ここで登場するまゆみさんこと(旧姓)Kさんに会って話を聞いた。Kさんは、宇都宮女子高校の同級生で、同学年での生徒会長を務めている。まゆみさんは仮名だが、実際に下の名前で〇〇〇さん、上級生などからは〇〇〇ちゃんと呼ばれていた。
K:この「まゆみさん」というのが私なんです。生徒会長に立候補した「まゆみさん」と名前が入ってるから、私のことを指しているとわかりました。とても褒めてくれてるんです。
カッコとは高2の時に同じ2年5組で、席が隣になったこともあります。1年生の時にはバスケット部も同じだったし、親しかったんです。
これって、カッコが自分と反対のことを言ってるんじゃないかと思っちゃたんです。私は周囲からはそういうふうに見えてたかもしれないですよ。でもね、私も、この当選した日の夜は眠れなかったです。
実はこの時の生徒会長選挙は、立会演説こそあったんですが、対立候補が誰もいませんでした。宇女高90周年という一大イベントが目前に迫っていて、全国の女子高で90周年を迎えるのは宇女高だけでした。先生方に「天下の宇女高がやるんだから、超一大イベントでなければまずい。それをしよって立つ生徒会なんだから」って前もって言われて重い責任を持たされたら、誰も立候補する人なんていないじゃないですか。私だって嫌です。ましてや高校2年の後半で大学受験が目の前になってきているのに、こんなの自分から受けるなんていう人はいなかったんですよ。それが私に白羽の矢が立って、責任の重さに大変悩みました。
創立90周年記念の式典には、いろんな世代の卒業生の方がやって来られて、1000人以上のお客様で体育館には入りきれないので、校庭で開いたんです。そのものすごい数の前であいさつ文を長々と読むわけです。その中身だって、国語の先生にしつこく何回も文章を直されて書いて、〝決意〟を述べなければいけません。そういう役だったんですよ。だからもう、この期の生徒会長は非常に重要だったんです。
生徒会室に入り浸りで…、私にとっては、まあ生徒会室は〝逃げ場〟だったようなところもありましたけど。
生徒会役員は任期が半年で、まゆみさんは2年生前期に会計監査、2年生後期に生徒会長、3年生前期に議長団メンバーを歴任した。
☞栃木県立宇都宮女子高等学校
K:私は1年生の後半からバスケット部にいて〝頼まれマネージャー〟をやってんです。生徒会もやってましたから、運動部に没頭できる状態じゃありませんでした。先生の代わりに代表者会議などに出て抽選をしてくるとか、先生から毎日の練習メニューを聞いて、ホイッスルをピィピィと吹いて「はい始まるよ」「フットワーク何分ね」「パスがあって」とか。マネージャーとして、バスケット部時代がカッコと重なっていました。
☞岩山カラー写真ポイント
カッコはものすごく「やる気」があった人でした。
体育館での練習でフットワークをやると、自分の経験でも疲れるを知ってますから、だれもが疲れない方法を取るのはわかってるんです。でも彼女は自分の極限まで追い詰めてました。その姿がフットワークや体力づくりで現れていました。
たとえば筋力を鍛えるための運動をする時も、手を前に出してギュウギュウとものすごい力を入れて握りしめて、中腰もぐっと低くなるまでしていました。ある程度でごまかしちゃう人がいるのに、彼女は50回とも絶対にサボらないで極限までしていました。ドリブルやパスの場面でも、あの小さな体でバスケットの重い7号球を扱って、しかも「メディシンボール」という重りの入ったボールを手首だけでスナップを効かせて投げたりもするんで、かなり体を疲れさせていたことと思います。木造の体育館の床を雑巾がけする姿も真面目。真面目過ぎるほど真面目。
マネージャーの立場から見ていて、“ああ彼女はすごいなあ”って感動したものです。彼女との最初の出会いのころですが、今思い出すとその印象が強く残っています。
当時の高校女子バスケットボールでは男子と同じ7号球が使われていた。現在の規格では一回り小さい6号球になっている。
☞宇女高バスケット部同級生「一生懸命なカッコ」
K:私がカッコに尾瀬に行こうって誘いにいきました。3年生の時はクラスが違いましたが、私はあっちこっち顔を出してました。他の同級生にも「進学組だけどいいじゃん、行こう行こう」という…、「大学受験ばっかり追われてないで、夏休みは少し心開いて元気に行ってこようよ!」といった感じで誘ったと思います。
