京都:晴・最低4.7℃最高19.3℃。
「ひやみかちうきり」は沖縄民謡、ひやみかち節の一節。“気合いを入れて立ち上がれ”という意味である。沖縄は1967年当時、日本返還前でアメリカの統治下にあった。
4・28沖縄デー記念・第5回海上大会代表団激励〝ひやみかちうきりの集い〟は、沖縄・小笠原返還同盟京都府本部主催で、4月24日(月)午後6時20分から京都府立勤労会館で開かれ、約1,000人が参加した。
返還同盟京都府本部副理事長である鈴木清立命館大学助教授のあいさつなどに続き、〝沖縄芸能の夕〟として沖縄舞踊保存会・普久原京子研究所の「沖縄のおどり」や、大阪野里道場の「空手演技」、返還同盟京都学生協議会の合唱「沖縄の民謡」を上演した。
続いて海上大会代表団(23名)の紹介が行なわれたあと、京都うたごえ協議会による〝組曲「沖縄を返せ」〟を参加者も加わって合唱して終了した(「海上大会代表を激励─4・28沖縄デー」『京都民報1967年5月3日』(京都民報社、1967年)参考)。
京都府立勤労会館は、京都市中京区烏丸通竹屋町上ル大倉町にあった京都府の会館。鉄筋コンクリート地下1階・地上7階で、1966年にオープンした。
建物は建て替えられ、現在は京都府立総合社会福祉会館(ハートピア京都)になっている。
勤労会館の中心施設である2階の大ホールは1,500人収容だった。音楽、映画、演劇、公開放送などのイベントに利用できるよう、特に音響効果を重視し、国内で初めて天井・壁面にアルミパネルをうろこ状に配置していた。
寿屋・勤労会館ランチルームは、京都府立勤労会館の中2階にあった喫茶・食堂(写真下)。『二十歳の原点序章』の記述にある1階はピロティとガレージで、階数は勘違いである。
寿屋は元々洋菓子問屋だったが、烏丸通をはさんで向かいにあたる京都市中京区烏丸通丸太町下ル西側大倉町に喫茶・グリル店を開業していた関係で、勤労会館にも出店した。
店内のほか、会館内行事へのケータリングもしていた。当時のメニューはサンドイッチのほかに、Aランチ・Bランチ、カレーライスからコーヒー、パフェなどをそろえていた。値段は施設利用の代わりに京都府に届け出る必要があったため、抑えられていたという。
店の人の話では、サンドイッチは、パンにマヨネーズをぬって、ゆでタマゴやハム、キュウリをはさんだ一般的なスタイルだったという。
寿屋は勤労会館の建て替えに伴って移転し、京都市中京区夷川通室町西入ル泉町で洋食店を営業。ランチルーム当時の夫婦が切り盛りされていたが、最近になって閉店した。
店内から見えるのは、京都府立勤労会館の階段や1階ピロティである(写真上(寿屋勤労会館ランチルーム)参考)。
京都:晴・最低6.9℃最高24.8℃。
「沖縄を返せ」(1956年)は、全司法福岡高裁支部作詞・荒木栄作曲による沖縄返還運動の歌。マーチ調で、歌詞の最後で「沖縄を返せ」というフレーズがくり返される。
ひゃみかちうきりの集いでは、京都うたごえ協議会による〝組曲「沖縄を返せ」〟を参加者も加わって合唱した。
京都府立勤労会館(烏丸丸太町)─烏丸通─御池通─河原町通─三条通─京阪・三条駅。
京都市中心部の烏丸通と御池通は事業所が多かったため、コンビニもない当時は深夜営業の店は少なかった。河原町通に入ってからは夜遅くまで店が開いていることになる。
☞京阪京津線
4月25日(火)午後3時から1年生が集まったと参加者が記録している。メンバーの顔ぶれは4月22日(土)と重なっている。
☞1967年4月22日「十七人の人が集まった」
京都:曇時々雨・最高18.9℃最低15.5℃。昼前から雨模様となった。
北緯27度線は、沖縄返還前に日本と米軍統治下の沖縄との間にあった国境線。海上大会は、その国境線をはさんで日本(本土)側と沖縄側の双方が漁船で集まり、沖縄返還・本土復帰を訴える大会である。
小笠原諸島も当時、米軍統治下にあった。1968年の小笠原返還協定により日本に返還された。
「重ねて決心するが、恋心的な、ぐち的な、自慰的な文章を書かぬようにしよう」(奥浩平「中原素子への手紙 一九六三年四月四日」『青春の墓標』(文藝春秋新社、1965年))。