高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 2月18日(火)
 曇 夜半雨

 京都:曇時々雨。夜半から朝方まで雨だった。

 五時頃、ふっと自転車で嵐山に行く。
 ボートに乗るつもりだったが、時間が遅いせいか、季節外れのせいか、それとも増水のためか、ボート屋は店じまいであった。
 ここでいう嵐山は、渡月橋付近のいわゆる嵐山を指す。
嵐山通船

 ボート屋は、嵐山通船が、京都市右京区(現・西京区)嵐山中尾下町で営業する貸ボート店のことである。
嵐山通船地図嵐山通船
 当時は店が山側にあった。貸ボートは1時間200円だった。
☞1969年6月22日「小舟」

 山陰線のトンネル付近の岩に腰をおろし、ラジオのスイッチを入れた。ジャズ、エレキが流れて丁度合った感じであった。川の水は黄土色に濁ってドクドクと流れていた。
山陰線のトンネル付近の岩

 山陰線のトンネル付近の岩は、国鉄山陰本線(現・嵯峨野観光鉄道)嵐山トンネル付近の京都市右京区(現・西京区)嵐山元録山町の大堰川右岸にある岩のことである。
 当時は渡月橋からこの付近までの道路はコンクリート舗装だった。
山陰線トンネル付近地図山陰線トンネル付近空撮
 ダイヤ通りであれば、14:40福知山発京都行上り840普通列車(蒸気機関車)が午後5時前に嵐山トンネル付近を走っている。列車はトンネルに入る前に警笛を鳴らす。岩から列車が見えたから、このように記述しているとみられる。
岩の写真当時の付近
 この付近は嵐峡と呼ばれ、対岸にある京都府立嵐山公園亀山地区(亀山公園)展望台からも上からの風景が眺められる。
 「亀山の緑がかげをうつす大堰川のほとりにたたずむと、『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)にのる今様の一節も重い思い起される。嵯峨野はたしかに王朝の興宴の場であった。嵯峨野の饗宴は、鵜舟、筏師、流れ紅葉、山蔭響かす箏のこと、浄土の遊(あそび)に異(こと)ならず」(林屋辰三郎「御室から嵯峨へ」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))

 十時のニュースで立命の存心館の封鎖を知る。火えんびん、放水等で衝突があり数十人が怪我をした。

 午後10時のニュースである。
☞1969年2月20日「十八日夜、存心館が法学部学大に基づいて再封鎖された」

 大山さんと牧野さんと三人であれやこれや話をする。

 「夜などダベりに部屋を訪れると、彼女はどんなに忙しくても快よくむかえてくれました。だから彼女の部屋には人がよく集まりました」(「手紙(高野家宛)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年))
眼鏡を笑った短大生・大山さん「高野悦子さんと原田さんの下宿」
原田方

 北山先生が辞表を出した理由として一番の原因だったのではないかと思われるものに十八日の研究室会議がある。

 1月18日(土)の日本史研究室会議である。
 北山茂夫は「文学部日本史の院生、学生の三派とそのシンパは、林屋、北山、岩井、衣笠にたいして「二部文自の民青の謀略にのった」として、林屋、北山は師岡の思想調査(よくもこんなことがいえたものだ!)をしたとして自己批判を要求し、その懇談の席上で4人は拒否した。院生はすべて奈良本の輩下、高野は席上で辞表をよみあげる一幕もあった。私はこのときすでにこんな手合と争う気持をもたず辞意をかためた」(北山茂夫「ケンブリッジ松尾尊兊へ69・2・6封書」『向南山書簡集(中)』遺文と書簡5(みすず書房、1986年))と残している。
 「1月18日午後1時には約100名を集めて「日本史研究室会議」を設定した。教員側はこれを学生との懇談の場と解し、奈良本を除く専任教員がすべて出席した。三派側の主張は要するに、二部学友会の主張は客観的には師岡解任要求であり、これを教授会がとりあげて師岡と面談したのは「思想調査」であり、学問研究の自由に対する侵害である。日本史教員および教授会は自己批判せよ、というにあった。
 北山たち教員側は三派側の要求を拒否した」「団交の常として、会議は一方的に教員を糾弾する場所となったが、北山は5日後の再交渉を提案し、教員たちはようやく団交の場から解放された。
 北山は学問の自由の美名のもとに、教員に党派への屈従を迫る三派院生・学生に失望し、かつ怒りをおぼえた。とくに日頃北山に親しい何人かのゼミ学生が三派側に与して発言したのがひどくこたえた」(松尾尊兊「立命館の日々」『北山茂夫 伝記と追想』(みすず書房、1991年))という見方もある。
☞1969年1月25日「十八(土)研究室会議」

 毎日、新書を一冊よむぐらいに頑張れ。

☞二十歳の原点序章1967年4月15日「先輩の話だと岩波新書を三日に一冊位ずつ読んでいくべきだといった」

 今日読んだ本、堀田善衛「キューバ紀行」
岩波新書キューバ紀行表紙 堀田善衛『キューバ紀行』岩波新書(岩波書店、1966年)、当時150円。
 堀田善衛(1918-1998)は小説家。1959年のキューバ革命後の現地を訪れて取材し、長くアメリカの半植民地状態にあって生じた経済や社会の歪みについて描いている。
☞二十歳の原点序章1968年3月21日「『キューバ紀行』の方はおもしろくて、ついつい最後までよんでしまった」
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