高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 3月 8日(土)
 曇天の寒い日

 京都:晴・最低0.1℃最高13.2℃。朝から雲が広がった。

 三月一日から夜のアルバイトや本を読む気が起りまして、

 夜のアルバイトは、京都国際ホテルでのウエイトレス。下宿(原田方)の友人の紹介による。
京都国際ホテル

 ただ今、小田実「現代史Ⅰ」を読んでいます。高橋和巳にひかれましたので「堕落─内なる荒野」を読みました。

小田実現代史 『現代史 上』(河出書房新社、1968年)は、小田実の書き下ろし長編小説の上巻である。当時690円。
 帯には「“われら自身の歴史”を描く─いまこの時、われわれにとって“生”とは何か?聰明で美しい女子学生の愛の遍歴を軸にして現代日本の鼓動と底流を描く、全体小説2700枚」。
 「これは虚構による現代史の試みである。と言っても、ことこまかに歴史的な事実を伝えようとしたわけではない。私が書こうとしたのは、いわば現代という時代のもついぶきだった。よりくわしく言えば、1964年末から翌年にかけての時代のいぶき─さまざまな人間がそのいぶきをつくり出し、また、いぶきのなかで、さまざまな日常生活が展開する。私が虚構を通じて歴史に定着しようとしたのは、そうしたいぶきであり、いぶきのなかの人間だった─作者のことば─」。
 造船会社社長の一家とその4姉妹が中心人物になっており、谷崎潤一郎の小説「細雪」を念頭に置きながら、1960年代の緻密な描写によって時代のギャップを見せていく。主人公の女性の同級生が自殺する場面からストーリーは始まる。
☞1969年1月5日「小田実」

高橋和巳堕落新刊広告 「堕落─内なる荒野」は、高橋和巳の長編小説『堕落』(河出書房新社、1969年)のことである。当時540円。
 帯には「あまりに儚く崩れ去った我が理想─国会社会の秩序に背を向け己が理想に生きる男の内面に拡がる消しがたい曠野のイメージ。現代文学の最尖鋭、高橋和巳の長篇問題作」。
 当時の広告では「腐敗し、堕落しきった国家よ! 人間よ! 消しがたい曠野のイメージを抱いて狂気に陥ちこんでゆく男が呟く悪魔的な呪詛。─国家・社会の秩序に敢然と背いて己が理想に生きる男が内面の自己処罰の衝動に駆られて破滅してゆく。失墜と絶望的な再生を壮大な構想力で描破し若き世代に共感を呼ぶ高橋文学の力作」「著者のことば─過去の蹉跌を切断することによって現在の苟安をむさぼろうとするのが戦後を主導した日本人の態度であった。だが私はその態度を嫌悪する。昭和の精神史を内部から文学を通して反省し批判するという私自身の営為は激動の現代に対する私の自立への姿勢でもある」と訴えている。
 「一個人の内面においても、その人の実存とかかわるものとして行為された経験や認識は、たとえ新たな局面への適応のために意識の深層に埋められることはあっても、まったき空無と化すことはありえない。もしそれが空無と化すなら、以後の体験や思惟は、零にかけあわされるすべての数字が零となるように、空無化するであろう。たとえ意識の表層からその姿を消しても、より深い奥底から絶えず怨念の呟きを投げかけるのが、体験であり認識であって、そしてそれが不愉快で耐え難い怨霊の声に似ていても、そうした呟きのあることが、その個人がなお人間であり、人間的でありうることの証左である」(高橋和巳「あとがき」『堕落』(河出書房新社、1969年))。
 高橋和巳(1931-1971)は作家であるとともに中国文学者で、1960年から4年間、立命館大学文学部の専任講師(中国文学専攻)を務めていた。

 ミリアムマケバ(注 黒人歌手)とかゴリラ、そしてコヨーテなどが好きです。

 ミリアム・マケバ(1932-2008)は南アフリカ共和国の歌手でグラミー賞のベスト・フォーク・レコーディング部門受賞。
 ダンスをモチーフとした曲「パタ・パタ」のヒットで有名。
 日本ではシングル「パタ・パタ」を1967年12月15日に日本ビクター(当時)からリリース、売上8.9万枚、オリコン最高21位の記録が残っている。

 「生きてる 生きてる 生きてるよ バリケードという腹の中で」という詩がありましたが、悲しいかな私には、その「生きてる」実感がない。

 「生きてる 生きてる 生きている バリケードという腹の中で 生きている」は、『叛逆のバリケード─日大闘争の記録─増補版』の巻頭の詩である。
☞1969年2月22日「反逆のバリケード」
☞1969年2月24日「「生きよう」とする衝動、意識化された心の高まりというものがない」

