原田さんの下宿は、京都市右京区(現・西京区)嵐山朝月町の会社経営、原田恵之助方である。
原田方は、京都中心部でないとはいえ、駅からもほど近く、当時の下宿やアパートとしてはめずらしい近代的な鉄筋コンクリート造の建物、そして、いわゆる賄い付きだった。
当時下宿していたのは高野悦子や牧野さんほかの立命館大学4人に加えて、京都市内の私立大学や短期大学などの女子学生だった。
高野悦子の部屋は2階(写真下の階段踊り場左のドアから入る)を入って左側の一室だった。なお階上は屋上で、階下の左側の窓の内が食堂だった。
同じ下宿にいた女子学生は「彼女は山が好きでした。部屋には山の写真と山の詩がいつもはってありました。冬でも独りで山へ出かけたものです。
下宿の狭い階段で身体よりも大きなザックをウンウン言いながら引きずり下ろしていた姿が目に浮びます。
「ハイッ山のおみやげ」といって名も知れぬ野草を採ってきては原田のおばあちゃんを喜ばしていました」
「三月の少し寒い夜、彼女の部屋で遅くまで話したことがあります。お腹がすいて少し固くなったパンをヒーターで焼いて二人でかぢりながら。学校の闘争のことが中心で、アチコチから本や資料を引出して教えてくれました。社会、大学の矛盾をついて激しい言葉でした。恋愛論についてはあまり記憶がありませんが、高校が女子高だったので「男の人がこわい」と言っていたのが印象に残っています」(「手紙(高野家宛)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年))と回顧している。
☞二十歳の原点序章1968年8月28日「ひっそりとした廊下を通って部屋に入る」
原田方は、京都の大学に通う女子学生を対象とした下宿をしていた。このため、かりに下宿人の一人である高野が逮捕・こう留されると、その風評等で、下宿全体の経営が成り立たなくなる可能性があると考えることは無理がない。
本ホームページ編集人は、当時を知る「原田さん」ご家族に当時の話をうかがった。ご家族は、おだやかな京都弁で親切に対応していただいた。高野悦子についてのご家族の話は次の通り。
「おとなしい人だったと覚えている。後に自殺したという話を聞いた時は驚いた。下宿している時はそんな感じはしなかった。
高野さんは学生運動をしているように見えなかった。同じころに下宿していた別の女子学生でヘルメット等を持っていたそれらしい人はいたが、高野さんはそういう風ではなかった。
お父さん(高野三郎氏)から本書をいただいて読んだが、特に「迷惑をかける」という表現が印象に残っている」。
☞1969年2月7日「ブルジョア新聞を読んで」
高野悦子は帰郷中だったが、立命館大学では2月12日(水)午後1時半から、中川会館前の広場で「反日共系の全学共闘会議と大学側の大衆団交が開かれた。大学側からは末川博総長が初出席したのをはじめ、小田美寄穂理事長と6学部の学部長、同代行らが出席、学生は約3,000人が参加、大学の機構改革と合わせ、注目の入試問題について大学・全共闘の間で激論がかわされた。〝入試実施〟の方針を堅持する大学側に対し、全共闘は「現状では入試を中止すべきだ」と主張、同夜8時団交は決裂状態のまま打ち切られた」(「立命大、〝入試〟なお波乱含み」『京都新聞昭和44年2月13日』(京都新聞社、1969年))。
全共闘および各セクトは、「入試を実力で粉砕し、ブルジョア教育支配機構に痛撃を加えよ!」(「プロレタリア軍団ビラ」)、「『入試粉砕』の旗を高くかかげよ!」(マル学同中核派ビラ」)、「入試強行を断固阻止せよ!」(「民学同ビラ」)等と一斉に反発した。
京都:曇・最低3.1℃最高8.9℃。夜半過ぎに雨が降った。
