌集を配ってコーラスをしたり、くじ引きで10人程度のグループに分かれて京都の印象やふるさと、下宿生活、歴史学で取り組みたいこと、興味があることなどについて話し合った。
またテープの音楽に乗って、マイムマイム、オクラホマミキサー、コロブチカ、ジェンカといったフォークダンスを踊った。参加した同級生男子は「5月の新緑がきれいな時で、天気も良かった。あの懐かしい雰囲気は今でも覚えている」と言う。
高野悦子はクラスコンパ終了後、京都府立植物園内の正門前で長沼さんらとともに写真に写っている。不意に撮影されたため下を向いている。
立命館大学文学部(一部)日本史学専攻1回生(1967年入学)の同級生を掲載した『名簿』が1967年5月14日付で作られ、クラスコンパで配られた。
編集・作成には6人の名簿作成委員があたった。『名簿』という名称だが、アンケートの形をとってプロフィールを自己紹介するものである。謄写版(いわゆるガリ版)印刷の原紙を切ったのは名簿作成委員で、筆跡はプロフィール本人のものではない。
教授の北山茂夫が序文を寄せている。
○ 新入生諸君への期待 北山茂夫
大学の5月、6月は新入生諸君にとっては、解放と虚脱の入り交った奇妙な季節ではなかろうか。
他人事ではない。20才前の私にも、それは忘れえぬ体験である。受験という重圧からともかく解放された。そして、目指した大学に入れなかったというところからくる一種の虚脱がある。
日本史専攻は百名を超えて、教室は膨れ上がっている。プロゼミの自己紹介でも確かめられたように、なかなかのつわものがそろっている。能力は高い。専攻への構えにもおいて、すでにかなり進んでいる人も少なくない。また、その話し方もさまざまである。新入生から言えば、第三者である私には、能力もさることながら、個性の多様性にひどく心が引かれる。
私は教師だから、入学早々に勉強せよという。それどころでないと言う諸君がかなりいるだろう。解放と虚脱の季節の中にいるからだ。勉強せよという助言は、休み休み言うことにしよう。
それなら、今は諸君に何を望むか。気のあった、胸を打ち割って何でも話せるグループを作ることである。登校さえしておれば、いくらでもそのチャンスがあるだろう。能力の高いさまざまの個性にあふれている新入生のクラスは、いろんな性格の小グループを作りうると考える。
政治的信条にとらわれてはならない。レッテルを張るには、諸君の個性は余りにナイーヴであろう。可能性に満ちた青春の生活の中で、政治は考えねばならない。政治のほかにも切実な問題はいろいろあるし、また新しく起ってくるだろう。全く個人的な問題もあるはずである。
それらに対して、一人で立ち向かう勇気を持つべきであるが、身近にともに語る幾人かの友がおれば、どんなに力強いだろう。これからの青春は恋だけではなく、友情に彩られる時期でもあると思う。
※若干の表記の手直しを行った。
『名簿』には出身県別一覧図が付表として掲載されている。それによると出身都道府県で人数が多いのは、大阪18、愛知・京都8、東京・兵庫・広島5、岡山・福岡4の順になっている。
植物園前停留場-(京都市電北大路線・河原町線)-河原町三条停留場
ロマン三条店は京都市中京区河原町通三条下ル一筋目東入ル大黒町にあった喫茶店である。
ロマンは京都市内に数店あった喫茶店チェーン。いち早くカラーテレビを店内に設置するなど先進的な店づくりをしていたという。
建物は現存せず、現在は飲食店になっている。
また付近では京都市中京区河原町通六角下ル山崎町にロマン六角店もあった。
浦辺さんは立命館大学文学部史学科日本史学専攻の同級生の男子。
新装版初版では、「浦辺さん」が「渡辺さん」になっている(『二十歳の原点序章[新装版]』(カンゼン、2009年)が、誤字である。
葵祭(あおいまつり)は京都三大祭りの一つとして毎年5月15日に行なわれる、王朝風俗を伝える貴族の祭である。あおいを衣冠に飾った数百人の大宮人(おおみやびと)がみやびやかな王朝絵巻を繰り広げる祭列が見どころになっている。
5月15日(月)、祭列は午前10時、京都御所を出発。烏丸通を南下、御池通を東進。ここから寺町通北上、広小路通から立命館大学広小路キャンパスの正門前を通って河原町通に出て、正午、下鴨神社に着いた後、北大路通を通って、上賀茂神社に到着した
