☞1969年6月2日「中村とのリレーション。四・二七、五・一三、五・一九」
☞恒心館
「立命館大学の反日共系全学共闘会議学生の乱闘事件を捜査中の京都府警警備部は20日午前7時、機動隊約400人を動員、全共闘学生がバリケード封鎖中の京都市上京区河原町通荒神口上ル、立命館大学恒心館に立ち入り、全館を放火、暴力行為などの容疑で捜索、さる2月26日の封鎖以来86日ぶりに解除、火炎びん171本、鉄パイプ223本、灯油13かんなど数百点を押収」
「館内には反日共系の全共闘男女学生172人が〝ろう城〟していたが抵抗なく退去、午前10時捜索を終わった」(『京都新聞昭和44年5月20日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))。
「恒心館の捜査は午前7時すぎに始まった。機動隊員は正面入り口、北門、南側窓の三カ所に分かれ、机やイスを太い針金でしばり上げたバリケードをエンジンカッターなどを使ってつぎつぎ排除、5階建ての同館へはいった。
正面入り口のバリケードは、2-4階の教室から取りはずした机で三重にも積み上げられており排除に手こずった。
同館には全共闘派学生約200人がたてこもっていたが、紺のヘルメットと出動服に身を固めた機動隊の大きな隊列に圧倒され、ヘルメットや鉄パイプを投げすて無抵抗で裏庭に集合させられた。北門横の金網が切り開かれると学生らはわびしくインターを歌いながらひとりひとりうつむき足早に立ち去った。
学生らが立ち去ったあと館内の捜索が本格的にはじまった。
1階には産業社会学部事務室や食堂などがあるが、食堂は学生が昨夜まで利用したと思われ、パンの食べくず、食器、ジュースのあきビンなどが散乱。その南側ロビーにはヘルメット約百数十個がころがり、ケース入りのあきビンが山と積まれていた」
「2階から4階までは18教室あるが全教室とも机、イスはおろか、黒板や教壇もまったくなく、がらんどうの部屋がならぶ。天井のけい光灯のガラス破片が床にちらばり、まったくの廃墟。
2階正面バルコニーにはこぶし大の石でうずまっていた。
3階のトイレの物置用タナの鉄パイプは一本残らずひき抜かれ、各セクトの〝城〟に束にして積まれていた。
さらに5階は教授の研究室がならんでいるが書物入れのロッカーはじめ机、イスは廊下などに放り出され、もぬけのカラ。仕切りの壁も各部屋の区切りがつかぬほどつき破られ「研究室」のあとかたはみじんもない。全共闘の旗がひるがえっていた屋上のヒサシには石やイスが積まれまさに全共闘のトリデといった感じ」(「まるで革命への軍事基地─立命大恒心館、3ヵ月ぶり封鎖解除」『夕刊京都昭和44年5月20日』(夕刊京都新聞社、1969年))だった。
大学側は恒心館を封鎖解除とともに閉鎖した。
この日の動きを時系列に整理する。
07:40 恒心館を出された全共闘の学生は広小路キャンパスに入り、「機動隊帰れ」「武藤(総長事務取扱)をたおせ」とシュプレヒコール、キャンパスでジグザグデモをくり返した。
08:15 全共闘学生約190人が、わだつみ像前で、「機動隊導入弾劾」集会を開いた。
この時、一部の学生が銅像にかけあがり、足元から倒した。
08:30 全共闘の学生は他大学からの支援・動員も含め約300人になり、全学バリケード封鎖を開始した。
清心館や存心館などの机やイスを持ち出し、正門、西門、清心館などにバリケードを作り、学内デモをくり返した。また学友会派(民青系)が立てこもる研心館に投石をした。
09:00 正門バリケード前で集会を行っている時、三々五々登校してきた学生が正門前、キャンパス内を埋めつくした(一般学生は正門を自由に出入りできた)。全共闘派は正門のバリケードをはさんで機動隊、民青系とにらみ合う形になった。
一方、西門バリケードの外に民青系の学生が封鎖解除を叫んで集まってきたため、全共闘の学生との間でにらみ合いが続いた。
10:00 民青系の学生が西門バリケードを破って入り、正門バリケード前で集会をしていた全共闘と投石などになったが、民青系は西門から追い出され、全共闘は再びバリケードを築いた。
11:00 その後も西門では小ぜり合いが続いた。興学館(図書館)屋上、研心館から、立てこもっていた学友会の学生が放水・投石を行い、全共闘も投石で応酬した。
研心館から黄ヘルメットにグリーンの鉄パイプを持った〝民青行動隊〟約150人が出動したが、全共闘もこれに応戦、行動隊は研心館に戻り、全共闘とマイク合戦になった。
11:30 さらに全共闘は研心館を突破しようとした。研心館内にいた学友会派学生も投石・放水で応戦した。大学側はマイク放送で、「全共闘の学生諸君はすぐ学外に退去せよ」と呼びかけたが、これに対して全共闘側は投石するなど騒然となった。