2月13日(木)、「入学試験を翌日に控えて、立命館大の広小路学舎は騒然たる空気に包まれていた。入試強行阻止を唱える反代々木系学生たちは、例のごときヘルメットにゲバ棒で、封鎖中の中川会館の前に整列し、ピッピッピッと笛を吹きながら狭い校庭をデモってみせる。それに向って、〝安保破棄・学園民主化放送局〟と称する代々木系のマイクが〝全共闘派、一部暴力集団〟非難のボリュームをあげ、「大学当局は、社会的責任を自覚し、毅然とした態度をとって全立命人の力によって入試を実現することを…」と繰返す。反対派の中川会館の〝解放放送局〟のマイクも応戦して鳴り続けているが、性能が悪くてよく聞きとれない。その下から、「われわれは断固、闘うゾ、闘うゾ」「民青粉砕」のシュプレヒコール…。」
「代々木、反代々木のふたつのマイクの騒音をあびながら、一般学生は、不安げに校庭に立ちつくしていた。代々木系のマイクには背を向けて、全共闘の集会を離れて見つめている。その目は、かならずしも、全共闘糾弾という色ではない。体育会の腕章をつけた学生たちがいう。「クラブ活動をするうえで、新入生はほしい。代々木は封鎖解除というが、代々木にとってはそれで問題解決や。だが、わしらは全共闘のいう〝立命館民主主義の解体〟に賛成や。だから封鎖解除とはいわない。しかし、両派が衝突してはほしくない。それにしても、大学は入試をどうするつもりか、はっきりしてもらわんと…」。そんな立場を示すように胸に「入試休戦」のリボンを下げている」(朝日ジャーナル編集部「「東大以降」に展開する大学紛争─京大、立命館にみる新しい問題提起」『朝日ジャーナル1969年3月2日号』(朝日新聞社、1969年))。
「14日からの受験生対策として大学は13日夜、衣笠学舎に最高本部を設置、各試験場にも対策本部を設けることにした。このため13日夜は、教職員600人が各試験場に泊まり込み、入試実施に万全の構えをみせた」
「一方〝入試休戦〟(入試期間の紛争の休戦)を大学、学友会、全共闘などに申し入れた体育会は、14日朝、会員約600人を動員、各試験場に分散して入試の円滑な実施に協力することにしたほか、入試を守る会、理工学部クラス連合、校友会員など各有志1000人以上も大学の動きに合わせて自発的な行動をとるという」
「またこの日〝入試実力阻止〟を叫ぶ全共闘は、他大学からの応援もあって約300人が構内をデモ、入試実施を討議する集会になだれこみ、数人に負傷をさせた」(「立命大きょう入試─混乱回避へ緊迫の前夜」『京都新聞昭和44年2月14日』(京都新聞社、1969年))。
存心館(ぞんしんかん)は、主に法学部が教室として使用していた校舎である。
1928年に広小路キャンパスに完成した。当初は3階建てであったが、1954年に4階部分を増築し時計台もできた。名称は「孟子」盡心篇上の「存其心、養其性、所以事天也」に由来する。
大学側では試験場として最初、広小路キャンパス、衣笠キャンパス、同志社大学今出川キャンパス、新町キャンパスを予定していた。
しかし「広小路学舎は反日共系の学生が立てこもり入試阻止を叫んでいるため使えず、同志社大学も紛争の飛び火を恐れ13日夜、使用中止となったうえ、14日朝になって平安予備校が断わって来た」(「〝異常入試〟スタート─立命大、暗い雨空の朝」『京都新聞昭和44年2月14日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))ため、試験場は衣笠キャンパスを中心に、立命館高校、市内の予備校に変更されていた。
広小路キャンパスからは2月14日(金)朝、試験場変更を知らない受験生を輸送するバスが出される形だけだったが、全共闘がバスを取り囲んで一時ストップさせる場面があった。
「紛争中の立命館大学は、〝入試実力阻止〟を叫ぶ全学共闘会議(反日共系)派に対し〝自力入試〟に踏み切り、第1日目のきょう14日午前10時35分から北区等持院北町の同大学衣笠学舎など10会場で実施した。全共闘派学生による妨害や試験場の再変更などで一部に混乱はみられたが、体育会系学生をはじめ一般学生の協力で受験生を各試験場に誘導し、同10時20分入場を完了した。しかし受験生たちの表情は不安の色を濃くしていた」(「立命大〝自力入試〟を強行」『夕刊京都昭和44年2月14日』(夕刊京都新聞社、1969年))。
