栃木県体育館は、栃木県宇都宮市中戸祭にある栃木県立の体育館である。
1965年に本館がオープンした。バスケットボールコートなら2面として使う。
『二十歳の原点ノート』にはないが、高野悦子は高校2年春の遠足で、袋田の滝と雲巌寺を巡った。移動はバスによる。
当時の宇都宮女子高校では春の遠足を4月の最終土曜日(祝日でない場合)に行うのが通例だった。その通例通りだと1965年4月24日(土)ということになる。
袋田の滝は、茨城県大子町袋田にある滝。高さ120m・幅73mあり、地元では日本三名瀑の一つとしている。
滝を間近で見る観瀑台まで、滝川の右岸沿いにある遊歩道を登って行くルートだった。観瀑台に直通する観瀑トンネル(全長276m)は1979年に完成した。
バスを降りてから、みやげ物店や食堂が立ち並ぶ道を抜けたら、袋田の滝の遊歩道の入り口になる。
当時は川沿いに直進して遊歩道へ進んだ。現在は左折して観瀑トンネルへの坂道となる。
当時の遊歩道は放置されて荒廃し途中で寸断されていて、現在は滝にたどり着くことはできない。
袋田の滝で高野悦子は同級生と3人で記念撮影をしている。当時の観瀑台に通じる階段手前にある展望台(④)で、現在の第1観瀑台付近に位置する。写真では横顔になっている。
そして当時の観瀑台(⑤)で滝をバックに1人で写真に写っている。
観瀑台へは階段を上っていく必要があった。
当時の観瀑台は現存せず、現在は第1観瀑台の北側の約50m上方に第2観瀑台がある。第2展望台の第1デッキが比較的高さが近いとみられる。
第2観瀑台は2008年に完成した。観瀑トンネルからエレベーターを利用する。
高野悦子は観瀑台まで行ったあと、缶入り清涼飲料水を飲む写真を撮っている。
場所は滝川の下流の渓谷にある岩の上である。飲んでいるのは朝日麦酒(現・アサヒ飲料)のバャリースオレンヂ(現・バヤリースオレンジ)250g缶。
この岩を本ホームページでは便宜上、「バヤリース岩」と呼ぶ。バャリースは1951年に国内で発売された果実飲料で、1959年3月にバャリースオレンヂ250g(ml)缶が発売された。ふたにあたる部分に金具で穴を開けて飲んだ。
当時は滝川を渡る遊歩道があって、途中の西側にある岩に行くことができた。現在は遊歩道が東に移り、つり橋となったため、橋の下になった岩に直接近づくことはできない。
雲巌寺は栃木県黒羽町(現・大田原市)雲岩寺にある寺院である。1283年建立。松尾芭蕉が『奥の細道』で巡った際に立ち寄っていて、句碑(1803年建立・1879年再建)がある。
高野悦子と同学年の友人女性によると、当時の雲巌寺は和尚・植木義雄の存在で知られていて、遠足で訪れた時に実際に会ったという。
雲巌寺の第58代住職・植木義雄(1871-1967)は、1940年に隠居後、青少年教育に尽力し、人生訓が詰まった法話を多くの人が聴いたとされる。交通安全の標語として「俺が危い」を残し、今も寺院の近くの看板で標語を見ることができる。
☞高二関西修学旅行
栃木県立宇都宮中央女子高等学校は、栃木県宇都宮市若草町(現・若草二丁目)にある高等学校。
2022年に栃木県立宇都宮中央高等学校が開校して共学化を開始した。
矢野さん宅は、宇都宮市内の大島宅のことである。建物は建て替えられ、現存しない。
☞二十歳の原点巻末高野悦子略歴「昭和四十年六月、クラブ活動と進学勉強の板ばさみで宇都宮の大島宅に下宿」
「当時、ウチでは宇都宮女子高校の生徒を賄い付きの下宿として預かっていて、その一人だった。母屋に通じる離れがあり、高野悦子さんはその離れの部屋で暮らしていた。そこで、いろんな本を読んでいたんじゃないかなと思う」。
「高野悦子さんはきれいなかわいい人だった。『二十歳の原点』(大学生時代)の写真よりは幼かったけど」。
また、ご家族は上を見つめ記憶をたどりながら「いろいろ会話をしたのは間違いないが、はっきりと思い出せるものがなくて」と申し訳なさそうな様子で語られた。取材にうかがった当方も恐縮してしまった。
☞1965年6月4日「朝食が七時半くらい」「八時十五分(二十分でもよいが)に下宿を出発する」「夕食は七時四十分くらい」
☞1966年1月12日「部屋(下宿)には、ストーブもこたつもないのでガクガクです」「狭いながらも楽しきわが家」
