東京:雨・最低15.5℃最高19.1℃。未明から雨だったが、午後からは弱くなった。
ヒロ子は高野悦子の姉。大学に通うため東京に下宿していた。
☞1968年2月19日「東京王子、ヒロ子下宿にて」
☞前期試験
versionは、仏文和訳の練習問題の意味。
一番最後に受けた入試は1967年2月27日の明治大学文学部である。
☞1967年3月10日「二十七日 明治入試」
ロレンス著伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』新潮文庫(新潮社、1964年)である。
ロレンスは、性について「接触によって、互いに生命を与え合うからで、そういう合一こそが性行為なので、二元性から一元性へ徐々として進んでいくところに、人間性のあらゆるもの、すなわち、子供とか、美とか、種々の作品とか、人間の真の創造物が発現する」(安藤一郎「解説」ロレンス著伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』新潮文庫(新潮社、1964年))と考える。
『チャタレイ夫人の恋人』をめぐっては、翻訳者と出版社社長が刑法175条のわいせつ文書の頒布・販売罪で起訴され、わいせつ文書と表現の自由の関係が争われた「チャタレー事件」が起きたことでも知られている。
これは書籍の名称ではなく、「「同和教育の総括と今後の方向」について」『教学時報25号』(立命館大学、1967年8月27日))を指している。
「部落差別は、身分的な差別による地域、職業の差別であり、その差別は政治・経済・文化その他社会の全般にわたるものであって、基本的人権そのものにかかわっている。しかるに、部落差別を温存するのみならず、これを拡大する社会の現実のなかで生活しているわれわれの多くは、意識すると否とにかかわらず、差別を吸収し、差別意識を有している。
したがって、部落差別の歴史的社会的な内容とその諸実態、その内的な連関を明らかにするなかで、われわれのもっている意識の内容を認識し、われわれが部落差別の現実に社会的な責任を有していることを自覚して、差別意識の克服につとめるとともに、部落を解放し差別をなくしていく立場に立つよう教育すること、これが同和教育の目的である」(「「同和教育の総括と今後の方向」について」『教学時報25号』(立命館大学、1967年8月27日))。
立命館大学は10月2日(月)に小冊子『大学教育と部落問題』(立命館大学、1967年)を配布したうえで、10月4日(水)に教職科目「同和教育」を開講した。
☞同和教育問題
亀井勝一郎の文章である。
☞1967年7月15日「「しかし自由の最大の敵は自分自身であることに気づく人は少ない」」
☞1967年5月9日「毛沢東の『矛盾論』をよみかえしている」
京都:晴・最低10.5℃最高24.0℃。
体育の日の祝日は当時、東京オリンピック(1964年)の開会式が行われた日にあたる10月10日だった。2000年からハッピーマンデー制度により、10月の第2月曜日になっている。
京都:晴・最低12.5℃最高26.5℃。
部落研が一部学友会(民青系)とともに「同和教育推進のための連続大講演会」を10月11日(水)から14日(土)までの各午後4時半から広小路キャンパスの存心館16号教室で開いた。12日(木)は「教育現場からの報告」として部落問題研究所所員の京都府立朱雀高等学校教諭が講師を務めた。
☞1967年12月13日「中学生会議のあと、飯島さんや英ちゃん、剛ちゃんを中心に」
☞部落研
デモ以下の記述は、直前の「十二日に初めてもった連帯感」のくだりとは別のことである。
民青系府学連による反戦統一行動の集会が、10月13日(金)午後3時から立命館大学広小路キャンパスで開かれた。
集会ではアメリカのベトナム侵略反対・ベトナム人民支援などの決議をしたあと、約300人が河原町通から四条通をデモ行進した。高野悦子が参加したのはこの集会・デモである。
☞1967年10月15日「十三日の統一行動のようではならないと思う」
一方、京都府学連(反民青系)、京大全学共闘会議(反民青系)、京都反戦青年委員会による「山崎君虐殺に抗議する」反戦青年委員会全国統一行動の京都集会が、10月13日午後6時から京都市役所前で開かれ、学生や労働者ら約500人が参加した。反戦青年委員会は主にベトナム戦争反対を掲げた労働者の団体。
集会ではベトナム戦争反対・山崎君虐殺抗議などのスローガンを採択したあと、円山公園までデモ行進した。
山崎博昭(18)は京都大学文学部1年生で、10月8日(日)にあった三派系全学連による佐藤首相ベトナム訪問阻止の羽田闘争で、東京・大田区の弁天橋における警視庁機動隊との衝突の際、死亡した(羽田事件)。死因をめぐって警視庁は学生が警察から奪って動かした警備放水車にひかれた事故と判断、これに対して遺族側は機動隊員による暴行を受けたためと主張した。
三派系全学連(マル学同中核派、社学同、反帝学評)が中心だったが、羽田周辺では別に革マル系全学連、構造改革派の学生もそれぞれ機動隊と衝突するなどしていた。一方で民青系全学連は組織としては加わらず、共産党が同日に多摩湖畔で行った「赤旗祭り」に参加していた。
