京都:晴・最低5.7℃最高25.0℃。日中は快晴。
京都市上京区の河原町丸太町交差点である。
通学ルートである京都市電の四条河原町新京極停留場から府立病院前停留場の途中に通る。河原町丸太町停留場の北行きが交差点南側に位置していた。
六者共闘=立命館大学六者共闘会議(一部学友会・二部学友会・大学院生協議会・教職員組合・生活協同組合・生活協同組合労働組合から構成、民青・共産党系)のうち大学院生協議会が参加しない場合、「五者共闘」と呼んでいることがある。
☞1967年10月23日「十・二一は六者共闘」
六者共闘は 5月1日(水)午前、広小路キャンパスと衣笠キャンパスでメーデーの集会を開いた。『アメリカのベトナム侵略と佐藤政権の加担反対』などをスローガンに掲げ、広小路キャンパスでは法学部、産業社会学部、二部を中心とした学生約700人が参加した。
集会では「学友会、教職組などが決意表明を行なった後、民主勢力の統一の強化を呼びかけ「本学に学び、働く者が団結して、アメリカ帝国主義、日本独占資本、佐藤政府に対する闘いの日である」とのメーデー宣言を採択した」(「六者共闘、ベ侵略反対打ちだす」『立命館学園新聞昭和43年5月11日』(立命館大学新聞社、1968年))。集会後、教職員組合の約60人がデモに出発した。
広小路キャンパスでは、六者共闘の集会に続き、一部学友会・二部学友会(ともに民青系)合同による学生集会が開かれ、改めて〝統一戦線〟(民青・共産党系の意味)の勢力強化やベトナム人民支援などを呼びかけ、キャンパス内でデモを行って気勢を上げた。
この集会に参加した学生らは午前11時前、二条城前に向けてデモ行進に出た。
立命館大学広小路キャンパス─(河原町通)─河原町今出川─(今出川通)─堀川今出川─(堀川通)─二条城前広場(約4.2㎞)
二条城前では、六者共闘の集会を衣笠キャンパスで行った約300人、それに京大を含む民青系府学連約500人が合流して、全体で約1,500人となった。
二条城前広場では午前9時15分から京都総評、中立労連などが主催する第39回全京都統一メーデー中央集会が行われており、中央の特設ステージには「万国の労働者団結せよ!働く者の団結で生活と権利、平和を守ろう」のスローガンが書かれた横断幕が張られ、7万5000人(主催者側発表)の参加者と赤旗やプラカード、デコレーションで埋まった。集会では平和を守り佐藤内閣を打倒することなどを盛り込んだメーデー宣言を採択した後、「ガンバロー」の掛け声を上げ、午前10時半すぎに3ルートに分かれてデモ行進に移っている。
二条城前広場…堀川御池…(御池通)…河原町御池…(河原町通)…四条河原町…(四条通)…祇園…円山公園(約3.8㎞)
立命館大学の六者共闘を含む民青系府学連はデモ行進後、円山公園で集会を行って、午後4時前に解散した。
京都:晴・最低12.3℃最高28.6℃。振替休日制度が始まったのは1973年のため、この日は平日である。
ワンゲル部の昭和43年度新人合宿が1968年5月4日(土)~5日(日)に京都・広河原を集結地として行われた。新人合宿は、新入部員が入部して初めて参加できるように計画された、夜営を伴う山行である。1年生が〝主役〟のイベントだが、それを迎え入れる役割になる2年生や3年生の部員も多数参加した。
1年生で参加したワンゲル部OBは「新人合宿は、まさに新人のための合宿だった。いろんなコースによって十数のパーティを作って、それぞれコースが違うのが最後に1か所の〝集結地〟に集まる。そこでみんなでテントを張って一泊して盛り上がって、次の日に別れる形だった。高野さんもわれわれ1年生と新人合宿に行ってるはずだと思う」と話している。
広河原は京都市左京区の北部で旧・京都府京北町広河原だった地区である。1957年に京都市に編入した。
京都バスの京阪三条発広河原行き路線があって、旧・広河原尾花町停留所まで約2時間半で結んでいた。広河原地区を通る京都府道38号広河原美山線は1960年代から70年代にかけて道路整備を順次進めている状況にあった。広河原スキー場(現・京都広河原スキー場)は当時まだ開設していなかった。
地元の人の話では、当時の道路(旧道)で谷をさかのぼって現在の京都広河原スキー場がある地点を過ぎた付近が、グループのキャンプ利用があった場所だったという。ただし実際にワンゲル部がこの場所で夜営をしたかは確認できていない。
新人合宿では学年別に記念の集合写真が撮影された。2年生は46人で、向って右端に高野悦子が写っている。
京都バスの路線は現在、終点が広河原停留所まで伸び、京阪・出町柳駅前発で1時間50分余りになっている。
5月5日(日・祝)にビールを飲んだのは、髙島屋屋上アサヒビアガーデンである。
1968年シーズンは4月25日(木)にオープンし、連日午後5時から9時まで営業していた。屋上までは河原町通側のエレベーターを利用した。屋上北側に1965年、子ども向け遊園地「プレイランド」が完成(2012年に終了)。ビアガーデンは屋上南側で営業していた。
