この段落(ブロック)の文章は日記帳ではなくメモ書きされたものである。
学部五者会談は、各学部で1月21日(火)夜から翌22日(水)未明まで行われた。
文学部長の林屋辰三郎らは連名で「1月19日中川会館内の学寮委員(佐々木補導主事)と連絡がついて以後、文学部教授会は、事態を大学独自の方針をもって、話合いにより封鎖を内部よりとかせる平和的解決を主張することに意志を統一した。この主張は1月20日の全学集会における乾教学部長以下10名の学寮委員による「われわれの決意」の趣旨とも相通ずるものであり、同21日にいたり、一旦は全学(学内理事会・各学部教授会)の基本方針となったものである。しかるに、21日午後6時10分よりはじまった拡大補導会議で寮連合との話合いの具体化についての討議に入ったところ、学友会執行部が各学部拡大五者会談の開催を要求し、ついに拡大補導会議を中断、同8時ごろより各学部において拡大五者会談が開かれるにいたった。この拡大五者会談でわれわれは文学部教授会の方針を堅持し、翌22日の午前3時15分に至った。その間、教職員組合及び学友会は異例な拡大学園振興懇談会の緊急開催を要求し、同4時ごろ研心館3階において拡大学園振興懇談会が開催された。
この拡大学園振興懇談会において明らかになったことは、各学部とも拡大五者会談などにおいて、既定の方針を全面的あるいは部分的に撤回または譲歩し、話合による平和的解決の方向は全学的にみてきわめて困難なものとなったことである。このような情況にもかかわらず、文学部長は2時間に亘り最後まで文学部教授会の所信を表明しつづけたのであるが、拡大学園振興懇談会の最終局面において、大学側を代表して武藤経済学部長理事は、学友会に結集する学生の力に依拠し、五者共闘で確認された方針ですすむ旨の発表を行い、文学部の一貫した主張を切り捨てる態度を表明したのである。
ここにおいて、文学部教授会の意向が全学に反映される道をふさがれ、文学部長および学部主事・補導主事の執行部三役としては、文学部教授会に対して役職上の責任を感ずるに至った。それとともに、事態の解決のための基本的な立場─話合いによる平和的な解決─の重要性を強調しようと考え、立命館に職を奉ずるものの最終的な抗議の意味をこめて本職の辞表を提出した次第である」(「私たちの辞職の経緯─文学部旧三役」『立命館学園新聞昭和44年2月10日』(立命館大学新聞社、1969年))と当時の事情を説明している。
文学部闘争委員会(全共闘)は1月25日(土)に学部側と団交、文闘委と文学部三役の合意で27日(月)に再び団交することになった。
「22日夜、大学当局から黄色ヘルメット500個が配給され、」「ゲバ棒部隊約200人が封鎖された中川会館に突撃した」((鈴木沙雄「特集・新局面を迎えた大学問題─関西にみる東大紛争の衝撃」『朝日ジャーナル1969年2月9日号』(朝日新聞社、1969年))。
朝日ジャーナルは「「大学当局から黄色ヘルメットが配給」とあるのは、「学友会が購入」に改めます」(「編集部から」『朝日ジャーナル1969年3月2日号』(朝日新聞社、1969年))と訂正しているが、学友会の購入は形式にすぎず、学友会と通じた大学側が費用を出して実質的に提供したとみられている。
文学部教授の梅原猛は「これは大学の責任者が角材や黄色いヘルメットを買って学生たちに与えている事実をみても明白で、ここには大学本来の使命をみることはできない」(「失った対話の場─一部の人が〝制圧〟」『京都新聞昭和44年1月25日』(京都新聞社、1969年))と話し、文学部教授の奈良本辰也は「大学は、すでに攻撃用の諸器具を用意して学友会に与えているのである。それらはすべて、学生の授業料によって購入された。そして五者共闘なるものが配布した作戦の指導要領には、ことこまかく指令が書き込まれているのだ。私の目を驚かせたのは、その中に「人命云々」という文句が二か所も出てくるのである」(奈良本辰也「立命館大学教授に未練はない」『潮昭和44年4月号』(潮出版社、1969年))としている。
☞1969年1月23日「ヘルメットに角棒をもった民青行動隊」
立命館大学では1月「23日、同大学理事会が事態解決のため同日午後、寮連合との〝団交〟に応ずる方針を決めた。
学生自治会としての学友会(代々木系)を通さず、大学側が寮連合と直接話合うのはこれがはじめて。これに対し学友会は「全学生の意思を裏切るものだ」として強く反発している。
この大学側の方針は、22日夜、中川会館の封鎖を解除しようとした学友会の実力行動が、ノンセクトの捨身の抵抗で成功しなかったため決ったものとみられている」(「反代々木系と〝団交〟─立命館大、方針きめる」『朝日新聞(大阪本社)1969年1月23日(夕刊)』(朝日新聞社、1969年))。
寮連合と理事会との団交は1月23日(木)正午から中川会館前で開かれる予定で、約2000人の学生が集まったが、封鎖解除をめぐって両者の予備折衝が決裂し、同日午後6時に開催されないことが決まった。
大学側は午後6時、わだつみ像前で「中川会館封鎖解除要求全立命集会」を開き、約1000人が集まった。この中で末川総長は「封鎖には反対である。諸君の理性と勇気を期待する」と述べた。寮連合は中川会館のマイクで集会に対する抗議の声を上げた。
寮連合と理事会との団交は結局、1月29日に開かれることになる。
☞1969年1月30日「学校は大衆団交で教室はもちろんのこと」
「反日共系学生が占拠する中川会館の封鎖解除をめぐり、日共系学生の実力行使から流血の事態を招いた立命館大学で〝実力路線〟に反発する教授たちの辞表提出が相ついでいるが、24日午前の奈良本辰也教授(日本史)に続き、同日午後には梅原猛教授(哲学)が大学当局に辞表を提出した。
