高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 5月12日(月)②

「無人列島」・金井勝監督が語る

 高野悦子は二十歳の原点1969年5月12日(月)に以下の記述をしている。
 「無人列島」という映画をみました。六十分もので淡々と描かれていたけど内実のあるものでした。人間における相互の関係は殺すか殺されるかという関係(愛においても闘争においても)ではないかと思いました。権力に反抗した日出国は最後に殺されてしまうのでした。次作品にどんなものが出るか楽しみです。

金井勝監督 洋画中心の高野悦子が最後に見た映画は自主製作で金井勝監督の『無人列島』(かない・ぷろだくしょん(現・かない勝丸プロダクション)、1969年)(55分)であり、記述でストレートな論評をしていることは極めて異例の扱いである。
 当時の事前報道では「若い映画作家による作品がまた東京でつくられた。32歳の金井勝監督の「無人列島」(かない・ぷろだくしょん)で、9日から13日まで京都・河原町三条の小劇場「射手座」で上映される。
 同監督は大映の撮影助手出身。39年にフリーとなったが「35歳までには必ず自分の映画をつくる」つもりで、十年がかりで資金づくりをした。こうしてつくった400万円で、この一月下旬にクランク・イン、3月20日に撮影を終えたもの。脚本を共同執筆した山崎佑次、宮田雪さんらスタッフのほとんどは同年配。
 魔力的な尼僧にあやつられた一人の青年の奇妙な遍歴を描くドラマで「この映画には12のテーマが織込んであり、そのためにすべての映像が多層になっている。観客がそのどれかの意味を読んでくれればうれしい」と同監督はいっている」(「若い映画作家が自作─異色の「無人列島」─9日から京都で上映」『朝日新聞(大阪本社)1969年5月7日(夕刊)』(朝日新聞社、1969年))と伝えられた。
 高野悦子が次作品を楽しみにした『無人列島』の金井勝監督に当時の状況を中心にうかがった。


映画『無人列島』について

無人列島 金井:あれはシュールな映画で、当時、大島渚(1932-2013)が「全く新しい内容のモノを全く新しい方法論を用いて作らなければ映画として認めない!自己模倣も許さない!」と言っていて、ぼくはその言葉にすごく惹かれていた。
 当時はまだ五社協定があって独立プロダクションの上映場所があまりなかったのが、1961年にATG(日本アート・シアター・ギルド)ができて、外国からの芸術的・前衛的作品の配給に続いて、国内の独立プロなどと提携での製作・配給もはじまった。
 ATGは監督が大島渚のような撮影所出身だけでなく、ドキュメンタリ映画の松本俊夫(1932-)や黒木和雄(1930-2006)、さらには文学の三島由紀夫(1925-1970)、演劇の寺山修司(1935-1983)や唐十郎(1940-)など多士済済で魅力的だったし、アートシアター新宿文化(新宿)のレイトショウで学生映画を扱って大反響になったりしたこともあって、映画作家を志望していた自分も、未来の可能性と希望を大いに感じたものだ。

 そこに岩波映画製作所の土本典昭(1928-2008)や小川紳介(1935-1992)が出て、〝自主製作・自主上映〟で活路を開いた。特に自分は同年代の小川からは大きな刺激を受け、小川がすごいラジカルなドキュメンタリをやってきたんで、それならこっちはシュール・ドキュメンタリをできないかと。
 それで大映の撮影部から飛び出して、処女作『無人列島』(1969年)を作った。
 『無人列島』は35ミリで制作費は当時は400万円って答えてたけど、実は切り詰めに切り詰めて300万円なんだよね。ぼくの貯めてた50万円に、親父から100万円借りて、さらにスタッフの奥さんが15万円貸してくれて。いざやってみたら、それだけの元手で300万円の作品が出来上がるのがわかったけど(笑)

無人列島場面1 そこで『無人列島』だけど、ぼく自身の戦中戦後の体験と国家の歴史をぶつけ合って、弁証法によるアウフヘーベン(いろんな概念を組み合わせて新しい概念を組み立てていくこと)を引きだす映像を狙った。
 象徴といえば象徴で、その象徴に象徴を重ねてゆくと象徴ではなく〝オブジェ〟になる。主人公の「日出国」はぼくの象徴だが、そこにクラスのガキ大将のヒデオに重ねてイメージを作る。彼が学校でよく美人の先生に怒られてたのが印象的だったから(笑)
 尼の世界というのは最初は小学校の先生たちをイメージしたんだが、同時に自分の隣町の教会を見ているうちに尼僧たちのスマイルの奥にいやらしさを感じたりしたから(笑)、「尼僧院」にした。
 さらに「日出国」に日本の戦後史のイメージを重ねると、「尼僧院」は戦勝国が牛耳る国連となり、さらにさまざまな妄想を加えてゆくと象徴性が薄れて、〝オブジェ〟へと変わってゆく。