 恒心館、研心館は全共闘に封鎖され人影もまばらな静かなキャンパスであった。

恒心館

 恒心館は、広小路キャンパスから河原町通をはさんで南東の、京都市上京区河原町通広小路下ル東桜町にあった。
 旧文学部棟があった場所に1962年5月に完成、主に産業社会学部が校舎として使用していた。名称は『孟子』滕文公篇の「有恒産者有恒心、無恒産無恒心」に由来する。
広小路キャンパスの恒心館の位置建設当初の恒心館
 全共闘(反民青系)は2月「26日夜半、大学側の入試「強行」、府警の強制捜査とこれに対する責任追及、理事会の団交拒否に対する抗議などを掲げて、産業社会学部の基本棟である恒心館を封鎖・占拠した」(「立命館大学における「大学紛争」とその克服」『立命館百年史通史二』(立命館百年史編纂委員会、2006年))
 「全学共闘会議は、京都における京大、府立医大をはじめ全国学園闘争との質的な結合の中で、立命館体制の徹底した暴露、解体にむけて闘争の非妥協的な展開をはかるべく、26日午後11時ごろ、恒心館のバリケード封鎖に突入した」(「全共闘、恒心館を封鎖─大学側、団交を拒否」『立命館学園新聞昭和44年3月3日』(立命館大学新聞社、1969年))
 恒心館の建物は宗教団体・世界救世教に売却され、研修所になった。
全共闘が恒心館封鎖恒心館の建物
☞1969年2月15日「恒心館の封鎖と解除をめぐる放水」

恒心館跡の解体

 恒心館は延べ5,570㎡で、建物2棟を東西に組み合わせた構造になっていた。
恒心館空撮恒心館平面図
 河原町通に面した敷地西側の建物は、断面がコの字型の前面ブロック鉄筋コンクリート5階建て。1階に産業社会学部の部長室、事務室、喫茶、売店、会議室、2階から4階には一般教室が当初13室あり、5階は研究室だった。西日を受ける正面は両側が壁面タイルでルーバーを設置したため、独特の外観になった。
 一方、河原町通から見て裏側にあたる敷地東側の建物は鉄骨鉄筋コンクリート4階建て。2階から4階に約500人収容の大教室3室が設けられていた。大教室は規模が大きいために同じ建物にまとめる形になった。大教室の下に位置する1階はピロティで、西側建物の中庭と合わせて広場として活用できるようになっていた。また西側建物と東側建物は階数が異なるため、接続部分に階段があった。

 恒心館跡の建物は外観がほぼ原形をとどめたまま宗教団体の研修所として利用されていたが、2020年に解体された。
恒心館跡の解体解体工事中の恒心館玄関
 解体工事中の様子を撮影した方から写真をご提供いただいた。改めて謝意を表する。
恒心館跡の東側の様子解体工事中の恒心館ピロティ
 解体が完了すると約60年ぶりに更地となる。
恒心館跡の建物解体後工事の様子
 恒心館跡の解体によって、立命館大学広小路キャンパスと周辺の校舎で現存する建物は、京都市上京区河原町通今出川下ル三筋目東入ル梶井町に1958年完成した体育館(現・京都府立医科大学体育館)だけになった。
立命館大学体育館跡立命館大学体育館跡入り口
 この体育館は文学部の保健体育実技などでも使用されていた。

研心館

研心館全体 研心館は、広小路キャンパスにある大教室兼ホール(3階を「研3」、4階を「研4」と略称していた)。
 この時点で研心館にバリケードで陣取っていたのは、学友会執行部(民青系)側であり、「民青系の学生が、広小路キャンパスを軍事制圧している」(「全共闘、恒心館を封鎖─大学側、団交を拒否」『立命館学園新聞昭和44年3月3日』(立命館大学新聞社、1969年))という状況であった。
 研心館は全共闘に封鎖されていたとする『二十歳の原点』の記述は事実と異なっている。
☞二十歳の原点序章1967年4月9日「きのう(八日)が入学式であった。研心館四階で、一時から挙行された」

 中川会館の落書きにいわく。

 このほかにも壁への落書きは多数あった。以下はそれらの例。
・1969.1.20 立命死す!
・ブルジョワ大学 革命的解体
・団交貫徹、世界革命、封鎖拡大
・東大闘争と連帯するぞ!→列品館に続け!→立命全共闘は闘うぞ!
・我々はうんざりしすぎた。今度は大学当局がうんざりする番だ。執ように攻撃を開始せよ!
・無方針の方針で闘うぞ
・MLでてから19年 いまじゃ北京のセールスマン 万才万才とさわぎたて 売った語録が五万冊
中川会館

