高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 4月22日(火)①
 暖かい晴天の日

 4月22日の京都:曇、最高22.4℃最低11.8℃。

 何故にノートを中断したかというと、書き始めたらずっと止まることを知らずに書き続けそうな気がしたからだ。

 4月に入ってからほぼ連日、日記を書いている。
 最大の理由は、前の下宿の原田方と違って、話し相手のいない一人の下宿になったためと考えられる。

 新聞をていねいに読んだ。アメリカ軍偵察機撃墜事件による日本海の緊張を「朝日」が一面にアメリカ空母の写真入りでスクープしていた。

朝日新聞記事 4月20日(日)ではなく、4月21日(月)朝刊の朝日新聞(大阪本社)の記事である。
 朝日新聞社機は、4月「20日午後3時2分、長崎県福江市の西108キロ、済州島の南東104キロの東シナ海で北上する米対潜空母ホーネットと護衛の駆逐艦6隻を発見した。ニクソン米大統領が日本海への米艦隊進出を明らかにしてから初めてその姿を確認したわけである」(『米艦隊、日本海へ北上─空母中心に7隻』「朝日新聞(大阪本社)1969年4月21日」(朝日新聞社、1969年))。

 メンダイの近石さんから四〇〇円借りてシアンクレールにいき、コーヒーとウィスキーをのむ。

京都国際ホテルからシアンクレール
シアンクレール

 帰宅してから岩波歴史講座「第二次大戦後の日本と世界」(井上清)をよみ、ねむる。

☞1969年4月19日「明日は「第二次大戦後の日本と世界」(井上清)をよみ」

 鈴木が最初に私の頭に手をのせてくれたのはいつだったろうか。

☞1969年4月15日「鈴木は「どうしたんだ」と彼の手を私の頭にのせた」。

 二十一日
 雨が降ってました。

 4月21日(月)の京都:曇時々雨、午前中から小雨が降ったり止んだりだった。

 二条城のお堀を散歩しました。

二条城

 二条城は、京都市中京区二条通堀川西入ルにある城である。京都国際ホテルの西側に位置する。内堀と外堀があるが、ここでは門の外にある外堀を指している。
国際ホテルから見た二条城
 「二条城は、慶長7年に徳川家康が聚楽第内の館を移して造築し、さらに寛永年間に本丸を拡築し、伏見城の天守を移して外観をととのえたものであった。それは京都のなかの城郭として、いかにも封建権力を象徴するものであった」(林屋辰三郎「京都」岩波新書(岩波書店、1962年))。移築した天守は1750年、落雷で焼け、その後は再建されなかった。また天明の大火で本丸の全てとやぐらや門の一部が焼失した。
 幕末、最後の15代将軍・慶喜は1866年、この城で将軍職を拝命し、翌年には二の丸御殿大広間で大政奉還を発表した。
空から見た城の様子二条城と京都国際ホテル
 高野悦子は、高校2年生の修学旅行の時に二条城を訪れている。
☞二十歳の原点ノート1965年11月20日「二条城」

 二条城の外堀北側には当時、京都国際ホテル女子寮があった。
二条城空撮

 鈴木を好きな三谷さんこと「オソマツさん」がいるのに、

 おそ松くんは、1960年代に「週刊少年サンデー」(小学館)や「別冊少年サンデー」(同)に掲載された赤塚富士夫のマンガの題名およびその主人公である。

 とてもよい天気です。暖かい春の陽が部屋に満ちており、

 4月22日(火)午前10時半の京都:曇、気温18℃前後。

 前の小学校では真白い運動シャツと赤い帽子をかぶった小さな子供たちが走り回っています。

 前の小学校は、京都市中京区御前通丸太町下ルの京都市立朱雀第二小学校である。
川越宅周辺空撮京都市立朱雀第二小学校

 ※4月22日(火)後半の記述☞1969年4月22日②
高野悦子「二十歳の原点」案内