(参考)宇都宮:曇後時々雨・最低24.4℃最高31.4℃。
☞高野悦子の実家
高野悦子が同級生へ出した直筆のはがきが残っていた。遊びに来るよう誘われたことへの返事である。消印は山科・1967年8月11日付になっている。『二十歳の原点序章』の記述と同様、自分の反省点が書かれている。
毎日あつい日が続いていますが、相変わらず元気な様子、何よりです。
私も夏期休暇に入って以来、合宿、農村調査、本部活動と忙がしい毎日をおくっていますが、こんなに忙がしいと、いいかげん活動をやめて、家に帰りたくなります。
といいながらも今までやってきたのですが、自分自身もうちょっと積極的になれないものかと反省しています。
本部活動も14日に終りますので、15日に帰ります。
それにつきましては、いろいろとていねいな本当にいたれりつくせりの手紙をいただいたのですが、新幹線の指定券を買ってしまったものですから、どうぞ御了承願います。
いろいろとごめんどうをかけてすみません。ではこのへんで。(乱筆失礼します)
郵便番号が導入されたのは1968年7月のため、宛先に郵便番号は書かれていない。
本部活動は部落研の夏期休暇中の取り組みの一つで、大学当局との団体交渉などを行った。
☞1967年12月31日「・団交」
☞西教寺・農村調査
8月14日(月)午前8時の京都は曇・約29℃。
☞青雲寮
「学ぶ、学問するということは、もっとやっかいな、かなり困難をともなうものだからです」「大学で学問をする、勉強するということは、中学や高校でのいわゆる勉強とは、その意味がちがうし、また、ちがわなければならないのです」(増田四郎「学ぶということ」『大学でいかに学ぶか』講談社現代新書(講談社、1966年))。
「講義されていることは、思考の一例が述べられているにすぎないのですから、学生であるあなたがたは、たとえ教師の説とちがっていても、自分で勉強して、自力でエンジンのかかった研究をする糸口を、自分でさがさねばなりません」
「大学で勉強する、学問する究極のねらいは、ひじょうに広い意味で、一貫した立場、ものの考え方によって、あなたの周辺に生起するさまざまなできごとの意味を、統一的にとらえる、そのとらえ方の練習にあるからです」(増田四郎「学ぶということ」『大学でいかに学ぶか』講談社現代新書(講談社、1966年))。
☞部落研
語学は英語と仏語、プロゼミは北山茂夫教授である。
☞1967年5月24日「今日のプロゼミと英語の予習を全然やっていないので」
☞1967年6月6日「川口さんと選挙のことで話した」
ここでいう片一方の潮流とは、民青系のことである。
☞民青
南ヶ丘牧場は栃木県那須町湯本にある牧場である。
創業者の岡部勇雄が1948年11月、東京都が募集した那須開拓事業に申し込んで入植した。荒れ地を整地し、泉の湧出があり酪農に手ごろな場所となってから、生乳の生産から加工、販売までを一貫して手がける酪農経営を行った。1951年にイギリス原産のガンジー種の乳牛導入、1962年には出入り自由の開放型牛舎を設置し、牧草を主体として飼育するようになる。
周辺からの訪問客が増えて、1954年に釣堀を、1956年に乗馬を始めている。さらに1964年には福島県の旧庄屋家屋を移築する形で新館が完成。食堂や売店、宿泊施設などを併設し、本格的な観光牧場化に乗り出すことになった(水上七雄『大興安嶺の落日─南ヶ丘牧場前史』(岡部勇雄、1989年)参考)。
写真は牧場の南奥にある乗馬場付近で撮影されたものである。
現在は乗馬場全体が少し南寄りに位置している。
乗馬を終えたとみられる姿をとらえている。バックの松林は成長が進んでいる。また付近にはヒツジやヤギにえさを与えたりできる「動物ふれあい広場」とリードを付けたウサギを貸し出す「うさんぽ広場」のための建物ができている。
(参考)宇都宮:曇時々雨・最高24.7℃最低20.1℃。
8月「28日朝から新潟、山形、福島3県下を襲った大雨は29日朝になって小降りになったが、山間部では300ミリから400ミリに達する記録的な集中豪雨となった。昨年7月の豪雨水害でも大被害を出した新潟県の米どころを流れる加治川は上流に当る二王子岳に355ミリの降雨があったため堤防が各所で決壊、濁流が新発田市をはじめ同県北部の10市町村全域に流れ出し、刈取り寸前の同地方の田約3万ヘクタールのうち、約半分に当る1万5000ヘクタールが泥水に押流されたり、埋没した」(『朝日新聞1967年8月29日(夕刊)』(朝日新聞社、1967年))。
「昨年7月の大水害とまったく同じく、新発田市西名柄と北蒲原郡加治川村向中条の加治川堤防が切れ、押出す濁流はようしゃなく家屋を流し、水田をなめつくした。あと二、三日で刈取るばかりの豊かに実った稲穂は、無残にも濁流の下に消えてしまった」(「打砕かれた豊作の夢─新潟地方」『朝日新聞1967年8月29日(夕刊)』(朝日新聞社、1967年))。なお加治川村は2005年に新発田市に編入している。
1967年の立命館大学の夏休みは9月10日(日)までであり、前期試験を控えて京都の下宿に戻ってきた。
☞1967年9月24日「明日から一週間試験がある」
「重ねて決心するが、恋心的な、ぐち的な、自慰的な文章を書かぬようにしよう。考えたのちに書こう。書いて考え、考えて書こう」(奥浩平「ノート1963年4月12日」『青春の墓標』(文藝春秋新社、1965年))。
☞1967年4月28日「私の日記は奥浩平君のいう〝自虐的な文〟でつづられている」
マルクス・レーニン主義とは、カール・マルクス(ドイツ、1818-1883)の提唱した社会主義の思想・理論をレーニン(ロシア、1870-1924)がまとめたものである。内容については、それぞれの立場から様々な理解がある。
ここでいう「全学連」は民青系全学連を指し、それを支持する人達の活動者会議とは民青系の活動グループを意味する。
この時点で全学的な一部学友会の執行部は民青系になっていたものの、一部文学部自治会の執行部は反民青系だったことから、いわば“野党”の会議にあたる。
☞1967年6月4日「文学部全学連連絡会」
長沼さんの下宿は、京都市東山区山科竹鼻西ノ口町(現・山科区竹鼻西ノ口町)の学生アパートである。長沼さんも京阪山科駅を利用しており、高野悦子と通学ルートは同じである。
木造2階建ての建物は現存せず、現在はマンションになっている。
☞大学1年で一緒・長沼さん「日記に命を懸けてたエッチャン」
長沼さんの下宿から高野悦子の当時の下宿である青雲寮までは約500m。