高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年12月1日(金)
 快晴

 京都:晴・最高12.5℃最低3.9℃。日中は快晴だった。

 私は三浦さんを好きなのだろうか。

☞1967年10月27日「三浦さんも十・二六ストにきていた」

1967年12月3日(日)
 晴

 京都:晴・最低0.9℃最高13.2℃。午前中は雲が少なかった。

 クラブをやめる気持からぬけきれないまま学校に行った。

部落研

 英語が終った後、存心館前で一回生だけの運営委員会(といっても六名しか集まらなかった)があり、一二・八不戦の集いについてどのようにクラス討論をおこすかを話した。

運営委員会 第2時限の授業時間は午前10時40分~午後0時10分。したがって正午過ぎのことである。
 女子学生会(民青系)のうち一回生の運営委員会である。
☞1967年6月12日「今日は女子学生会の運営委員の選挙だ」

 不戦のつどいは、1953年12月8日にわだつみ像が立命館大学広小路キャンパスに建立されたことを記念して、反戦・平和の精神を継承、発展させるため毎年12月8日前後に行われる行事である。
 第14回不戦のつどいは、1967年12月8日(金)午後0時半から民青系の「六者共闘(一・二部学友会、教職組、生協理事会、生協労組、院生協議会)が主催する〝わだつみ像前記念式典〟に約300人が参加して行なわれ」「不戦の決意表明ならびにわだつみ像への献花をして午後1時すぎに終った」(「分裂した不戦の集い」『立命館学園新聞昭和42年12月11日』(立命館大学新聞社、1967年))。末川博総長は体調を理由に欠席した。
 反民青系の一部文学部自治会などはこの式典に参加せず、別に研心館3階で講演会などを開いた。
 第14回不戦のつどいをめぐる分裂状況は11月28日(火)の実行委員会メンバー決定時から問題が拡大しており、一回生の運営委員会では民青系として各クラスの討論で意見を取りまとめる点について話し合われたものとみられる。

 「今朝は八時二〇分に起きて、三五分の電車に乗ったの」と言った。

京阪京津線

 ひでちゃんの家の引越の手伝いに行って、

 部落研の活動の一環である。
☞1967年12月13日「英ちゃん」

1967年12月6日(水)
 快晴

 京都:晴・最低1.6℃最高14.4℃。午前中は雲が少なかったが、午後から雲が広がった。

 アンコや土方をしながら、

 「あんこ」とは日雇労働者の別称である。

 月二万円である。

☞二十歳の原点1969年3月30日「家からの仕送りが二五〇〇〇円」

1967年12月13日(水)
 中学生会議のあと、飯島さんや英ちゃん、剛ちゃんを中心に、佐藤さん、安藤さんらに民青加入をすすめられた。

 中学生会議は、京都市壬生隣保館における地域活動の一つで中学生が参加した。
 英ちゃん、剛ちゃんは西大路三条地域の青年会メンバーで、中学生会議の指導役でもあった。佐藤さんは、安藤さんは部落研メンバー。
京都市壬生隣保館

民青

 民青は日本民主青年同盟の略称で、日本共産党系の学生・青年組織である。
 共産党は党員になる審査を厳重にするため、学生についてはまず民青の同盟員になり活動状況を確認したうえで判断するのを原則としていた。このため民青は学生に対する共産党への窓口や選抜機関・登竜門の役割も果たしていた。
 こうした中、1960年代以降の学生運動で三派全学連に代表される反共産党系が活発になるにつれ、共産党・民青はこれに対抗するため、若者の党員や民青同盟員の数をさらに増やしていく方針になった。
 組織人員(民青同盟員)については、1966年1月の全国活動者会議時に20万9800人まで達し、「組織的にはピークだった」「京大、立命館なども四ケタの班があった」(川上徹「泡立つ時代経験─六〇年代半ば」『素描・1960年代』(同時代社、2007年))とされた。
 しかし1967年春ごろから拡大にブレーキがかかった。1967年9月の民青第10回大会当時には公称20万人としていたが、実際は約14万9000人で、このうち11.5%にあたる1万7200人が大学生とみられていた。このため同大会では1969年の次期大会までの2年間に同盟員と機関紙『民主青年新聞』を1.5~2倍に拡大する運動方針を採択している。

 立命館大学では当時、民青立命館大学ブロック委員会、その中で一部(昼間部)学生については一部学生班として活動していた。そこにはコアメンバーとして指導的役割を果たす共産党員の学生から、それほど活動に熱心でない学生まで幅広く含まれる。

 規約の第一章に「同盟のよびかけ、規約を認め、同盟費を納め、同盟の一定の組織にはいって活動しようとする十五歳から二八歳までのすべての青年男女は、同盟員になることができる」とある。第三条には、同盟員の義務が五点にわたって書かれている。

