京都:晴・最高25.3℃最低16.0℃。午後から快晴になった。
立命館大全共闘は、5月20日に恒心館を出され学内における主な拠点を失い、京都大学教養部(京大Cバリ)に間借りする形になった。それ以降、民青系の力の及ぶ広小路キャンパスに事実上近づけず、新入生などへの組織化活動が難しくなるなど運動の後退が続いていた。この日の集会は、その状況を変えるきっかけとするために開かれた。
集会では、各大学全共闘からの闘争への連帯アピールが行われた後、立命館大学全共闘からの基調報告、各闘争委からの報告、それに立命館大学前講師・師岡祐行の講演があった。その後、これまでの反省をふまえて、全共闘の再強化および立命館大学体制の解体に向けた再進撃を内容とする宣言を、参加した学生全員の拍手で承認。午後5時に終わった。
法経第一教室は京都大学創立百周年記念事業で取り壊され、現在は百周年記念ホールになっている。
約300人がデモに移り、デモ隊は、機動隊の規制を途中受けながら、広小路キャンパスまで着いた。しかし、機動隊が校門前に配置したため、デモ隊は構内に入れず、いったん梨木神社に集まった。そして機動隊が去ってから広小路キャンパスに入り、存心館時計台前で学内デモと総括集会を行った後、再び京大に向った。
☞梨木神社
亀井さんは、立命館大学全共闘の日本史闘争委で有力メンバーの4年生である。
☞集会後話した文闘委・亀井さん「急に訪ねてきた彼女」
☞京都大学教養部(京大Cバリ)
京都国際ホテルでは当時、夏季に屋上東側にビヤガーデンを開設していた。1階から屋上(11階)まで11秒、22人乗りのエレベーターは開業当時、東洋一を誇った。
地上43mで周辺に高い建物がない眺望の良さが売りで、幅広い客層をターゲットとしていた。開業当初のパンフレットは「素晴しい夜景と7色の噴水を見ながら…」「ダイヤモンドの夜!ビールで乾杯!地上10階、空中の楽園、雨の京都もワンダフル、いつでもお越し下さい」と書かれている。
ホテル屋上のビヤガーデンは当時、下図のようになっていた。客は二条通側の直通エレベーターで屋上に着いた。ビヤガーデンのアルバイトは、地下1階などから従業員エレベーターで屋上に上がって、カウンターやレジがあった場所付近に待機し、ビールや料理を運ぶ動線になっていた。
1969年は6月7日(土)にオープンした。関西では比較的少なかったサッポロビールだった。
ビヤガーデン営業時間は17:30~21:30、ただし土曜日は17:00~22:00だった。6月14日は土曜日なので、バイトの就業時間は開店30分前の午後4時30分から閉店30分後の午後10時30分までになったと考えられる。
☞京都国際ホテル
☞中村
京都:晴・最低13.3℃最高29.6℃。朝から快晴だった。
1960年6月15日、1960年安保闘争のデモをしていた全学連主流派が衆議院南通用門に押しかけ、警官隊が阻止しようと放水で応戦したが、約1,000人の学生が国会構内へ突入、その際、東大女子学生の樺美智子(22)が死亡した。同時に多数の負傷者が出て、戦後の学生運動の最大の事件となった。
ここでは6月15日の高野悦子と御堂筋デモについて、日記に記述がない動きを追う。
全大阪反戦青年委員会、京都反戦青年委員会、関西べ平連、関西の各大学全共闘など共催の「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15関西総決起集会」が午後0時10分から大阪市東区馬場町(現・中央区大阪城)の大手前公園(現・大阪城公園大手前芝生広場)で開かれた。
関西各地の反戦青年委員会の労働者や各大学全共闘の学生、べ平連ら約6,000人が参加、学生では京大、同志社大の全共闘や大阪大全闘委の多数が目立った。
一方で立命館大は参加者が全共闘の下で一つになれず、ベ平連や各セクト別のグループに流れる状況になった。
集会では、60年安保で死亡した樺美智子に黙とうが行われたあと、労働者の代表や各大学全共闘の代表が決意表明を行って、約2時間で終わり、デモ行進に出発した。
☞1969年6月16日「べ平連など市民運動の多様性」
午後2時30分、反戦青年委員会を先頭に各大学が続く形で出発。大手前公園─馬場町─(本町通)─本町四丁目(現・本町三丁目)─(御堂筋)─大阪府立体育会館前のルートでデモ行進した。
デモには最初から大阪府警察本部機動隊による並進規制(サンドイッチ規制)が行われたが、デモ隊は本町通の各交差点でジグザグデモを行った。
本町四丁目(現・本町三丁目)交差点から御堂筋に入ったが、機動隊の規制を受ける形で、西側緩行車線を南下しながら、途中、交差点でジグザグデモをくり返すにとどまった。そして大阪府立体育会館前で各反戦委員会や大学ごとに総括集会が行われた。