尾瀬は生徒会も関係があったので、私も生徒会の一員として、バスが埋まらないと一人分の負担が高くなることもあるし、〝みんな行って!行って!〟って。
宇女高では毎年7月下旬に「夏山キャンプ」と称して希望する生徒で尾瀬へ行っていた。この年は生徒約40人が参加した。
高校3年の時のまゆみさんは6組で、高野悦子は7組だった。
赤津先生は大町雅美のことである。
前年の1965年10月に栃木県日光市と群馬県片品村を結ぶ有料道路の金精道路(現・国道120号金精トンネル)が開通し、宇都宮から尾瀬へのアクセスが改善していた。
鳩待峠は群馬県片品村戸倉にある峠で尾瀬入山者の過半数が利用する最もポピュラーな入り口になっている。ここで高野悦子はまゆみさんらとグループ写真を撮っている。
撮影場所は鳩待峠から至仏山などに直接向かう登山口の前で、背景の標識には「日光国立公園・尾瀬、鳩待峠・標高1615米」と表示されている。現在、鳩待峠の標高は1,591mになっている。
鳩待峠休憩所の前に一般の駐車場があったため、マイカーとみられる車両の一部も写っている。
尾瀬は2007年に日光国立公園から分割され、会津駒ヶ岳、田代山、帝釈山など周辺地域を編入する形で尾瀬国立公園として新設されている。
1974年にマイカー規制が導入され、現在は夏のピーク時に鳩待峠へマイカーの乗り入れはできなくなっている。
1泊目は山ノ鼻で、そこに大きな荷物を置いて、至仏山に登って降りてきました。天候が良かったし、至仏山は比較的楽で、全員行きました。
ここで宿泊したのは尾瀬ヶ原の西端にある群馬県片品村・山ノ鼻地区の山小屋、山の鼻小屋である。1950年代に尾瀬を訪れた皇族が利用したこともある。1973年に現在の建物に建て替えられている。
この地区にある尾瀬山の鼻ビジターセンターは群馬県尾瀬管理保護センターとして1967年に群馬県が設置し、1993年に改築してビジターセンターになった。
至仏山は群馬県水上町(現・みなかみ町)と片品村の境界にある標高2,228.9m(現・2,228.0m)の山。山ノ鼻から至仏山の山頂まで標準所要時間が上り2時間半・下り2時間の往復計4時間半だった。
至仏山頂で高野悦子を含む一行は記念撮影をしている。
木製の標識には「至佛山頂・2228.9M」などと書かれている。雲に覆われて景色は見えない。
山頂にあった木製の標識は現存しない。また現在は植生保護と安全のため山頂から山ノ鼻へ下るルートが禁止されている。
まゆみさんのアルバムでは至仏山中腹から撮影した尾瀬ヶ原の写真がハイライトになっている。
ポイント以外のスナップ写真の具体的な撮影場所もおおむね判明しており、追って加筆することにしたい。
それから尾瀬ヶ原をグループに分かれて歩きました。私なんか三条ノ滝あたりまで行きました。かなり遠くまで、もうあっちやらこっちやらぐるぐる回りながら、結構歩きましたね。
そして長蔵小屋という辺りに泊まって、次の日、最終日に燧ケ岳に登るんです。至仏山と燧ケ岳の両方を〝女の子〟なのにみんなよくまあ…。ただ燧ケ岳はちょっと厳しい山で、1年生は無理だということで2、3年生だけで登りました。岩場があって、もう両手で…。自分が登ることに精一杯で大変だった思い出があります。
宿泊したのは福島県桧枝岐村・尾瀬沼畔地区の山小屋、元長蔵小屋である。元長蔵小屋は、ほぼ原形をとどめて現存する。
元長蔵小屋は現在、人数の多い団体の場合や、尾瀬沼付近で宿泊客が多く既存の山小屋で収容できない時に限って利用されているという 。
帰りは群馬県片品村の大清水からバスで宇都宮に戻った。
尾瀬の入山者数は1996年の64万7,500人をピークに減少傾向にあり、2016年は29万1,860人と半分以下になっている。ミズバショウやニッコウキスゲ、紅葉の時期の週末に集中する状況は変わっていない。
一方で近年はシカの食害が大きな問題となっている。1990 年代半ばにシカの生息が確認されて以来、ニッコウキスゲ、ミツガシワなどの湿原の植物や、森林内の植物への被害が見られるようになった。
彼女は尾瀬に行った感想を日記に書いてないですね。日記では苦しいことばかりですが、みんな女の子で、いろんな曲を大きな声で歌いながら歩きましたし。実際には楽しい青春があったんですよ。
カッコが自殺したのを聞いた時はびっくりしました。そんなことするなんて思いもしなかったからです。