飲食店は京都市中京区河原町通四条上ルに当時レストランがあり、ビアホールなどを手がける外食大手、ニュートーキヨーが担当している。
現在は「タカシマヤ屋上アサヒビアガーデン」として後の増築部分にあたる屋上西側でシーズン営業を行っている。
ワンゲル部OB・OGによると、合宿などで京阪・三条駅や阪急・河原町駅(現・京都河原町駅)に帰ってくるコースの場合は、髙島屋屋上ビヤガーデンのほか、屋内の座敷では京都市下京区河原町通四条下ル一筋目西入ル貞安前之町にあった京都労働会館も多く利用された。また遠距離で国鉄(現・JR西日本)を使って京都駅に帰ってきた場合は、駅前で京都市下京区烏丸通塩小路角東塩小路町にある京都タワービルの屋上ビアガーデンを利用することもあった。「当時は屋上ビアガーデン全盛期で、ステージでハワイアンしてたり」、「〝ゴーゴーガール〟が踊ってたような所もあった」という。
☞高島屋京都店
☞1967年11月18日「十六日のクラスコンパは場所の関係で一時間ほどしかできなかった」
☞1968年4月12日「北山先生の史学史をムリしてとることにした」
この日は女子学生対象の健康診断の検査日にあたり、診療所で一般計測、内科、X線撮影、BCG接種などが行われた。
☞民青
京都:晴・最低5.8℃最高24.2℃。午後まで快晴。
岩井忠熊「現代社会Ⅰ─大正・昭和時代」林屋辰三郎編『日本史研究序説』(創元社、1965年)からの引用である。
「いずれにせよ、古代、中世、近代といった時代区分の概念が、現代を出発点として成り立っていることを確認しておこう。一般に歴史学が現代を基礎として成り立つものであることは、クロオチェの有名な言葉「すべての真の歴史は現代の歴史である」(『歴史の理論と歴史』)を引くまでもなく、一つの常識であるといってよい」
「その社会においては、一方における資本の蓄積と他方における貧困の蓄積、ブルジョアジーとプロレタリアートへの「階級分化、そして両者の階級対立を必然化する。現代史の立場とは、まずもって、現代社会におけるこのような矛盾の確認から出発することにほかならない」(岩井忠熊「現代社会Ⅰ─大正・昭和時代」林屋辰三郎編『日本史研究序説』(創元社、1965年))。
岩井忠熊は後年、「二十歳の原点」には「何べんか私自身が登場し、また筆者名を記してないが、私が林屋辰三郎編『日本史研究序説』に書いた文章が引用されていた。私が無関心になれないのは当然だろう」(岩井忠熊「大学の生命、教師と学生の対話」『戦争をはさんだ年輪─歴史研究者のあゆみ』(部落問題研究所、2003年))と振り返っている。
山小屋は、ワンゲル部が京都府京北町芹生川上(現・京都市右京区京北芹生町川上)で管理・運営する「立命ワンゲル小屋」のことである。山小舎(やまごや)という表記も使っていた。
ブロック造平屋建て延べ約25㎡。京都・北山の貴船・芹生と雲取山を結ぶコース上にある通称「二ノ谷」沿い標高約760mの民有地にある。
山小屋の構想は1961年に部内で持ち上がった。キャンパスから近い北山にあって、当時スキーが可能、水が利用でき、ハイキング客があまり多く通らないという条件から立地が決まった。建設に必要な資金は部員たちがアルバイトなどをして自前で用意した。
ご厚意により、内部を撮影した。
中に入るとまず土間(約6畳)になっており、まきストーブがある。壁には装備や消耗品などがびっしりと並んでいる。奥の天井近くには保安林における作業許可を示す標識が置かれていた。工事の時に掲げられたもので、「立命館大学ワンダーフォーゲル会山小屋建設作業地、許可年月日:昭和37年5月30日、許可期間:昭和37年5月30日より同年12月30日まで、作業面積:23.1平方メートル、申請者:京都市上京区河原町広小路西入ル・立命館大学ワンダーフォーゲル会」と書かれている。
小屋の設計は理工学部在籍の部員が担当し、工事は1962年3月25日(日)に建材を運ぶ道づくりからスタートした。基礎は学生が手がけ、大工工事等は京都市内の建設会社が行い、同年12月9月(日)に小屋の落成式が行われた記録がある。
左手にはリビングスペースとなる板の間(約8畳)がある。「RUWV」と書かれたワンゲル部の旗や部の機関誌のタイトルと同じ「漂雲」の額、元総長・末川博揮毫の板などが飾られている。また階段を上がると板の間のロフト(中2階)になっている。
壁には完成当初からの山小屋の変遷の写真も掲げられていた。当時は入り口部分にひさしがなく、外壁はブロックの地色が見えていたことがわかる。「赤い屋根にコバルト・ブルーの、立命館大学ワンダーフォーゲル部のブロックの山小屋が見えてくる。谷のひらけたよい場所に作られた、よい小屋である」(創元社編集部編「雲取山」『関西の山々』(創元社、1968年))。
