京都:晴・最低12.5℃最高26.5℃。
☞1967年12月13日「中学生会議のあと、飯島さんや英ちゃん、剛ちゃんを中心に」
☞部落研
デモ以下の記述は、直前の「十二日に初めてもった連帯感」のくだりとは別のことである。
民青系府学連による反戦統一行動の集会が、10月13日(金)午後3時から立命館大学広小路キャンパスで開かれた。
集会ではアメリカのベトナム侵略反対・ベトナム人民支援などの決議をしたあと、約300人が河原町通から四条通をデモ行進した。高野悦子が参加したのはこの集会・デモである。
☞1967年10月15日「十三日の統一行動のようではならないと思う」
山崎博昭(18)は京都大学文学部1年生で、10月8日(日)にあった三派系全学連による佐藤首相ベトナム訪問阻止の羽田闘争で、東京・大田区の弁天橋における警視庁機動隊との衝突の際、死亡した(羽田事件)。死因をめぐって警視庁は学生が警察から奪って動かした警備放水車にひかれた事故と判断、これに対して遺族側は機動隊員による暴行を受けたためと主張した。
三派系全学連(マル学同中核派、社学同、反帝学評)が中心だったが、羽田周辺では別に革マル系全学連、構造改革派の学生もそれぞれ機動隊と衝突するなどしていた。一方で民青系全学連は組織としては加わらず、共産党が同日に多摩湖畔で行った「赤旗祭り」に参加していた。
山崎の死は60年安保の樺美智子と同じ学生運動における犠牲者として当時の学生や若者の間に衝撃が走った。ただ「樺美智子に対するような、広範な同情と共感を呼び起こすことがなかった。60年安保闘争時と比べての学生運動の孤立化、先鋭化の影響をそこにみることができる」(高木正幸「新左翼三十年史」(土曜美術社、1988年))ともされる。学生側にヘルメットと角材姿のグループが公然と登場したのはこの時が最初と言われている。
京都:晴・最低11.1℃最高23.0℃。ほぼ終日、快晴だった。
この日は日本史学専攻のクラスで京都・大原へのハイキングという行事があったが、高野悦子は参加しなかった。
マツは宇都宮女子高校当時の同級生。
☞1968年3月17日「マツ(高校時代の友達松岡和子さん)に会い、話し込む」