☞1966年2月8日「「お風呂にお入り下さい」「ハーイ」」
☞宇女高バスケット部同級生「一生懸命なカッコ」
読んだのは、熊沢龍・河盛好蔵・木俣修・川副国基・長谷川泉編『現代国語2』(明治書院、1964年)である。1963年文部省(現・文部科学省)検定済の高等学校2年生向け国語科教科書で、宇都宮女子高校で採用していた。
所収は下記の通り。
人生への開眼…田中美知太郎「幸福について」、有島武郎「生まれいずる悩み」
小説(1)…志賀直哉「大山」、芥川龍之介「枯野抄」
詩…坂本越郎「現代詩の鑑賞」、北原白秋「月光微韻」、千家元麿「三人の親子」、高村光太郎「冬が来た」
言語と内面生活…熊沢龍「言語と思考」、桑原武夫「文学と言語」
作文…谷崎潤一郎「感覚をみがくこと」、石森延男「書くということ」
随想…寺田寅彦「疑問と空想」、福田清人「京都文学紀行」
短歌…木俣修「短歌の鑑賞」、石川啄木・若山牧水・島木赤彦・木下利玄・釈迢空「葛の花」
対話…小林秀雄・湯川秀樹「神・人間・文明」、長谷川泉「対話について」
小説(2)…梶井基次郎「路上」、トルストイ・米川正夫訳「おおかみ狩り」
評論…加藤周一「日本文化の雑種性」、伊藤整「文芸の本質」
日記…河盛好蔵「日記について」、アンドレ=ジイド・新庄嘉章訳「心の日記」、岸田劉生「劉生絵日記」
俳句…加藤楸邨「俳句の鑑賞」、飯田蛇笏・村上鬼城・前田普羅・原石鼎・臼田亜浪「死火山」
劇と映画…福田恆存「劇と映画」、瓜生忠夫「シナリオ・ライターのイメージ」
社会生活と言語…堀川直義「運命の面接」、斎藤美津子「美しい話し合い」、大久保忠利「討議」
付録…口語動詞の活用、口語動詞活用識別法、口語形容詞の活用、口語形容動詞の活用、口語助動詞総覧、作家出生県一覧地図
☞1965年10月27日「私はここで、国語「京都文学紀行」の一節」
☞1965年12月2日「今、現代国語で「路上」をやっている」
☞1966年1月3日「現代国語の教科書にのっていた「幸福について」(田中美知太郎)を読んだ」
『二十歳の原点ノート』にある作品についてはそれぞれの記述の項で扱う。
芥川龍之介「枯野抄」は『芥川龍之介全集2』(岩波書店、1954年)によっている。
「枯野抄」は1918年、芥川龍之介(1892-1927)が26歳の時の短編小説で、松尾芭蕉の死去に際して集まった弟子たちについて、「芭蕉の床を囲んでいた一同の心に、いよいよという緊張した感じがとっさにひらめいたのはこの時である。が、その緊張した感じと前後して、一種の弛緩した感じが─いわば、きたるべきものがついにきたという、安心に似た心もちが、通りすぎたこともまた争われない」などと、それぞれの複雑な心中を描いている。
「学習の手びき
1、登場人物の性格・心理について話しあってみよう。できれば一覧表のようなものを作って比較してみよう。
2、この作品の主題・構想についてまとめ、それを自己の体験・思索にてらして批判してみよう。
3、作者が芭蕉の死という歴史的事実をとらえて、それを小説化した、その事実と虚構(フィクション)について話しあってみよう。
4、この作品の中の表現について気づいた特色をあげ、作文上の参考にしよう。
5、できれば芥川龍之介の他の作品を読んで、読書ノートを作ってみよう」(「枯野抄」『現代国語2』(明治書院、1964年))。
☞1965年6月17日「「枯野抄」ではないが、私は近代人の孤独というものを感じた」
生徒会誌は宇都宮女子高校生徒会の機関誌である。1957年に創刊された。
毎年2月に主に2年生と3年生を編集委員として発行していた。前年(暦年)の動きやクラブ・クラス紹介、文芸作品、特集記事などで構成。生徒会発行では最もメインの出版物だった。高野悦子が在学した3年間に発行されたのは第9号(1965年)、第10号(1966年)、第11号(1967年)になる。
『生徒会誌第9号』(栃木県立宇都宮女子高等学校生徒会、1965年)では、グラビアや生徒会長、学校長の文章に続いて、「わたくしたちの主張」「読書感想文」「職員寄稿」。さらに「特集:「母」─その姿を考える」「随想」「研究(クラブによる発表)」「昭和39年度のあゆみ」「欧米見聞記」などが掲載されている。