山崎の死は60年安保の樺美智子と同じ学生運動における犠牲者として当時の学生や若者の間に衝撃が走った。ただ「樺美智子に対するような、広範な同情と共感を呼び起こすことがなかった。60年安保闘争時と比べての学生運動の孤立化、先鋭化の影響をそこにみることができる」(高木正幸「佐藤首相訪ベト阻止羽田闘争」『新左翼三十年史』(土曜美術社、1988年))ともされる。学生側にヘルメットと角材姿のグループが公然と登場したのはこの時が最初と言われている。
山崎が京大生のため、地元・京都でも追悼の動きが相次いだ。
立命館大学では10月9日(月)、一部文学部自治会(反民青系)主催による広小路追悼抗議集会などが開かれる一方で、一部学友会(民青系)は「分裂主義者の挑発行為で、学生運動に悪い影響を与える」と位置付けて対立した。
☞三つの全学連
京都:晴・最低11.1℃最高23.0℃。ほぼ終日、快晴だった。
この日は日本史学専攻のクラスで京都・大原へのハイキングという行事があったが、高野悦子は参加しなかった。
マツは宇都宮女子高校当時の同級生。
☞1968年3月17日「マツ(高校時代の友達松岡和子さん)に会い、話し込む」
☞1967年10月23日「十・二一は六者共闘」
立命館大学では10月21日(土)、4年ぶりとなる学生による全学ストライキが行われた。
この日に向けて各学部で学生大会や学生集会が開かれて、各学部一部(昼間部)でみると法学部、文学部、産業社会学部でストを決議した。また一部学友会も全学投票を行って10月21日と10月26日(木)の“スト権確立”をした。
大学におけるストライキ(スト)とは、学生が組織的に講義などを欠席することをいう。それによって大学運営に支障を与えることで、大学当局等に対する学生の要求を実現すること等を目的とする。
労働争議のストでは労働者が労働という義務を履行しないのに対し、大学におけるストは学生が出席して受講する権利を行使しない形を取る。しかし学生が欠席する反面の効果として、大学側は講義を行うという義務を履行できなくなることで影響を受ける。
したがって「スト」という名前で呼ばれるがボイコット運動というより、むしろ労働争議における使用者のロックアウト(閉め出し)に似た構図をもつ点に注意する必要がある。このためエスカレートすると、ピケッティング(見張り)だけでなく実力による「封鎖」という行為にまで及ぶ可能性を内包していたともいえる。
10月21日にストライキが設定されたのは、この日が国際反戦デーにあたるためである。
国際反戦デーは、1966年10月21日に労働組合の中央組織である総評=日本労働組合総評議会がべトナム戦争反対を中心とする統一ストライキを実施し、内外にベトナム反戦を呼びかけたことから始まった統一行動の日をいう。
国際反戦デーだけでなく反民青系ではさらに10月8日(日)の羽田闘争における京大生の死(羽田事件)を合わせてアピールしたのに対して、民青系は一部暴力学生の挑発行為だと非難した。
いずれにせよストと言っても一日だけで影響も限られているため、その実行はスムーズに行われ、大学当局と事実上〝あうんの呼吸〟にあったものと言ってよい。
10月21日の京都:晴・最低10.3℃最高24.4℃。午後1時前後は快晴。
10月21日の立命館大学では午前中、校門でピケを張る学生がいたり、ビラが配られたりした。登校者数は普段の半分前後で、広小路キャンパスでは全ての講義が取り止めになった。
六者共闘(立命館大学六者共闘会議、一部学友会・二部学友会・大学院生協議会・生活協同組合・生活協同組合労働組合で構成)の全立命決起集会は、午後1時からわだつみ像前で開かれ、約1,500人が参加した。
六者共闘は5月1日(月)のメーデーの段階では反民青系と民青系が併存したが、そのあと主力の一部学友会の執行部が民青系に交代したことから、六者共闘は民青系が握っていた。
「集会では末川総長が「今こそ人道主義、人類愛、正義でアメリカ侵略主義を裁く時である」とあいさつ、六者からそれぞれ闘争報告された」(「全学部ストで決起─国際反戦デー」『立命館学園新聞昭和42年11月1日』(立命館大学新聞社、1967年))。
賀茂川グランドは、京都市左京区下鴨半木町の京都府立大学(現・京都府立大学下鴨キャンパス)グラウンドのことである。
☞京都府立植物園
時代祭は京都三大祭りの一つで平安神宮の祭りである。毎年10月22日に開かれる。
装束を身に付けた人々が行列を組んで練り歩く。ルートは、正午に京都御所を出て、丸太町通から烏丸通に入り南下、御池通を東進。行列は1967年当時、そこから川端通を通って平安神宮に至っていた。現在は河原町通経由に変更されている。
1895年開始で、葵祭や祇園祭に比べて「その歴史は浅いけれど、平安時代から明治維新までの歴史風俗を再現した観光価値満点のまつりである」(林屋辰三郎「はしがき」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。
☞1967年5月16日「葵祭─古代の貧しきものと富めるもの」
☞京阪京津線