高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年 8月15日(火)
 関東晴後雨 西ナスノにて

 (参考)宇都宮:曇後時々雨・最低24.4℃最高31.4℃。
高野悦子の実家

同級生への直筆はがき

 高野悦子が同級生へ出した直筆のはがきが残っていた。遊びに来るよう誘われたことへの返事である。消印は山科・1967年8月11日付になっている。『二十歳の原点序章』の記述と同様、自分の反省点が書かれている。

 毎日あつい日が続いていますが、相変わらず元気な様子、何よりです。
 私も夏期休暇に入って以来、合宿、農村調査、本部活動と忙がしい毎日をおくっていますが、こんなに忙がしいと、いいかげん活動をやめて、家に帰りたくなります。
 といいながらも今までやってきたのですが、自分自身もうちょっと積極的になれないものかと反省しています。
 本部活動も14日に終りますので、15日に帰ります。
 それにつきましては、いろいろとていねいな本当にいたれりつくせりの手紙をいただいたのですが、新幹線の指定券を買ってしまったものですから、どうぞ御了承願います。
 いろいろとごめんどうをかけてすみません。ではこのへんで。(乱筆失礼します)

 郵便番号が導入されたのは1968年7月のため、宛先に郵便番号は書かれていない。
 本部活動は部落研の夏期休暇中の取り組みの一つで、大学当局との団体交渉などを行った。
☞1967年12月31日「・団交」
西教寺農村調査

 (きのうのこと)八時九分、東京行臨時特急こだま、京都駅をすべるように離れる。
京都駅構内図 国鉄(現・JR西日本)山科駅─08:09京都駅-(東海道新幹線(特急・こだま392号))-11:50東京[16番線]
 ひかり号が超特急に対し、こだま号は特急とされていて料金も低くなっていた。
 こだま392号は休日や行楽のシーズンに増発された季節列車である。
 こだま号が各駅に停車するのは現在と同じであるが、当時は停車駅や後続列車の通過待ちが少なかったので東京-新大阪間を4時間で結んでいた(ひかり号は同区間を3時間10分)。
 京都からの停車駅は、米原、岐阜羽島、名古屋、豊橋、浜松、静岡、熱海、小田原、新横浜、東京である。新幹線の三島駅(1969年開業)、三河安城駅・掛川駅・新富士駅(各1988年開業)、品川駅(2003年開業)はまだなかった。

 東京-(京浜東北線)-上野-(東北本線・急行)-国鉄(現・JR東日本)西那須野駅

 うっそうとしてはだ寒いくらいの曇り空。

 8月14日(月)午前8時の京都は曇・約29℃。

 〝さよなら山科、しばしの別れ〟

青雲寮

1967年 8月20日(日)
 曇
 (参考)宇都宮:曇・最低20.0℃最高27.2℃。

 『大学でいかに学ぶか』第一章を読んで。
大学でいかに学ぶか 増田四郎『大学でいかに学ぶか』講談社現代新書(講談社、1966年)である。当時250円。
 「大学で学問をするとはどういうことか。西洋史の大家が、若き日学問に志してからの道程をふりかえり、学問の心構えと喜びを語る。明日を担う青年のためのアドバイス」。増田四郎(1908-1997)は西洋経済史が専門で、当時は一橋大学長。
 第1章では「学ぶということ」と題して、<1>学問をするとはどういうことか、<2>大学での学問、<3>一般教養の意味、<4>新しい課題、の4つの節で論じている(増田四郎『大学でいかに学ぶか』講談社現代新書(講談社、1966年)参考)
☞1967年8月27日「『大学でいかに学ぶか』を再び読み始めた」
☞二十歳の原点巻末高野悦子略歴「増田四郎「大学でいかに学ぶべきか」を読返してみる」

 まず学問するということは、もっとやっかいな、かなり困難をともなうものであり、

 「学ぶ、学問するということは、もっとやっかいな、かなり困難をともなうものだからです」「大学で学問をする、勉強するということは、中学や高校でのいわゆる勉強とは、その意味がちがうし、また、ちがわなければならないのです」(増田四郎「学ぶということ」『大学でいかに学ぶか』講談社現代新書(講談社、1966年))

 次に大学で学問をするということについてのべている。これまでの高校や中学と違って、教授はただ思考の一例として自分の考えをのべているにすぎない。

 「講義されていることは、思考の一例が述べられているにすぎないのですから、学生であるあなたがたは、たとえ教師の説とちがっていても、自分で勉強して、自力でエンジンのかかった研究をする糸口を、自分でさがさねばなりません」
 「大学で勉強する、学問する究極のねらいは、ひじょうに広い意味で、一貫した立場、ものの考え方によって、あなたの周辺に生起するさまざまなできごとの意味を、統一的にとらえる、そのとらえ方の練習にあるからです」(増田四郎「学ぶということ」『大学でいかに学ぶか』講談社現代新書(講談社、1966年))