建物は屋根や窓枠など改修を重ねているが、基本構造は当時から変わっていない。ただかつて山小屋の周囲はササが茂っていたが、現在はササが見られなくなった。北山全体で近年になってササが急減したことによるものとされる。
歴史ある立命ワンゲル小屋について、2012年10月26日(金)に立命館大学衣笠キャンパスで「山小屋建設50周年記念式典」が開かれ、1958年卒業生から現役部員まで約130人が参加した。またワンゲル部OB有志が春と秋の年2回集まり、「山小屋ワーク」と称して建物等のメンテナンスや外構の充実、ササの復元といった活動を行っている。
当時は週休二日制は始まっておらず、土曜日も午前中講義があった。このため週末に山小屋へ行く場合、土曜日の昼から午後にそれぞれ出発し、山小屋に夕方ごろ到着して集まった。夜にみんなで酒を飲みながら話をしてワイワイガヤガヤ盛り上がって、そのまま宿泊。翌・日曜日の朝以降に帰っていくというパターンが多かったという。
同学年・2年生だったワンゲル部OBは「山小屋で彼女と一緒になったことがあるのは間違いない。どのようなルートで来たのか、たとえば貴船・芹生からか花背・雲取山からかといった話くらいはしていると思う」と言う。1学年下の1年生だったOBは「秋ぐらいまでよく山小屋に通ってきてたと思う。静かな感じで話したことはないけど、光ってて目立ってたなあ。特にたばこを吸ってる姿がカッコ良かった。あのころ女性部員のたばこはあまりいなかったこともあったけど、高野さんの吸い方がすごく〝絵〟になってて強い印象が残っている」と語る。
1968年5月12日(日)は「山の清掃デー」だった。
同学年のワンゲル部員は1970年に「2回生の前期から夏合宿に至る君のあの陶酔ともいうべき自然活動。あの頃の君とは、直接話しはしなかったが、純粋なまでのあの何かを追い求むる姿に我々は心密かに畏敬の念をもっていた。それは我々にはそう容易すぐ到達できえぬ姿であった。
君は5月の「山の清掃デー」の日の事を覚えているかな。芹生までのゴミをたくさん拾って小舎へ帰る途中新道で雨が降ってきた。新しく我々で作った道なのでまだまだ藪である。皆、上から下までビショビショである。その時、先頭をズンズン歩いていた僕は、君がすぐ後にピッタリと付き、ちょっと俯き加減に黙々と歩いているのに驚いた。君のイメージではずっと後に遅れて来ているのだろうと思っていた。そしてどうやら新道を貫き通せてこの谷の出合いまできた時に「体が冷えたから、小舎まで走れ!」と僕が皆に大声でいうと、君もニコニコして、弾むように駈けていった」(「手紙(立命大ワンダーフォーゲル会。故高野悦子さん宛。)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年))と残している。
5月12日京都:曇時々雨・最高19.2℃最低15.9℃。
☞1968年10月14日「これぞとばかりたきつけ始めたのだが」
☞1968年12月16日「カマドで、やかんに入ったお酒の熱さをみるのに」
☞ワンゲル部
京都:晴・最低6.8℃最高25.8℃。ほぼ快晴。
二回生会、総会、ブロックの話し合いともにワンゲル部の会合である。
村松喬『教育の森・7─“再編下”の高校』(毎日新聞社、1967年)である。
「学校も教師も、教育の行政も、またそれに要求する周囲も、根本的な原則を無視し、あげて教育を実利、功利の面からのみ利用しようとしている傾きが強いようである。そしてそれが「現実的」だと思っている。
そのような教育が、実利的な面においても成功するわけはないが、成功しない理由を、教育がさらに実利に徹底していないからだと考える有力な向きがあるのは、日本の教育にとって絶望的な事実である。そして、一方には、人間を産業の具、労働力としてのみみる「人間機械説」ともいうべき考え方がある。この二つの考えが合体して、教育を規定するとしたら、どういうことになるか」(村松喬「まえがき」『教育の森・7─“再編下”の高校』(毎日新聞社、1967年))。
「経済審議会の教育に対する要求、つまりは人間に対する要求には、機械を運転するのと同じ考え方を教育にあてはめている感じが強くあり、人間と機械の間に違いがあることを十分に認識されていないきらいがあり、しいて人間といえば、経済の頂点を形成している企業経営者のみだという考え方がひそんでいるようである。この考え方は、人間と機械の境をはずしたものであり、その場合、意思や欲望を持つ人間よりは、思うように操縦できる機械の方がはるかにたのもしく、また有用だという観念に転化し、人間を機械なみに扱うことは一種の恩恵になるのである。そして中教審は、その考え方を教育の中に持ち込む役割をになったのである」(村松喬「答申の検討」『教育の森・7─“再編下”の高校』(毎日新聞社、1967年))といった記述がある。
☞1968年4月15日「『教育の森』をよんで」
「Hブロック」は、ワンゲル部の広小路(H)キャンパス側の部員という意味と考えられる。