グラビアページを指している。写真では1964年に完成したばかりの新館南校舎と古い講堂が一緒に写っており、その下に文が添えられている。
赤津孝司先生(仮名)は大町雅美のことである。
☞栃木県立宇都宮女子高等学校(大町雅美)
『生徒会誌第9号』46頁の随想コーナー冒頭に掲載されている3年生の文章である(写真上参考)。高野悦子からみると2学年上で、この時点では高校を卒業している。部活のバレーボールクラブでの体験を通じて自分のスタイルでの生き方を大切にしていくことを考えている。
「つい先日6月27日、全日本高校男女バレーボール大会県予選がありました。準々決勝で須賀高校に勝ったあの時の気持、忘れることができません」「全日本県予選大会に出場するにあたって、みんなでこんどの試合の目標をたてました。去年優勝したことがあるのに、今年は一回戦チームになり下がってしまって、是非とも準決勝に出ようと話し合いました」「そして勝ったのです。目標を達成する喜びは気持のよいものです」。
「すべての物に甘さはないように思われます。すべての物に、世の中すべての事に…」「人が見ているからといって、固くなってはだめなのです。萎縮してはだめなのです。のびのびとせい一杯やればよいのです」「体裁にこだわることなく自分に忠実に、自分を生活の中に出していきたいと思います」(「自分を生きること」『生徒会誌第9号』(栃木県立宇都宮女子高等学校生徒会、1965年))。
また文章の中で筆者は武者小路実篤の「もう一息」の詩が好きだとしている。
☞1964年11月22日「もう一息」
福田清人「京都文学紀行」(『現代国語2』(明治書院、1964年))は『日本近代文学紀行 西部編』一時間文庫(新潮社、1954年)によっている。
「京都文学紀行」は、京都を舞台とした小説を紹介しながら、そこに込められた作者の意図を解説する随筆である。
「ぜいたくを悪徳とし貧乏を美徳にかぞえてきた民族でないと、こんな清潔で美しい庭を考え出すわけのものでない。」は、大仏次郎『帰郷』(1948年)で戦後日本に帰った男が、京都の西芳寺(苔寺)と竜安寺を見て思ったことを語る場面で登場する一節から引用されている。福田は、この一節について大仏次郎が主人公に託して戦後の感情を述べているものとした。
「学習の手びき
1、京都について、ここにあげられた作品には、どのような面がとらえられているか、話しあってみよう。
2、京都を舞台にした作品がこのほかにもあったら、あげてみよう。
3、できたらここにあげられた『虞美人草』『帰郷』などを読んで、そのあらすじを書いて見よう。
4、郷土の文学遺跡をめぐって調査をしてみよう」(「京都文学紀行」『現代国語2』(明治書院、1964年))。
宇都宮女子高校の正門を出て正面の通り沿い南側にあった。木造2階建てで1階部分が店舗だった。食料品店からスタートし、後に店内の一角にカウンター席を設けて、おでんや焼きそばなどの軽食を出した。店は家族経営で朝から午後7時くらいまで営業していた。
宇都宮女子高校は弁当持参が多く校内に売店もあったため、平日の昼食で来る生徒はいなかったが、土曜日の午後や部活後の帰りに自宅が遠い生徒が食事で立ち寄った。学校の休み期間中に補習や自習で登校する生徒も利用した。
高校の正面の通りは1965年当時はバスが行き交うなど通行量が多く、生徒たちの主な通学路にもなっていた。
みさおフードセンターは軽食専門となり、店名も焼きそば・みさおとなって、夏にはかき氷が人気となった。建物は建て替えられた。現在は営業していない。
付近の路上で女性に尋ねたら、偶然その方が当時店を切り盛りしていた奥さん本人で、「『フードセンター』は店の昔の名前で、私がやってたの」と大変喜ばれた。
奥さんの長男は「本に登場するのがうちの店だということはすぐわかった。宇女高生が学校近くで出入りする店は少なくて、『フードセンター』という名前が付くのはここしかなかった」。
「私は高野悦子さんより年下だが、それでも比較的年代が近かったこともあり、中学から高校時代にかけて出た「二十歳の原点」シリーズの3冊は全部買って読んだし、映画も見に行った。同じ世代では周りでも本を読んでいる者が多く、大きな存在だった。そのころの地元では宇女高は高野悦子の母校というイメージもあったくらいだった」と話している。