下宿に帰ったのは14日の正午ごろである。
2月14日、「全共闘の学生約150人は、午前6時半ごろヘルメット、角材姿で、封鎖中の広小路学舎の中川会館から出て、電車通りをへだてた同大学の恒心館にはいり、入口に机やイスでバリケードをつくり封鎖した。
この封鎖に反対する学生約200人が、全共闘の学生に向って放水や空ビンを投げて封鎖解除を求めた。
この小ぜり合いで数人がけがをしたが、午前8時すぎ、全共闘の学生が引きあげ、封鎖は解除された。
全共闘の学生はその後も広小路学舎一帯をデモ行進し、バスに乗込む受験生の間に割ってはいったりして、体育会系や一般学生ともみあった」(「試験場突入は阻止─立命大、緊迫の入試実施」『朝日新聞(大阪本社)1969年2月14日(夕刊)』(朝日新聞社、1969年))。
☞恒心館
「全学共闘会議は13日夕方、試験場に予定されていた広小路学舎の存心館へ出かけたが、体育会学生や一般学生、学友会に押しもどされた。試験当日の14日早朝にも、広小路学舎から市電通りをへだてて、京都府立医大と並ぶ産業社会学部の恒心館を40人で占領、府医大と呼応して、河原町三差路一角に、〝カルチェ・ラタン〟をつくろうと試みたが、これまた成功しなかった。
受験生をのせる大学側のバスにも全共闘は押しかけたが、阻止には至らず、また14日昼ごろから、フロント系学生120人が、衣笠学舎に押しかけ抗議集会をしたが、門の中にははいらなかった。」
「中川会館に結集する封鎖派学生のヘルメット姿は、300人前後の横バイ状態を示した。これは「封鎖には反対だが、実力による封鎖解除にも反対」という一般学生の動き、とくに5日から「入試休戦」を打出した体育会学生の動向に左右されたといえる。
その体育会に象徴される〝一般学生〟の動向はこれからの立命館の〝焦点〟だ。体育会は、学友会と学校当局が、紛争の発端となった寮連合の主張を圧殺しようとしたのに強く反対した。話合いのルートが断たれた寮連合と学校当局の間に立って、予備折衝の根まわしをし、1月22日夜、代々木派のヘルメット突撃部隊の中川会館突撃に対しては、身をもって間にはいった。反代々木系の封鎖学生にとっては、守ってくれた形の体育会学生が、「入試休戦」をいい出したので、ハネれば大衆路線から浮いてしまう事情があった」(朝日ジャーナル編集部「「東大以降」に展開する大学紛争─京大、立命館にみる新しい問題提起」『朝日ジャーナル1969年3月2日号』(朝日新聞社、1969年))。
京都:晴・最低3.1℃最高13.2℃。
梨ノ木神社は、京都市上京区寺町通広小路上ル染殿町にある神社、梨木神社のことである。
梨木神社は明治維新に貢献した三条実万(さねつむ)と実美(さねとみ)父子を祭っている。境内はハギの名所として知られている。
立命館大学広小路キャンパスの西隣で京都御苑との間にあたる。機動隊は敷地南側の駐車場付近にいたとみられる。
京都府警察本部警備部は、立命館大学の入試期間中、入試妨害の警戒にあたっていた。
中核は、新左翼(反代々木系)の一派である中核派。中核派は「日本マルクス主義学生同盟中核派」の略称。白色ヘルメットに「中核」が一般的であった。
☞1969年5月2日「中核の宮原っていうやつと」
16日午後3時の気温は4.7℃で、毎時3mm程度の雨だった。
☞1969年2月20日「民主化放送局とやらの」
フロントは、新左翼の一派である構造改革派のグループ。緑色ヘルメットが一般的であった。
立命館大学の全共闘はここまで、社学同、中核派、フロントの三派からなり、とくにフロントが主流とみられていた。
しかし、入試阻止をめぐる一連の動きの中で、社学同がフロントに対して「闘争を反日共系、反当局の自己批判だけにとどめ、改良主義に陥っている」と立て看板等で公然と批判し、中核派もこれに同調、全共闘内での対立が表面化していた。