「しかしこれは祭とよんでいても、特徴的な部分は宮廷から賀茂社に発遣される勅使の行列である。それはむかしから車をつらね桟敷をつくって鑑賞されたものであったが、あんがい京都の人々には感激がうすいのである」(林屋辰三郎「京都の古代人」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。
祭列が立命館大学広小路キャンパス前を通ったのは午前11時10分ごろである。
現在の祭列は午前10時30分出発となり、寺町通と広小路通を経由せず、丸太町通を東進して河原町通を北上する。
定期女子学生大会は、立命館大学の学友会を構成する女子学生の全学的な組織、一部女子学生会の定期大会。女子学生会は民青系の影響が強かった。
元祇園梛神社(もとぎおん・なぎじんじゃ)は、京都市中京区四条通坊城角にある神社である。
「京都にむかえられた牛頭天王が、現在の祇園社に祭祀されるまでに鎮座した場所」(林屋辰三郎「御霊会」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))と伝えられる。
氏神祭である神幸祭は当時、毎年5月17日に行われていた。現在は5月第3日曜日になっている。祭の露店は、四条通南側を西に向って並ぶ。
京都市壬生隣保館は、京都市中京区西土居通姉小路下ル西ノ京新建町にあった地域活動の施設。改築され、現在は京都市中京いきいき市民活動センターになっている。
☞京阪京津線
京都:晴・最低14.6℃最高30.9℃。
民青系府学連などで構成する実行委員会主催の第3回未来をつくる京都青年学生集会が5月18日(木)、19日(金)の2日間開かれた。このうち全体集会は19日午後5時15分から京都市東山区の京都市円山公園音楽堂で開かれ、学生や労働組合員など約2,000人が参加した。
集会では蜷川京都府知事と富井京都市長の祝電披露、河田賢治共産党京都府委員長のあいさつのあと、ベトナム人民支援と沖縄返還を柱とする決議を採択した。最後に全員で合唱して午後7時に閉会、その後京都市役所前までデモ行進をした。
立命館大学広小路キャンパスから地域活動へ使っていたルートは、府立病院前停留場-(京都市電河原町線)-河原町丸太町-(丸太町線・西大路線)-西大路三条停留場。
京都市電は1978年までに全路線が廃止された。
ここでいう全学連は民青系(共産党系)全学連のことで、府学連は京都府学連(反民青系)のことである。
☞1967年5月2日「ここで立命館大学全学連はすべて集まり」
☞三つの全学連
京都:晴・最低14.6℃最高31.3℃。
プロゼミは、当時の立命館大学文学部の1年生専攻科目「研究入門」の通称。学部学生向けのゼミを意味するProseminar(ドイツ語)・proseminar(英語)が由来。
当時の大学では、1年生はまず専門科目の前に一般教育科目・外国語科目・保健体育科目を履修するのが基本的なしくみになっていた。しかし一般教育科目は大教室での講義(いわゆるマスプロ教育)が多いうえ、入学して早く専門科目に接してみたいという関心とも合っていない面があった。
このため、新入生のニーズに応じ比較的少人数の教育ができるよう、1年生履修の専攻科目として、立命館大学文学部の場合は各専攻とも「研究入門」4単位を1年生に割り当てていた。
1967年入学の1年生は100人以上いたためプロゼミは五十音順で2クラスに分けて行われ、いずれも教授・北山茂夫が担当した。『二十歳の原点序章』の記述にある「クラス」は、基本的にプロゼミのクラスのことを意味している。
「一般教育、体育、および外国語、若干の専門科目などの学部に共通の諸教科と、4学科9専攻それぞれに特色のある専門科目とを設け、学生諸君の総合的学修を推進すると共に、中学や高校の教員資格取得のために必要な科目なども開講している次第ですが、特にそれぞれの専攻に「研究入門」を1回生の履修指定科目とし、その科目を担当する教師を中心として 、教師と学生ならびに学生相互の意思疎通をはかり、自発的研究態度を助長し、専門学科研究への導入を図ることにしています」(「はしがき」『立命館大学文学部(一部)昭和42年度学修要項』(立命館大学文学部、1967年))。