 ぼくは戦前は軍国少年だった。大人たちみんなから〝聖戦だから負けるわけない、この戦争も絶対に神風が吹いて…〟といったことを幼い頭に叩き込まれて洗脳され、兵隊になろうと思っていた。そしたら国民学校(小学校)3年生の時に終戦になって、8月15日に玉音放送があって、大人たちがコロッと変わっちゃって(笑)。それで仲間でも調子のイイやつはパッと民主主義に切り替えていくんだけど、その民主主義がインチキで結局はずるくて能弁なやつの言うがまま…ぼくはトラウマ状態から立ち直れず誰も何も信用できなくなっちゃった。
 そのぼくなりの復讐として、後に出合った実存主義やシュルレアリスムを武器にした世界で、信用できなくなった「国家」や「組織」に挑もうとしていたのかもしれないな。
 この『無人列島』はぼくの生き様なので〝人の巻〟次の『GOOD BYE』(1971年)がぼくの遥かなる血から地に至る編で〝地の巻〟、そして『王国』(1973年)は時間の神と闘う編で〝天の巻〟となって、合わせて〝微笑う銀河系 三部作〟になる。

無人列島場面2 あの頃は、世の中を変革しなければダメなんだ!という時代だった。映画で言えば、「新しい事をやんなきゃダメなんだ」という時代。こういう映画は今は絶対作れませんよ。今これだけやったら、もう「あいつバカじゃねえか」と言われちゃう(笑)
 それが当時は〝特別〟じゃないんだよ。かなり特別だけど、全くの特別じゃない。今までのモノを全部ひっくり返さないといけないって。
 今と違う。国内では学生がデモやバリケードやって催涙弾を受けてたし、アメリカはベトナム反戦があってウッドストック・フェスティバル(1969年)でヒッピーの時代、フランスはパリの五月革命(1968年)で。そういう時代なんだよ、だから特別じゃなかった。

京都での上映

 『無人列島』の京都上映は、1969年5月9日(金)から13日(火)まで京都の前衛アートグループのモダン・アートソサエティと映画クラブ・シドフの共催の形で行われた。
 当時の記録によると、5日間通算25回の上映で来場者は招待客を含め696人だった。高野悦子もこのうちの一人ということになる。

京都上映告知 金井:東京での試写会の初めは反応がまちまちだったのが、フランス映画社やアテネ・フランセ文化センターを通じて来た外国人にウケてからは雰囲気が一変(笑)。たぶんフランスで五月革命があったばかりで、ラジカルなシーンがおもしろかったんだと思うが、彼らの笑いに日本人まで反応して会場がすごく盛り上がった。
 最初に公開したアートシアター新宿文化のレートショウはまあまあの入り。
 そこで京都だが、当時、シドフ(シ・ドキュメンタリー・フィルム)というグループがあって、上映をバックアップしてくれることになった。そして『無人列島』で助監督・美術の山崎佑次(1942-)が関西出身で、京都の前衛芸術関係者と話を付けて「立体ギャラリー射手座というのがあるから」と。これが射手座のオープンしたばかりの時だったのかもしれないな。そこはスペースが10m四方もなくて、客席が階段のようになってなくてまっ平だった。

 もちろん京都のいろんな大学などでチラシ配ったけど、その山崎が若いけど度胸があるやつで、「金井さん、これやるならね、四条河原町に立って『無人列島』の立て看の前でチラシを配るくらいしないとだめだよ。負けちゃうよ」と言うわけ。ぼくもそんなことやったことなかったから、“おもしろいからやってみよう”と(笑)
 上映時間の間近になると射手座へ行って、頃合いをみて四条河原町へ行ってチラシ配ったり。この繰り返しを上映期間中5日間ずっと続けた。だから、もしかしたらぼくは高野悦子にチラシを手渡したかもしれないな。

 チラシでは裏面で「畸型映画の傀儡師(パワー)たち~この10年間、ぼくたちの内部でまわり続けた幻のカメラは畸型胎児であるというぼくたちの認識を、極限状況へとかり立てるための仮のポーズであった。去る12月、怨念の宿願「無人列島」クランク・インは、それとともに10年間とり続けたポーズをかなぐり捨て、磨き続けた黒光りするマシンガンを発射するための、ぼくたちの契期でもあった。グロテスクな怪奇性と、サド・マゾ・エロチシズムの洪水の中で、熱病の5ヶ月をすごしたこの映画は、ぼくたちを創造にかりたてた幻の10年間と、創造に賭けた5ヶ月の、完全に輪環(エスタブリッシュ)から脱した狂気(アウトサイト)の報告であるとゝもに、その時ぼくたちを襲った熱い夢の記録である。さらには次の極限状況をめざすための一歩であり、畸型映画の傀儡師(パワー)たちの予告編でもある。したがって映画「無人列島」は、悪夢である。狂気である。怨念である。愛と状況をめぐるハード・ボイルドである。鞭の唸りには尼僧の含み微笑が重なり、子宮内の絶叫には背中の胎児が重なり、生まれ出た畸型胎児には振り下された白刃が重なる。大股でぶかっこうに震えながら幾重にも、フツフツと再生される暗黒世界は、母を、子を、凌辱し、尚報われぬ畸型胎児の雄叫びであり、その説明を拒絶した非常な走行のすべてでもある。それらの錯綜したイメージがおびき寄せるマゾヒズムからサディズムへの時の傾斜は、正に世紀末芸術が、ドロドロに溶解したすえ、遂に産みおとす苦痛の60分なのだ」(「無人列島」チラシ(かない・ぷろだくしょん、1969年))と訴えている。
立体ギャラリー射手座無人列島ビラ配り
 京都の観客は学生が多かった。それと映画界の人。シドフは京都にある大映、東映、松竹の撮影所の人たちが中心になって作ってたんで。黒沢明『羅生門』(1950年)や市川崑『東京オリンピック』(1965年)などを手掛けた日本で一番の撮影監督・宮川一夫(1908-1999)、また座頭市シリーズ(1962年~)や『巨人・大隈重信』(1963年)の監督・三隅研次(1921-1975)も上映に来ていただき、もう感謝いっぱいだったな。