 クラブ中心の生活であり、そのかたわらの講義であった。

部落研

 語学、プロゼミも次第にそうなってきた。

 語学は英語と仏語、プロゼミは北山茂夫教授である。
☞1967年5月24日「今日のプロゼミと英語の予習を全然やっていないので」

 自治委員の選挙のときであったか、川口さんとベトナム人民支援かアメリカ帝国主義孤立化かで論争したことがある。

☞1967年6月6日「川口さんと選挙のことで話した」

 片一方の潮流に流されていた。

 ここでいう片一方の潮流とは、民青系のことである。
民青

 高野悦子はこのころ、家族で南ヶ丘牧場へ出かけて乗馬を楽しんだ。
南ヶ丘牧場

 南ヶ丘牧場は栃木県那須町湯本にある牧場である。
那須町の位置実家と牧場の位置関係
 創業者の岡部勇雄が1948年11月、東京都が募集した那須開拓事業に申し込んで入植した。荒れ地を整地し、泉の湧出があり酪農に手ごろな場所となってから、生乳の生産から加工、販売までを一貫して手がける酪農経営を行った。1951年にイギリス原産のガンジー種の乳牛導入、1962年には出入り自由の開放型牛舎を設置し、牧草を主体として飼育するようになる。
 周辺からの訪問客が増えて、1954年に釣堀を、1956年に乗馬を始めている。さらに1964年には福島県の旧庄屋家屋を移築する形で新館が完成。食堂や売店、宿泊施設などを併設し、本格的な観光牧場化に乗り出すことになった(水上七雄『大興安嶺の落日─南ヶ丘牧場前史』(岡部勇雄、1989年)参考)
現在の南ヶ丘牧場当時の牧場入り口
 写真は牧場の南奥にある乗馬場付近で撮影されたものである。
南ヶ丘牧場撮影ポイント乗馬を楽しむ観光客
 現在は乗馬場全体が少し南寄りに位置している。
乗馬している写真乗馬場付近
 乗馬を終えたとみられる姿をとらえている。バックの松林は成長が進んでいる。また付近にはヒツジやヤギにえさを与えたりできる「動物ふれあい広場」とリードを付けたウサギを貸し出す「うさんぽ広場」のための建物ができている。
南ヶ丘牧場パンフレット乗馬の写真

1967年 8月30日(水)
 雨

 (参考)宇都宮:曇時々雨・最高24.7℃最低20.1℃。

 新潟、山形、福島県下に豪雨。中小河川が決壊して大きな被害が出た。新潟市近くの新発田市では、加治川の堤防で去年と同じ場所が切れ、今年は去年の分も取り戻そうとしていた豊作を目前にして、あたり一面の水となってしまった。

新潟に豪雨被害 8月「28日朝から新潟、山形、福島3県下を襲った大雨は29日朝になって小降りになったが、山間部では300ミリから400ミリに達する記録的な集中豪雨となった。昨年7月の豪雨水害でも大被害を出した新潟県の米どころを流れる加治川は上流に当る二王子岳に355ミリの降雨があったため堤防が各所で決壊、濁流が新発田市をはじめ同県北部の10市町村全域に流れ出し、刈取り寸前の同地方の田約3万ヘクタールのうち、約半分に当る1万5000ヘクタールが泥水に押流されたり、埋没した」(『朝日新聞1967年8月29日(夕刊)』(朝日新聞社、1967年))
 「昨年7月の大水害とまったく同じく、新発田市西名柄と北蒲原郡加治川村向中条の加治川堤防が切れ、押出す濁流はようしゃなく家屋を流し、水田をなめつくした。あと二、三日で刈取るばかりの豊かに実った稲穂は、無残にも濁流の下に消えてしまった」(「打砕かれた豊作の夢─新潟地方」『朝日新聞1967年8月29日(夕刊)』(朝日新聞社、1967年))。なお加治川村は2005年に新発田市に編入している。

1967年 9月 4日(月)
 青雲寮にて

 1967年の立命館大学の夏休みは9月10日(日)までであり、前期試験を控えて京都の下宿に戻ってきた。
☞1967年9月24日「明日から一週間試験がある」

 日記を書く際の注意
 考えながら書くのではなく、考えた後に書く。

 「重ねて決心するが、恋心的な、ぐち的な、自慰的な文章を書かぬようにしよう。考えたのちに書こう。書いて考え、考えて書こう」(奥浩平「ノート1963年4月12日」『青春の墓標』(文藝春秋新社、1965年))
☞1967年4月28日「私の日記は奥浩平君のいう〝自虐的な文〟でつづられている」

1967年 9月10日(日)
 マルクス・レーニン主義とはどういうものなのか。

 マルクス・レーニン主義とは、カール・マルクス(ドイツ、1818-1883)の提唱した社会主義の思想・理論をレーニン(ロシア、1870-1924)がまとめたものである。内容については、それぞれの立場から様々な理解がある。

1967年 9月12日(火)
 十日の日曜日に全学連を支持する人達の活動者会議があった。

 ここでいう「全学連」は民青系全学連を指し、それを支持する人達の活動者会議とは民青系の活動グループを意味する。
 この時点で全学的な一部学友会の執行部は民青系になっていたものの、一部文学部自治会の執行部は反民青系だったことから、いわば“野党”の会議にあたる。
☞1967年6月4日「文学部全学連連絡会」

 その後長沼さんの下宿へ行って、同じ一回生の人達と話をしたりした。
 長沼さんは高野悦子と日本史学専攻の同級生で、女子学生会(民青系)の運営委員である。
長沼さんの下宿

 長沼さんの下宿は、京都市東山区山科竹鼻西ノ口町(現・山科区竹鼻西ノ口町)の学生アパートである。長沼さんも京阪山科駅を利用しており、高野悦子と通学ルートは同じである。
2人の下宿の位置関係長沼さんの下宿跡
 木造2階建ての建物は現存せず、現在はマンションになっている。
大学1年で一緒・長沼さん「日記に命を懸けてたエッチャン」

 下宿に着いたのは十一時頃だった。

 長沼さんの下宿から高野悦子の当時の下宿である青雲寮までは約500m。

  1. 高野悦子「二十歳の原点」案内 >
  2. 序章1967年6-12月 >
  3. 長沼さんの下宿