高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和40年)

高2関西修学旅行

 高野悦子は高校2年の秋に修学旅行で関西に行っている。『二十歳の原点ノート』の記述は少ないが、その全体像を関係者から提供いただいた資料等を参考に紹介する。


1965年11月 8日(月)
 今日は修学旅行第一日目。一日中汽車の旅だった。

 宇都宮女子高校での修学旅行は、1965年11月9日(火)から12日(金)まで3泊4日の日程で行われた。前年度まで5日間だった日程が短縮されている。近畿日本ツーリスト(現・近畿日本ツーリスト関東)宇都宮支店が担当した。
 『二十歳の原点ノート』では11月8日(月)出発という記述になっている。
 ※当時の宇都宮女子高校は生徒数が多かったため、修学旅行は1学年をA班・B班の2つに分けてスケジュールをずらして行うのが通例になっていた。

 三時半起床、四時にお父さんの車にのる。ゆめうつつで一時間、宇都宮駅につく。

 04:00実家-(国道4号(自家用車))-05:00国鉄(現・JR東日本)・宇都宮駅
 下宿から実家に帰っていた。東北自動車道はまだ開通していない。
☞二十歳の原点1969年1月7日「朝、父の運転する車で」
宇都宮駅

 レインコート姿のみんなが集まっている。

 (推定)11月9日午前5時・宇都宮:雨・11.9℃。

 五時半、いや、それより少し遅れて汽車は出発。

 国鉄(現・JR東日本)・宇都宮駅-(東北本線)-東京
 電車である。1973年まで東北本線の列車の一部は東京駅に乗り入れた。2015年から再び上野東京ラインとして東海道本線との相互直通運転が行われている。
高2関西修学旅行初日新幹線移動
 東京-(東海道新幹線)-国鉄(現・JR東海)・名古屋駅
 途中停車駅はない。
 近鉄・近畿日本名古屋駅(現・近鉄名古屋駅)-(名古屋線)-(山田線)-宇治山田駅
 近鉄の改札は名鉄・新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)で行われていた。国鉄からの連絡改札は1969年に開設されたものである。また宇治山田駅は山田線の終着駅だったが、1969年に鳥羽線として五十鈴川駅まで延伸されたため現在は途中駅となっている。
近鉄名古屋駅近鉄宇治山田駅

伊勢・志摩

 宇治山田駅-伊勢神宮・内宮
 宇都宮女子高校の修学旅行一行は三重交通のバスに乗り換え、最初の見学地として三重県伊勢市宇治館町の伊勢神宮・内宮を訪れた。

高2修学旅行伊勢志摩地図
 ※本項では昼食場所等は省略する。

伊勢神宮記念撮影ポイント

 伊勢神宮・内宮を訪れるにあたって、五十鈴川にかかる宇治橋の手前にある鳥居の前で記念写真を撮影した。
伊勢神宮記念撮影ポイント位置伊勢神宮宇治橋
 三重県伊勢市宇治今在家町にある鳥居は伊勢神宮の行事である式年遷宮に合わせて20年ごとに建て替えられていて、当時の鳥居は1954年に高さ約7.4mで完成した。宇治橋も20年ごとに架け替えられていて、当時の橋は1949年に長さ101.8m・幅7.88m・橋桁5本で完成した。
 記念写真の下部には「内宮 40.11.9」と印字されている。同級生と引率教諭ら計57人が写っていて、高野悦子はジャケット姿で2列目のやや右側にいる。
伊勢神宮記念撮影ポイント位置伊勢神宮での高野悦子の写真
 鳥居と橋の20年サイクルは続き、現在の宇治橋鳥居は2014年に完成した。また宇治橋は1969年の架け替えから8.42mに拡幅され、橋桁も7本に増えた。現在の橋は2009年に完成したものである。

 伊勢神宮・内宮-伊勢志摩スカイライン-御木本真珠ヶ島
宇女高修学旅行伊勢・鳥羽のスナップ

伊勢志摩スカイライン

 伊勢志摩スカイラインは伊勢神宮・内宮付近と鳥羽市を山間部を通って結ぶ有料道路で、1964年10月に開通した。全長16.3㎞で途中に三連屋根で鉄筋コンクリート打放しの朝熊山レストハウスがあったが、現在は解体されている。
伊勢志摩スカイライン