 それで射手座での上映最終回は後にトークもあって超満員。トークは結構にぎやかだった。しゃべりは自信がなかったけど開き直った。
 学生運動の連中が来ていて、これが生意気なんだよ。イチャモンつければいいと思って(笑)、そういう時代だよね。こっちは「こんなのお前なんかにわかってたまるか」なんてね(笑)。すると中には「これはわかりすぎちゃって」なんて言うやついたりして(笑)、「てめえ、バカヤロー」って(笑)

京大西部講堂 そのあと5月24日(土)・25日(日)が京大バリ祭(バリケード祭)での上映会。
 バリ祭では京大生が上映のために一生懸命やってくれた。夜にチラシを貼りに行ったら警察に捕まって。あわてたよ(笑)。あの当時は東京じゃ電柱にビラ貼るなんて当たり前だからね。交番に連れて行かれて、ぼくは指紋取られたけど、「コイツらは関係ない、今に偉くなる人だからお前ら手を出すな!」って警官をにらみつけたりして(笑)
 京大もまあ結構入った。その時、京大で機動隊の催涙弾が飛んでたからね(笑)。でも道(東大路通)の西が西部講堂で、東が校舎で。上映会をやってた西部講堂は対象にならなかったんで助かった(笑)

立体ギャラリー射手座
京大に機動隊

高野悦子について

 金井勝監督は当時の上映資料ファイルを保存している。そこには新聞・雑誌などの批評記事とともに高野悦子『二十歳の原点』(単行本)の1969年5月12日付部分の切り抜きが残されている。『無人列島』に関する記述の一節には傍線が引かれていた。

無人列島場面3 金井:『王国』製作時に助手の比田義敬が「きょうは悦ちゃんの命日だよね」って言ったわけ。「誰だい悦ちゃんって?」聞いたら、「知らないですか!?、『二十歳の原点』の」と言われて。「それならその本見せてくれ」って、読んだのが初めて。
 今はもちろん『二十歳の原点』買って持ってるからね。読んでみて、高野悦子で映画のことはぼくだけだったんで、ぼくの名前じゃなくて作品名で。

 高野悦子はすごい眼力、審美眼があったんじゃないかと思う。だって京都の街角で自分でチラシ配りをしていた男の作品が、翌年にはスイス・ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭グランプリ(1970年)を受け、発表から40年以上たった今でも世界の名門大学とか超一流の美術館とか国際映画祭などでも回顧展をやってくれてる。彼女は、あの作品の力を見抜いていたんだから。自分で言うのも変だけど(笑)

 ぼくの映画はわかりすぎなんてことはありえないし、かつまた、わかんないこともないと思う。なんとなく日本の戦後史のにおいがするな、作者のにおいがするな、と。象徴を象徴と重ねていくとオブジェになるというのが当時のぼくの哲学であり、芸術論だったんだけど、彼女の批評はまさにそういうことなんだ。オブジェの中から自分のいる現在を彼女なりにつかまえてくれた。
 正解とか何とかじゃなくて、観客一人一人が自分の思想や関心事、取り巻く状況に合わせて感じたり考えてくれれば、それが一番なんだ。だから彼女みたいなわかり方が作者としてはありがたいんだ。自分の状況において「私はこの映画をこう見た」というね。
 『無人列島』で「国家」や「組織」に挑もうとしたと前に言ったけど、彼女もね、どっかでね、組織とか、闘いとか、そういう共通性で書いているのではないかと思っている。
 『二十歳の原点』を読むと、高野悦子は命懸けで見ていたって感じるんだよ。彼女はそのころ自分が追い込まれてるから。彼氏のこととか、闘争のこととか、その両方とかに。

 ぼくもあの時に彼女と会っておきたかったよな。でも映画は所詮、映画でしかないのかなあ。彼女の死を止めることができなかったのは無念だな。
 (本項全体について那田尚史「日本映画の六〇年代と金井勝」『映像表現のオルタナティヴ─一九六〇年代の逸脱と創造』(森話社、2005年)参考)
 ※登場する人名の敬称は略した。

 金井勝監督からは当時の前衛映画の状況について詳しくご教示をいただいたが、一般向けという本ホームページの性格上、ポイントに絞らざるをえなかった。金井監督自身のサイトを参考にしてほしい。

 2013年4月11日に行ったインタビューを元に構成した。

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