1969年度の賃金交渉をめぐる春闘で、会社側は1969年5月7日(水)、第四次回答としてベアと住宅手当込みの6,600円を出した。
これを拒否した京都国際ホテル労働組合は事実上の最終戦術として1969年5月11日(日)午前6時から全面24時間ストライキに突入した。午後2時にストライキは団体交渉のために中断したが、団体交渉は会社側の〝ロックアウト発言〟をめぐって対立が深まるなど決裂。午後7時から組合は中断していたストライキに再突入した。
このストライキは翌1969年5月12日(月)朝に解除された。京都国際ホテル労働組合はこの年の春闘で部分ストも含め計8回のストライキを行ったことになるが、労使の賃金交渉は終結しなかった。「京都におけるホテル労連の橋頭堡として、65年に全面スト、69年および71年には8波ストというするどい春闘をくりかえし」(加藤尚文「ホテルとはなにか」『ホテル』(三一書房、1972年))たと記録されている。
その後、藤田観光本社が収拾に乗り出し、藤田観光のルーツにあたる同和鉱業(現・DOWAホールディングス)ルートで、同和鉱業労働組合出身者が幹部を務めていた総評=日本労働組合総評議会(現・連合=日本労働組合総連合会)が事実上のあっせん役になった。
京都国際ホテル労働組合は、当時は総評系でなかったホテル労連=全日本ホテル労働組合連合会(現・サービス連合=サービス・ツーリズム産業労働組合連合会)に属していたが、総評側からの打診を受け入れ、組合幹部が上京して東京で藤田観光社長との面会や会社側との団体交渉を行った。結局、5月30日(金)に会社側が第五次回答として出したベアと住宅手当込みの6,800円で決着した。
☞1969年4月18日「昨日のストライキ中に働いていたものは」
☞2階平面図
☞従業員食堂
小山田君は、京都国際ホテルの従業員(機械担当)。後に京都国際ホテル労働組合で書記長も務めた。
☞1969年5月3日「京都国際ホテルに職場反戦があるのを告げた」
☞1969年5月26日「小山田さんと飲みにゆく」
☞飲みにいった・小山田さん「逆鉾で大将が」
プレインは、京都市上京区西洞院通椹木町下ル夷川町の都文化ビルディング2階にあった喫茶店。
建物は現存せず、新しいビルになっている。喫茶店を営業していた女性は「かつて若い姉妹でやっていた店を1978年に店名をそのままで引き継いだ」と話している。
地区反戦(または地域反戦)は、反戦青年委員会のうち、各地域による組織である。京都国際ホテルでは職場の男女約10人が職場反戦の「京都国際反戦」を組織し、地区の「洛西地区反戦」と一緒に行動する形を採っていた。
プレインを出てから、小山田君と近くでラーメンを食べて別れた後、恒心館に行った。
畠山さんと前川さんは文学部学生で文闘委にいたとみられる。
☞清心館
行った可能性がある病院として、京都市中京区七本松通丸太町下ル西ノ京車坂町の丸太町病院(現・洛和会丸太町病院)が挙げられる。
当時は開院して間もない時期で、白いビルが周辺から目立っていた。
洛和会丸太町病院は2014年に京都市中京区七本松通丸太町上ル聚楽廻松下町へ移転し、跡地は駐車場になっている。
『無人列島』(1969年)は、金井勝(1936-)監督の日本映画。白黒、48分。
独立系プロダクションのかない・ぷろだくしょん(現・かない勝丸プロダクション)製作・配給で、1969年4月25日(金)に封切りされた。
いわゆる前衛映画にあたる。東京で劇場公開された後、自主上映が行われた。
京都では1969年5月9日(金)から13日(火)まで立体ギャラリー射手座で有料試写会が開かれた。高野悦子は1969年5月12日(月)に鑑賞した。
☞『無人列島』・金井勝監督が語る
立体ギャラリー射手座は、京都市中京区三条通木屋町東入ル中島町のフジタビル地下にあった前衛芸術のギャラリーである。
1969年に開廊、前衛映画の上映や前衛的なライブパフォーマンスなどを行っていた。2011年に閉廊した。
現在は喫茶店になっている。
「ろくよう」は、那須文学社版の記述では「六曜社」。上の地図通り、立体ギャラリー射手座から近くである。
☞六曜社
吉郎君の詩は、『石原吉郎詩集』のことである。
☞1969年5月7日「定価一〇〇〇円也の彼の詩集を)」
河原町通、御池通、油小路通を経由とみられる。