午後5時ごろ、学生の後方に続いていた関西各地のベ平連などのデモ隊が難波・髙島屋横でフランスデモに入ったところで機動隊が規制に入った。
このため総括集会を終えた各大学がベ平連のデモ隊と合流しようとしたが、機動隊に分断されたため、投石を行い、けが人が出て、20人以上が逮捕された。
このころから髙島屋前では機動隊を取り巻く形で多くの群衆が集まり、数か所で「帰れ!帰れ!」という抗議のシュプレヒコールが起きた。その後も学生を中心に散発的な抗議行動が行われた(『朝日新聞(大阪本社)1969年6月16日』(朝日新聞社、1969年)、『京都大学新聞昭和44年6月16日』(京都大学新聞社、1969年)「6・15統一行動─70年闘争へ一大飛躍点」『立命館学園新聞昭和44年6月16日』(立命館大学新聞社、1969年)参考)。
☞四・二八御堂筋デモ
「歌を忘れたカナリヤ」は、西條八十作詞、成田為三作曲の童謡の題名。高野悦子が小学生当時、音楽教科書に掲載されていた曲の一つである。歌詞に「歌を忘れたカナリヤはぞうげ(象牙)の舟に銀のかい(櫂)、月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す」というフレーズがある。
☞1969年5月13日「私のAgitationより」
カンパニア闘争とは、当時の学生運動の用語で、実力行動を伴わずに広く市民(大衆)を動員する形の運動をいう。全国各地で行われた六・一五の集会・デモについては、学生運動の側からは“反安保のカンパニア闘争”と位置付けられ、ゲバ棒(角材)などはなかった。
その立命館大学では「5月20日の機動隊の強制捜査・導入は、全共闘の学内での政治的「拠点」を失わせたし、それが結局は動員力の低下、学園クラス大衆からの遊離等々を招いた」(「解説」『立命館学園新聞昭和44年6月16日』(立命館大学新聞社、1969年))一方で、前日の集会では、京大、同志社大の全共闘の多数が目立った一方で、立命館大は参加者が全共闘の下で一つになれず、ベ平連や各セクト別のグループに流れる状況になった。
また集会では、「演壇の正面は反代々木系学生の各セクトのヘルメットで埋められた、激しいアジ演説、各セクトごとのジグザグ行進がうずまき、開会前から騒然としたふん囲気。この一団から離れて、公園の片すみに集ったベ平連の若者たちは、一様にヘルメットもつけず、旗とプラカードだけ。「ベトナム反戦」「沖縄をかえせ」─。その主張は他の団体と変らないが、そこに〝組織〟は感じられなかった」(「ベ平連、前面に出る─整然とフォーク合唱」『朝日新聞(大阪本社)1969年6月16日』(朝日新聞社、1969年))。
「今年1月からの立命館闘争は、5月20日の機動隊導入(恒心館封鎖解除)以降、まったくの新たな段階に入ったといえる。それは」「全共闘運動にかかわったほとんどすべての学生に見られるやるかたない無気力、脱力感である」
「立命における「反大学」は全国レベル(上)からという性質をもたざるを得ず、学生総体の意識とのズレは、決定的になる」(「立命闘争、運動論への一視点」『立命館学園新聞昭和44年6月23日』(立命館大学新聞社、1969年))。
ベ平連は、ベトナム戦争反対を柱とする平和運動を展開していた市民団体「ベトナムに平和を!市民連合」の略称である。代表は作家の小田実(1932-2007)。
☞1969年1月5日「小田実」
☞1969年3月8日「小田実「現代史Ⅰ」を読んでいます」
六・一五の東京・日比谷野外音楽堂における統一集会の主催者代表は小田実であり、大阪でも「〝アンポ粉砕〟を叫んで御堂筋を埋めたデモ隊の半分は、ヘルメットもかぶらずゲバ棒も持たず、整然と行進する多彩な若ものの大群だった─。京阪神の各地から集まった地域ベ平連、大学ベ平連は全部で30グループ、3,500人にのぼった。
反代々木系学生と一線を画し、プラカードをかかげ、フォークソングをうたいながらつづく若者は、ミニスカートから作業服まで、服装もまちまちなら、プラカードの文句も思い思い。〝ひとり、ひとりの参加〟がふくれ上ってできたこの集団は安保闘争の新しい勢力として前面に出てきたことをはっきりみせつけた」(「ベ平連、前面に出る─整然とフォーク合唱」『朝日新聞(大阪本社)1969年6月16日』(朝日新聞社、1969年))。
「ベ平連の力が注目される」(『京都大学新聞昭和44年6月16日』(京都大学新聞社、1969年))、「中心となったのは決して学生だけの密集した左翼集団ではなかった。べ平連を始めとする市民組織のこのしばらくの間の体質の変容ぶりには驚かされる」「現実を確実に把え、且つそれに呼応し、真の闘争の主体を担うものとして登場する傾向にある事は見逃せない」(「週刊時評─6・15の意味」『立命館学園新聞昭和44年6月23日』(立命館大学新聞社、1969年))とされた。