 ・気狂いピエロはあまりに悲しかったので泣くことすらできなかったのです。

 気狂いピエロは、ジャン=リュック・ゴダール監督の仏・伊映画(1965年)。国内は日本ヘラルド映画(現・角川映画)配給で1967年7月7日公開。
☞二十歳の原点ノート1966年5月13日「ピエロが歌う」

 誰もいない
 誰もいない 長い長い孤独の夜よ
 寒い心に ひざかけ巻いて
 宛名のない 手紙を書くの

 なかにし礼作詞・大六和元作曲による菅原洋一(1933-)の歌「誰もいない」の1番の歌詞。
 菅原洋一は1968年12月21日、同曲で第10回日本レコード大賞歌唱賞。この後の1969年4月5日にシングルとして発売される。

 目かくし鬼さん 手のなる方へ
 うつろな目の色 とかしたミルク
 小さい秋
 小さい秋 見つけた

 サトウハチロー作詞・中田喜直作曲による童謡「ちいさい秋みつけた」の1番と2番の歌詞から引用している。
 ちいさい秋みつけたは、1962年、男声コーラスグループのボニージャックスの歌でNHKの音楽番組「みんなのうた」に登場、同年の第4回日本レコード大賞童謡賞を受賞している。

1969年 3月11日(火)
 とうとう十日目でアルバイトもダウン。

 前日の3月10日(月)についての記述で始まっている。

 午前中はFMでベートーベンをきいた。「英雄」はよかったが第四交響曲はぴったりしなかった。

 NHK-FM3月10日午前9時05分~:家庭音楽鑑賞「ベートーベン『交響曲第3番“英雄”』」。

 午後買物と用たしに出かけ、あと「シアンクレール」に落着いてしまった。
 用足しとして午前中、区役所支所に行った。
右京区役所川西支所

 右京区役所川西支所は京都市右京区(現・西京区)桂艮町の京都市右京区川西合同庁舎にあった。
 印鑑登録証明書(印鑑証明)を発行してもらうためである。印鑑証明は次の下宿(川越宅)に入る賃貸借契約に求められたとみられる。
右京区役所川西支所地図右京区役所川西支所跡
 建物は現存し、現在は西京区役所保健福祉センター別館になっている。

 阪急・桂駅から立命館大学広小路キャンパスに行って中川会館の落書きの写真を撮ったあと、午後1時30分ごろシアンクレールに入ったとみられる。
シアンクレール

 女性ボーカルのThe Sound of Feelingなどはあのときのサイレンの音に自由奔放な野性味を加えた好もしげな音楽であった。ALBERT AYLERのリズムとビートのきいたのもよかった。

 女性ボーカルは、女性2人を中心としたアメリカのグループ、The Sound of Feelingのアルバム“Spleen”(邦題:『サウンド・オブ・フィーリングの世界』)(1969年、Limelight Records/日本ビクター(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント))である。
“Spleen”の収録曲は以下の通り。
The Sound of Feeling1. Hurdy Gurdy Man(5分27秒)
2. Hex(6分08秒)
3. Up into silence(2分02秒)
4. The Time Has Come For Silence(7分40秒)
5. Along Came Sam (The morning of the mutations(4分02秒)
6. The Sound Of Silence(3分34秒)
7. Spleen(2分54秒)
8. Mixolydian Mode(10分28秒)

 ALBERT AYLERのリズムとビートのきいたのは、アメリカのサキソフォン奏者、アルバート・アイラー(1936-1970)のアルバム“New Grass”(1968年、インパルス!レコード/キングレコード)である。
“New Grass”の収録曲は以下の通り。
New Grass1. Message From Albert/New Grass(3分53秒)
2. New Generation(5分06秒)
3. Sun Watcher(7分29秒)
4. New Ghosts(4分10秒)
5. Heart Love(5分32秒)
6. Everybody's Movin'(3分43秒)
7. Free At Last(3分08秒)
 このアルバムも大半の曲にボーカルが入っている。“Spleen”とともに、当時のジャズ喫茶でリクエストが多かったアルバム。
 「アイラーがソウルやロックから触発されて吹き込んだ問題作。ボーカルとコーラスも配して、ある意味で従来の作品よりも判り易い内容になっている。そんなサウンドの中でも本人は相変わらずの強烈なプレイを展開」(「20世紀ジャズ名盤のすべて」『SwingJournal2000年5月臨時増刊』(スイングジャーナル社、2000年))。