 引用されているのは「日本民主青年同盟の目的・規約」(1965年3月2日)である。
「第一章 同盟員」
「第一条
 (一) 同盟のよびかけ、規約をみとめ、同盟費をおさめ、同盟の一定の組織にはいって活動しようとする15歳から28歳までのすべての青年男女は同盟員になることができる」
「第三条 同盟員は、つぎのような義務をもっている。
 (一) 規約を守り、同盟の組織できめられたことを実行し、「当面の要求」の実現と同盟の拡大強化につとめる。
 (二) 同盟の中央機関紙をよみ、これを青年のなかにひろめる。
 (三) どんな青年ともつながりをもって、大衆闘争の先頭にたってたたかう。
 (四) 実践のなかで、マルクス・レーニン主義理論の学習に努力する。
 (五) 同盟費を規則的におさめる」(「日本民主青年同盟の目的・規約」(日本民主青年同盟、1965年))

 規約は1967年9月18日の民青第10回大会で改正され、第三条(一)に「所属する組織の会議に出席し」を、(三)に「青年のもはんとなる」が新たに付け加えられたほか、同盟費が月100円から150円に値上げされている(『よびかけ・規約を学ぶために』(日本民主青年同盟中央委員会教育部、1967年)参考)。この時点では改正前の古い規約を読んでいたことになる。

 未来を生きる人間として同盟加盟を決意したい。

 「未来は青年のものである。マルクス・レーニン主義こそ、その未来への道をしめしている」(「青年同盟のよびかけ」(日本民主青年同盟、1965年))

 高野悦子は結局、民青には入らなかった。

 民青の機関誌では、民青コアメンバーで「立命館大学Ⅰ部学生地区委員会の機関紙部長の任務にあること、さらに、高野悦子という女性と同年に立命館大学の日本史専攻に入学し、同じクラス」だったという男子学生が仮名で投稿し、
 「彼女にわたしたちは幾度も加盟を訴えましたが、結局は加盟をせずに終ってしまいました。「二十歳の原点」を読んだ同盟員の幾人かに、「どうして彼女を同盟に加盟させられなかったのか」との意見も聞いていますが、わたしたちとしては、最大限努力をしてみたつもりです。彼女が部落研究をやめたのは、民青同盟に反感をもってやめたのではありません」
 「次にワンゲルへ加入した彼女は、政治に関する討議、学習を全て拒否し、その結果として好きだった山登りに没頭しだしました。彼女に3回の加盟を訴えて、わたしがどうしても中止せざるを得なかったのは、学習をしていないことではなく政治の話については耳を傾けることさえなくなった彼女の態度でした」
 「彼女の自殺の報を聞いて、幾人かの学友に、その理由を聞いても誰も知りませんでした」
 「わたしが、この手紙を記すために同志に聞いた意見の多くは「つまらん」の一言でした。学友も大半がそうでした」「同時に、一、二の学友のなかには「二十歳の原点」を読んで「やる気」をなくした仲間もいることを報告しておきます」
(「読者の窓─「二十歳の原点」について」『青年運動1972年1月号』(日本民主青年同盟中央委員会、1972年))としている。
 この投稿には「彼女の「恋人」が中核系のトロツキストであり、かれとのつき合いから「学園紛争」に参加したのにすぎないのです」(「読者の窓─「二十歳の原点」について」『青年運動1972年1月号』(日本民主青年同盟中央委員会、1972年)というデタラメも含まれている。
☞二十歳の原点1969年4月25日「一体彼の世界はあるのか。日共の情宣機関だ」

1967年12月20日(水)
 二十一日にプロゼミの発表と思っていたのが来月の七日になり、

 立命館大学の1967年度は、12月21日(木)から冬季休暇に入っている。

 奥浩平を思い出した。

青春の墓標

1967年12月21日(木)
 部屋でレイ・チャールズの声の響きに合わせて、ゴーゴーをおどった。

 NHK-FM午前11時05分~:軽音楽(歌・レイ・チャールズ)
 レイ・チャールズ(1930-2004)は、アメリカの有名歌手、ピアニスト。R&B、ジャズ、ポピュラーなど幅広く音楽活動を行っていた。
 ゴーゴーは、ロックンロールやR&Bの音楽に合わせて体をくねらせながら激しく踊るダンスのことである。
☞1968年12月7日「Go Go 喫茶に行きたい」
青雲寮

1967年12月31日(日)
 朝冷えこみ激しい

 (参考)宇都宮:晴・最低-9.6℃最高5.4℃。栃木県では朝方、この冬一番の冷え込みになった。

 朝の玄関掃除はまだいいが、

高野悦子の実家

 しかし例年のように紅白歌合戦を見ながら、

 NHKテレビ午後9時~午後11時45分:第18回NHK紅白歌合戦、平均視聴率76.7%。

 ・去年の今頃は、塩原の憩の家でやっぱりこれを見ていたのか

☞1967年1月1日「例年通り、塩原で新年を迎えた」
憩の家

 ・合宿
 ・夏休みの農村調査

西教寺

 ・団交

同級生への直筆はがき

 ・そして初めての大学の前期試験

前期試験

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