美人でしたし、いつもニコニコして明るくしていました。でも心の内面は出していなかったのかもしれません。日記を書いてたなんて知りませんでした。そんなことを学校じゃ素振りも見せなかったですから。
『二十歳の原点ノート』を読むと、彼女は特に高校2年生の中ごろから、〝自分はどう生きたらいいか〟と、ずっと自分自身に対して問いかけていますよね。そして目標を達成するために計画を立てるけど、それを実行できなくて、とても思い悩んでいますよね。その悩みを日記のノートにどんどんぶちまけてね。
誰だって〝他人向けの顔〟を作りますよ。だけどもうちょっと本音を出しても良かったのかなあと、甘ったれても良かったかなあと思ってしまうんです。
K:カッコは家庭環境に恵まれすぎたのかもしれません。姉妹2人を下宿させるだけの経済力が家庭にあった…、あの当時ですよ。
亡くなったあと、バスケット部の部長だったヨッチャンと一緒にお悔やみを申し上げるため西那須野のご実家に伺いました。そこで感じたのは、こんな立派で恵まれたご家庭で育ったんだなあって。
お母さんが民生委員と聞いて、民生委員って地元で信頼されてないと選ばれませんから。お父さんの三郎さんも当時は県庁の幹部で後に町長をされましたが、自分の娘のために『二十歳の原点』を出すまでのあらゆる面で力を持った立派な方だったんですね。膨大な日記のノートを見せていただいて、これを読むんだと思いました。
宇女高当時の彼女にはそういう雰囲気は全然ありませんでした。付き合っていてもわかりませんでしたし、そういう生い立ちの話が出たこともなかったです。
この時に、お母さんが、「とってもいい子で本当に頑張って、いい娘だった」と言って、もう全ての話が終わったあと、ポツっと、「でも親不孝だよ、卑怯だよ」って言われたんです。やっぱり自分が親になったら、どんなことがあっても子どもが先に死ぬなんて許せないですよ。
この言葉があって、私が後に中学校の教師になって学校で道徳の授業を担当した時、生徒たちには「死ぬほど勇気があったら生きてみろよ、何だってできるだろう」って教えてきたつもりです。
☞高野悦子の実家
今だから言えるのかもしれませんが、生徒を送り出してきた一教師の立場で私が考えるのは、カッコが宇都宮ではなく西那須野から近い地元の高校に進学していたらということです。私みたいに宇都宮で中学受験して入った同じ中学校からドバッとたくさん宇女高に来て〝のさばってる〟生徒と違って、遠くの中学校からたった一人で宇女高にやって来る子は、何かあった時に「ねえ、〇〇ちゃん」なんて言えないんですよ。
学区外の西那須野でトップクラスで宇女高に入ってきたので、地元の高校だったとしてもトップクラスでしょうし、何よりも自宅から近いと時間的ゆとりができます。そうすると精神的に余力ができるので、何か悩んでも両親や友人に話しかけられたんじゃなかったかなあって。
それから彼女が入った立命館大学は有名で立派な大学ですが、〝マンモス大学〟でもあったと思います。マンモス大学では一般的にどうしても〝個〟というものが埋没しがちな面があります。少人数教育の大学の方が、私の場合もそうでしたが、学生どうしや教授との距離が近くて家庭的で、人間味のある教育をする環境が整っているケースが多いんです。
現在の中学校教育でも生徒全体というより、それぞれの〝個〟を伸ばすことが重視されていますが、大学でも一人一人を伸ばす教育の中で育っていたら、彼女の〝いい芽〟がうんと伸びて、目標とすることを達成できたのかもしれないと思うんです。
※実際のメールでは「マユミサン」ではなく、実名の「〇〇〇サン」になっている。
「姉御肌だったんですか」と本人に確かめてみた。
「そんな~。自分では記憶がないけど、みんなお友達だものねえ」と、まゆみさんが戸惑うと…。
すかさず傍らにいた同級生たちが「リーダー格!常に姉御肌」、「この人はそう!」と次々と太鼓判。
まゆみさんが思わず苦笑いをした。
取材に際して、まゆみさんは『二十歳の原点ノート』[新装版]を通読して来られ、気付いた文章にたくさんのメモや付箋をして準備されていた。高野悦子の友人であるとともに同学年で生徒会長を務めた立場としての責任感に違いない。りんとした姿勢に宇女高OGのたくましさを感じた。
※注は本ホームページの文責で付した。
インタビューは2015年11月8日に行った。
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