12:03 京都府警警備部は大学当局のマイク警告をもとに警職法第5条(犯罪の予防および制止行為)にもとづき機動隊300人を広小路キャンパスに立ち入らせた。
機動隊は西門から入り、学生と小ぜり合いとなり、全共闘学生など9人が不退去容疑で逮捕された。
12:30 機動隊は約25分で全員引き揚げたが、学生約3,000人がキャンパス内外をうずめる状況になっていた。
全共闘学生約200人は再びキャンパスに入って、正門、西門にバリケードを作り直した。その後も研心館に立てこもる民青系学生との投石合戦が続いたため、機動隊300人が突入、キャンパスにいた学生約500人を排除した。
14:30 全共闘は再び広小路キャンパスに戻り正門バリケード前で集会を続けていたが、学友会派による興学館(図書館)からの投石が多くなり、一般学生がうずめたキャンパス周辺は騒然となった。
大学側はこの日2回目のマイク放送で、機動隊の一方的学内立入りに抗議するとともに、学内立入りを招いたとして全共闘学生を批判した。研心館屋上や各階窓から投石していた学生の動きが静まった。
14:45 研心館地階の扉が開き、「オー」というかけ声とともに、中に立てこもっていた学友会派が、他大学からの支援・動員で待機していた学生を含めた黄ヘルメットに角材で〝武装〟した約500人で、一気に実力排除に乗り出した。
学友会派はわずか数分の間でキャンパスを占拠し、中にいた学生はほとんど学外に出された。全共闘は正門前の広小路通から河原町通へ逃げ、学友会派は中川会館(閉鎖中)まで前進した。
15:00 学外に学生が出された中で、広小路通・河原町通をはさんで、キャンパス内の学友会派系学生と広小路交差点(京都府立医科大学正門前)の全共闘学生との間で激しい投石合戦がくり返された。
全共闘学生はキャンパスに入ろうとしたが、投石を受けるなどして断念した。
15:30 広小路交差点周辺を学生など約3,000人がうずめる事態になり、河原町通は交通が完全ストップ、一時は市電、市バスが河原町今出川から四条河原町まで数珠つなぎになり、機動隊が再び出動して学生を実力排除した。
全共闘学生は、投石よけにした盾や角材、鉄パイプ、石を押収された。
16:00 全共闘は京都府立医科大学キャンパスに逃げ込む形になり、同構内で集会を開いた後、いったん解散したが、多くは隊列を組んで京都大学教養部へ向った。
19:00 全共闘は、バリケード内の京大教養部構内で総括集会を開き、会場には約170人が集まった。
総括集会では、各学部闘争委からこれまでの立命館大学闘争および同日の闘争の総括がなされ、全共闘の強化と民青を粉砕、全学封鎖に向って闘いを続けることで一致。具体的には翌日に京都府立医科大学前で集会を開くことを確認した。
文学部闘争委からは「各学部闘争委、文闘委の結合と全共闘の組織強化をかちとろう」と決意表明がなされ、また法学部闘争委は「拠点がなくとも、日大全共闘のように組織的活動を行わねばならない」と述べた。
この日をもって、立命館大学全共闘は学内における主な拠点を失い、以降は京都大学教養部(京大Cバリ)に間借りする形となった。
※1969年1月17日の項の「おことわり」参考
5月21日(水)午前、広小路キャンパスは「一応平静に戻り、授業も教室変更やカリキュラム組み替えなどでやりくり、平常通り行なわれた」「構内は前日の紛争を目の当たりに見た学生や、新聞などの報道で知った学生が、授業のあるなしにかかわらず続々登校、平常より学生数は多いくらい」(「やりくり授業─広小路学舎、一応平静に」『京都新聞昭和44年5月21日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))になった。
こうした中、午後0時30分から学友会(民青系)主催の機動隊導入に対する緊急全立命抗議集会が開かれた。
一方、立命館大学全共闘の学生400人は京都府立医科大学キャンパスで集会を開き、広小路キャンパス奪還、全学バリケード封鎖を確認した。
さらにデモ隊列を組み河原町広小路交差点から広小路キャンパス正門付近まで進み、キャンパスに入ったところで、追い出そうとする学友会派と対立し、騒然となった。
全共闘は正門で座って集会を開き、再びキャンパスに入った。
そして午後1時から「帰れ、帰れ」のシュプレヒコールの中で、存心館時計台前で機動隊導入と大学側、学友会を批判する抗議集会を開いた。
集会の後、学内デモから、恒心館前で総括集会を開き、京大へ向った(「官憲導入を糾弾、抗議集会に400人」『立命館学園新聞昭和44年5月21日』(立命館大学新聞社、1969年)、「立命館に再度機動隊乱入、恒心館の封鎖を解除」『京都大学新聞昭和44年5月26日』(京都大学新聞社、1969年)参考)。
☞1969年5月27日「五・二一の弾劾集会のときに足でけられた衝撃」
この日の全共闘の集会は「5・23京大全バリ闘争連帯!」も掲げられていた。