黒瀬菓子店は、栃木県宇都宮市大寛二丁目にあった菓子・パン店。生徒からは「宇女高喫茶」という愛称で呼ばれていた。パン、牛乳、アイスクリームを中心に売っていて、夏はソフトクリームやかき氷、冬はおでんも扱っていた。店内で食べることもできて、ここで話し込む生徒もいたという。高野悦子の同級生でバスケット部の部長「ヨッチャン」ことSさんも、アイスクリームなどを食べたと話している。
店を主に取りしきっている奥さんは「やさしいんで、その上ソロバン勘定が大キライ、もうからなくてもかまわない、という性分なので生徒にしたわれ、恋愛相談から家庭内のもめごとの相談までされるそうです。調理の授業用のかっぽう着を忘れて借りに来る人もいるし、お米を借りに来る人もいるし、修学旅行のお土産を持って来てくれる人もいるしで宇女高生は自分の娘みたいな気がするとおっしゃいます。情報屋さんが学校の行事をいろいろと教えてくれるのでそれに合わせて仕入れを変えたり、休みにしたりするんだそうです」(きくちえみこ「宇都宮女子高等学校…案内」『うつのみや第24号』(ピノキオ社、1974年))。
建物は現存せず、住宅の駐車場になっている。
梶井基次郎「路上」(『現代国語2』(明治書院、1964年))は『梶井基次郎全集 第1巻』(筑摩書房、1959年)によっている。
「路上」は、通学途中の停留所と自宅の間にある近道の坂を歩く時の自分の感情を描写した小説。登場するE停留所は旧東京市電・恵比寿長者丸停留場で、自宅は旧東京府目黒町(現・東京都目黒区)である。
「(春さきからの徴候がひどくなり、自分はこのごろ病的に不活発な気持ちをもてあましていたのだった。)」というくだりがある。
「学習の手びき
1、この作品がふつうの小説とちがうとすれば、それはどのような点であるか。
2、「破滅というもののひとつの姿を見たような気がした。」とあるが、どのような意味か。
3、「帰途、書かないではいられないと、自分はなぜか深く思った。」とあるが、その時の作者の感情はどのようなものであったと思うか。また、そのことから作文の意義について考えてみよう。
4、この作品についての感想文を書いてみよう。
5、できれば、作者の「檸檬」や「城のある町にて」などの作品も読んでみよう」(「路上」『現代国語2』(明治書院、1964年))。
『いづみ』は主に高校生の女子に向けた日本女性文化協会発行の月刊誌。副題は「若き世代のために」。1965年11月号は40円。
評論・随筆、時事解説、詩歌のほか高校生特有の夢や悩みをテーマとした特集記事などを掲載した。全体として女性の自立とそのための教養・高等教育の必要性を訴える内容になっている。
まだ女性の社会的地位が低かった戦後の1949年に創刊、文芸から社会問題まで幅広く扱い、大学教授らが監修し、高い知的水準を誇った。1973年に刊行が終了した。
古川淳「女について考える─あるグループの歩み」『いずみ1965年11月号』(日本女性文化協会、1965年)は九州のある女子高校に誕生した「女性論」グループの3人の高校生が、自分たちの未来について考えようとしたときに女性ということでぶつかる問題を考えた記録をめぐる特集記事。
☞1966年1月3日「「いづみ」に、幸福についての座談会がのっていたのを思い出した」
福音伝道教団宇都宮キリスト教会は、栃木県宇都宮市戸祭町(現・昭和三丁目)にあったプロテスタント系団体の教会である。
福音伝道教団は来日したイギリス人女性の宣教師が1919年に栃木県足尾町(現・日光市)でスタートした伝道を始まりとし、主に北関東で活動が行われ、1927年に福音伝道協会として組織、1951年に現名称に改称した。
宇都宮キリスト教会では1965年当時、高校生らを対象とした集会が毎週開かれ、聖書の学習や祈りなどが行われていた。クリスマスの集会などもあり男女別学の高校生にとっては男女の出会いの場にもなったという。
福音伝道教団宇都宮キリスト教会は宇都宮市内で移転して活動を続けている。
当時の建物は取り壊され、現在は駐車場となっている。
自民会館は、栃木県宇都宮市本町にある自由民主党栃木県支部連合会の施設。
栃木新聞社は、南側の道路をはさんだ向かいにあった。