 九時、店を出て恒心館に行った。
 全共闘の門番が焚火をしていた。

恒心館地図 恒心館は当時、全共闘が封鎖していた。高野悦子は門番のたき火に2、30分あたりながら会話をしたとされる。
 京都の3月10日午後9時の気温は3.6℃。

 帰りぎわに「レポート、頑張ってボイコットしてネ」と、いわれたが、一体オラァドウスリャイインダー

 2月26日、「大学は、語学試験を除き一部全学部で試験をレポート提出に切り替えることとした」(「立命館大学における「大学紛争」とその克服」『立命館百年史通史二』(立命館百年史編纂委員会、2006年))
 これに対して全共闘側は、試験強行に代わるレポート提出の強制による闘争弾圧だと主張した。

1969年 3月15日(土)
 「現代詩手帖」の石原吉郎の文にひかれた。生と死、私はこの事についてもっと考えこみたい。石原吉郎の詩集を早く手にとりたい。

現代詩手帖表紙 『現代詩手帖』は、思潮社発行の現代詩についての月刊誌。『現代詩手帖1969年2月号』(思潮社、1969年)は、当時200円。石原吉郎(1915-1977)は、現代詩の詩人。
 「それは、自分自身の死の確かさによってしか確かめえないほどの、生の実感というものが、一体私にあっただろうかという疑問である。
 こういう動揺がはじまるときが、その人間にとって実質的な死のはじまりであることに、のちになって私は気づいた。
 この問いが、避けることのできないものであるならば、生への反省がはじまるやいなや、私たちの死は、実質的にはじまっているのかも知れないのだ」
(石原吉郎「確認されない死のなかで─強制収容所における一人の死─」『現代詩手帖1969年2月号』(思潮社、1969年))
☞1969年5月7日「とうとう買っちゃったんだ」

 「アナーキズムⅠ」を買ってきた。

アナキズムⅠ アナーキズムⅠは、ジョージ・ウドコック著白井厚訳『アナキズムⅠ(思想編)』(紀伊国屋書店、1968年)のことである。当時750円。
 帯では「閉塞の時代に自由を求めて甦る変革の思想─アナキズムは本質的に反政治思想である。あらゆる権威を否定し、自由な個人の結合による未来社会を夢みるこの教義は、人間による人間の統治を拒絶する。社会の根本的変革を志向し、既存社会に全面的批判を投げかけるこの思想の系譜を、著者は、ゴドウィン、シュティルナー、ブルドン、バクーニン、クロポトキン、トルストイの思想のなかに明らかにする」と書かれていた。
 当時の書籍広告では「あらゆる権力の支配を拒絶し、全き個人の自由意志を追求するアナキズム。近代社会の物質主義、画一化に挑戦しつつ、閉塞の時代に不死鳥のごとく甦るこの思想系譜を、本書はプルドン、バクーニン、クロポトキン、トルストイ等の思想の中に探る」。
 「人類社会の究極の理想形態は、といえば、それは疑いもなくアナキズムの社会であろう。プラトンの哲人政治も、サン-シモンのメリトクラシィも、各人の理性に全面的な信頼を置いたアナキズムの理想の前には、色あせた存在である。各人が何らの支配拘束を受けることなく、平等に、しかも各人の自由な合意によって調和を保つような共同社会を、人類は長い間夢想してきた」(白井厚「訳者序言」ジョージ・ウドコック著白井厚訳『アナキズムⅠ(思想編)』(紀伊国屋書店、1968年))。
6・12メモ

 フロムの「自由からの逃走」ではないが、自由であることを恐れているのではないか。

☞二十歳の原点序章1968年10月9日「これから読まなくてはならないものは…『自由からの逃走』」

 メイン・ダイニング・ルームに仏人のベルレー(注 映画俳優)に似た人がいた。

 ルノー・ベルレー(仏、1945-)は、映画『個人教授』(1968年)の主演男優。日本ではアイドルのような扱いになった。
個人教授
 『個人教授』はミシェル・ボワロン監督のフランス映画。日本では、東和映画(現・東宝東和)配給で1969年4月26日(土)に封切りされた。
 いわゆる青春恋愛モノで、「愛はいつも哀しみをえらぶ、心を灼(や)いて。恋はふりむきながら、去ってゆく─」。
 京都では東宝パレス劇場で4月26日(土)ロードショー予定だった。

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