先に辞表を提出した林屋辰三郎文学部長、山本幹雄教授、北山茂夫教授、佐々木高明助教授と合わせ、文学部はこれで5教授、1助教授を失うことになり、同学部は崩壊寸前の危機に陥った」
「文学部は教授から専任講師まで教員スタッフは42人で、このうち7分の1を失うに至った。とくに同学部にとって手痛い打撃になっているのは、辞表を出した教授クラスが立命文学部を背負ってきた〝看板教授〟であること。今後、文学部の教学面に与える影響はきわめて大きい」(「ピンチに立つ立命大─相つぐ教授退陣」『京都新聞昭和44年1月25日』(京都新聞社、1969年))とされ、高野悦子の日本史学専攻はまさにその渦中だった。
「辞表提出について林屋教授は「21日夜から22日朝にかけて開かれた拡大五者会談や拡大学園振興懇談会で、大学側は封鎖解除のための平和的解決を主張したのに、学友会や各学部自治会側から学校の対策がなまぬるいと追求され、平和的解決の見通しが薄くなったため、責任をとるつもりで提出した」といっている」(「封鎖問題から引責辞表提出─林屋教授ら」『朝日新聞(大阪本社)1969年1月24日』(朝日新聞社、1969年))。
☞1969年2月1日「教授のいない大学に」
正式の退職は、奈良本辰也が3月末、北山茂夫と林屋辰三郎は5月末になっている。一方、この時に大学を辞職した梅原猛(1925-2019)は2014年4月、学校法人立命館が社会人を対象にしたリーダー育成講座「立命館西園寺塾」の最高顧問に迎えられた。
「ズバリいってここ数年、立命大を牛耳ってきた日共系勢力に対する反日共系の挑戦」
「立命館は日共系の勢力がつよい。だから、学生自治組織の学友会に対抗するためには、少数派の反日共系各派が足並みそろえて、拠点とする寮問題で、封鎖を背景に自分たちの主張を訴えなければならないが」「反日共系やそれに近いノンセクトの学生たちの不満がたまってこんどの紛争でも一般学生のかなり強い支持がえられた」(「新局面迎えた京の大学紛争」『京都新聞昭和44年1月30日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))。
日本史研究室会議は1月18日(土)に開かれ、研究室の事実上の管理者である文学部助手の高野澄が教授会に対する辞表を提出した。
「今度、立命館で起こった紛争である。私は、昨年10月から内地留学であった。だから、直接にこの紛争に関係はしていない。中川会館封鎖が始まったころは、私は熱海で原稿を書いていた。年来の友である林屋君を一人で苦しませて、こんなことでよいのかなと思っていた。
しかし、そんなある日、私は研究室の助手をしている高野君の突然の来訪をうけた。彼は熱海までやってきたのである。そして、「先生には申しわけありませんが、私はこの事態に対して黙しているわけにはまいりません。昨日辞表を出しました」という報告を聞いた。少し早まったのではないかと思って、京都へ帰ってくると、林屋君も辞表を出していた。
私は、林屋君のような温厚で、そして忍耐強い人間をここまで追いやったものに対して、深い憤りの気持ちを感じるとともに、今こそ、そのあとを追うべきだと思ったのである」(奈良本辰也「定年退職を早めるの辞」『京都新聞昭和44年1月28日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))。
☞1969年2月18日「北山先生が辞表を出した理由として一番の原因だったのではないかと思われるものに十八日の研究室会議がある」
文学部教授の北山茂夫は1月20日(月)、辞表を提出した。「北山教授は、大学当局と、日共系が執行部の主流を占める五者共闘(一、二部学友会、教職員組合、生協、生協労組)の共闘形式が表面化するとともに、このままでは大学当局が封鎖解除に実力行使を肯定する方向にある─とし、辞意に至ったという」(「立命大、教授ら相つぎ辞表」『京都新聞昭和44年1月23日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))。
「20日午前の教授会に出席した北山は、学友会が実力行使に出ないという保証をとりつけていない以上、教職員が流血にまきこまれるおそれがあるとして、大学当局の方針に反対した。その最中、衣笠専任講師から日本史研究室封鎖のメモを手交された北山は、この挙を専攻主任を無視したものと受けとり、直ちに辞意を表明した。別室で末川総長宛にしたためた「退職願」には、「私儀、本日の大学当局が決定した方針に従うことができませんので、退職いたしたく存じます」と記された」(松尾尊兊「立命館の日々」『北山茂夫 伝記と追想』(みすず書房、1991年))。
「1月22日に全共闘系の日大生1000人が京都に来る」という情報が流れたが、実際には確認されていない。
立命館大学の1968年度後期試験は、各学部一部(昼間部)が1月23日から、二部が1月20日から行われる予定だったが、大学内の混乱に加えて「一部の商業新聞による試験延期のニュースや事務室の問いあわせに対する返答のあいまいさで、連絡不十分のまま試験を実施することができなくなった。 いずれも24日までの分は試験をとり止め、以降の分についてはそのときの状況により再検討することになった」(「一・二部後期試験、数日間延期さる」『立命館学園新聞昭和44年1月25日』(立命館大学新聞社、1969年))。
文学部では25日に五者会談が開かれたが、学部長代行が出席しない事態になった。
このあと四条河原町で映画館に入った。
☞『ローズマリーの赤ちゃん』