京都:曇時々雨。夜半から朝方まで雨だった。
ボート屋は、嵐山通船が、京都市右京区(現・西京区)嵐山中尾下町で営業する貸ボート店のことである。
当時は店が山側にあった。貸ボートは1時間200円だった。
☞1969年6月22日「小舟」
山陰線のトンネル付近の岩は、国鉄山陰本線(現・嵯峨野観光鉄道)嵐山トンネル付近の京都市右京区(現・西京区)嵐山元録山町の大堰川右岸にある岩のことである。
当時は渡月橋からこの付近までの道路はコンクリート舗装だった。
ダイヤ通りであれば、14:40福知山発京都行上り840普通列車(蒸気機関車)が午後5時前に嵐山トンネル付近を走っている。列車はトンネルに入る前に警笛を鳴らす。岩から列車が見えたから、このように記述しているとみられる。
この付近は嵐峡と呼ばれ、対岸にある京都府立嵐山公園亀山地区(亀山公園)展望台からも上からの風景が眺められる。
「亀山の緑がかげをうつす大堰川のほとりにたたずむと、『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)にのる今様の一節も重い思い起される。嵯峨野はたしかに王朝の興宴の場であった。嵯峨野の饗宴は、鵜舟、筏師、流れ紅葉、山蔭響かす箏のこと、浄土の遊(あそび)に異(こと)ならず」(林屋辰三郎「御室から嵯峨へ」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。
午後10時のニュースである。
☞1969年2月20日「十八日夜、存心館が法学部学大に基づいて再封鎖された」
「夜などダベりに部屋を訪れると、彼女はどんなに忙しくても快よくむかえてくれました。だから彼女の部屋には人がよく集まりました」(「手紙(高野家宛)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年))。
☞眼鏡を笑った短大生・大山さん「高野悦子さんと原田さんの下宿」
1月18日(土)の日本史研究室会議である。
北山茂夫は「文学部日本史の院生、学生の三派とそのシンパは、林屋、北山、岩井、衣笠にたいして「二部文自の民青の謀略にのった」として、林屋、北山は師岡の思想調査(よくもこんなことがいえたものだ!)をしたとして自己批判を要求し、その懇談の席上で4人は拒否した。院生はすべて奈良本の輩下、高野は席上で辞表をよみあげる一幕もあった。私はこのときすでにこんな手合と争う気持をもたず辞意をかためた」(北山茂夫「ケンブリッジ松尾尊兊へ69・2・6封書」『向南山書簡集(中)』遺文と書簡5(みすず書房、1986年))と残している。
「1月18日午後1時には約100名を集めて「日本史研究室会議」を設定した。教員側はこれを学生との懇談の場と解し、奈良本を除く専任教員がすべて出席した。三派側の主張は要するに、二部学友会の主張は客観的には師岡解任要求であり、これを教授会がとりあげて師岡と面談したのは「思想調査」であり、学問研究の自由に対する侵害である。日本史教員および教授会は自己批判せよ、というにあった。
北山たち教員側は三派側の要求を拒否した」「団交の常として、会議は一方的に教員を糾弾する場所となったが、北山は5日後の再交渉を提案し、教員たちはようやく団交の場から解放された。
北山は学問の自由の美名のもとに、教員に党派への屈従を迫る三派院生・学生に失望し、かつ怒りをおぼえた。とくに日頃北山に親しい何人かのゼミ学生が三派側に与して発言したのがひどくこたえた」(松尾尊兊「立命館の日々」『北山茂夫 伝記と追想』(みすず書房、1991年))という見方もある。
☞1969年1月25日「十八(土)研究室会議」
☞二十歳の原点序章1967年4月15日「先輩の話だと岩波新書を三日に一冊位ずつ読んでいくべきだといった」