御木本真珠ヶ島

 御木本真珠ヶ島(現・ミキモト真珠島)は三重県鳥羽市鳥羽一丁目にある小島で、観光施設として1951年にオープンした。御木本幸吉が養殖真珠第一号を発明完成したのを記念して真珠島と名付けられた。
当時の御木本真珠ヶ島
 鳥羽港からの専用船で島に渡った。島と対岸とを結ぶパールブリッジは1970年完成である。
現在のミキモト真珠島島内の様子
 御木本幸吉の銅像は1953年に建立された。高さは3.75mある。
1960年代の御木本幸吉像付近の様子同行者が撮影した御木本幸吉像
 真珠と真珠養殖に関する写真や標本などを展示したミキモトパールミュージアムが1962年に、また真珠養殖と真珠加工のプロセスを解説・実演するパールホールが1964年に、それぞれオープンした。現在は建て替えられ、真珠博物館とパールプラザになっている。
当時のパールホールとパールミュージアム
 海女の実演を間近に見る海女スタンドは1961年に開設されていて、毎日40分ごとに海女の潜水作業を実演していた。現在は概ね1時間ごとになっている。
真珠博物館海女の実演

 ここは二見が浦の大安支店(旅館)の四階「乙女」の間である。
旅館大安支店

 旅館大安支店は、三重県二見町荘(現・伊勢市二見町荘)にあったホテルである。
旅館大安支店地図旅館大安支店広告
 三重県伊勢市中之町にあった「大安旅館」の支店として1951年に開業、1964年に鉄筋コンクリート地下1階地上4階(塔屋4階)の近代的設備を整えた別館が完成し、全53室と当時の二見浦地区最大級のホテルになった。

ホテル二見浦島空撮1970年代のホテル二見浦島外観
 1972年に大安旅館が廃業、旅館大安支店はホテル浦島チェーンの「ホテル二見浦島」として運営された。
1970年代のフロント・ロビー旅館大安支店1970年代の客室
 二見町は伊勢市中心部と鳥羽市の中間に位置し、伊勢神宮を参拝する人の宿泊地として発展した。二見浦地区の海岸沿いには旅館・ホテルや土産店が数多く並び、夫婦岩の観光客や海水浴客などに加えて、春と秋は特に修学旅行の団体利用が多く、年中にぎわっていた。
 二見町は2005年に隣接する伊勢市と合併した。
大浴場大宴会場
 近年では高速道路の整備や修学旅行の変化、観光の多様化などによって、二見浦地区は宿泊地として衰退傾向が続いていて、旅館・ホテルや土産店も減少した。
 ホテル二見浦島は1985年に閉館した。建物は取り壊され、現在は駐車場になっている。
閉鎖後のホテル建物旅館大安支店跡

奈良

 近鉄・宇治山田駅-(山田線)-(大阪線)-大和八木駅
 一行は2日目、奈良交通のバスで奈良県と京都府南部の名所・旧跡を巡った。
修学旅行奈良広域地図
 奈良県では法隆寺、薬師寺、唐招提寺、春日大社、奈良公園、東大寺を見学している。

法隆寺

 法隆寺は、奈良県斑鳩町法隆寺(現・法隆寺山内)にある聖徳太子ゆかりの寺院。世界最古の木造建築物が並んでいる。
法隆寺学生拝観券
 「法隆寺は今を去る約1350年の昔、推古天皇と聖徳太子とが共に発願して、用明天皇の奉為(おんため)に建立せられし大伽藍にして、木造建築の世界最古のものとして有名である。そしてその建築には上は飛鳥時代より奈良、平安の両朝を始め、下は鎌倉、足利、徳川に至るまで各時代の粋を集め、国宝及び重要文化財に指定せられたるもの実に49棟を数え、全境内約145,464平方米(44,000坪)の土地を劃している」(「法隆寺畧縁起」(法隆寺、1967年))。
当時の法隆寺夢殿
 西院にある金堂、五重塔、東院にある夢殿などを見学した。

薬師寺

 薬師寺は、奈良県奈良市西ノ京町にある寺院。天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈念して発願したのが始まりとなっている。当初は藤原京(現・橿原市)に建立されたが、平城遷都とともに、現在の地に建立された。
☞1965年10月27日「奈良市の西部にあり、法相宗三大本山をなす寺。本尊は薬師如来。天武天皇が高市郡岡本郷に創建したが、元明天皇のころ現在地に移る。建築としては東塔(三重塔)」
当時の薬師寺の様子薬師寺東塔
 東塔や薬師三尊像などを見学した。
 金堂は1976年に建て替えが完成し、西塔が1981年に、中門が1984年に、回廊が1991年に、大講堂が2003年にそれぞれ再建されたことなどもあり、境内は大きく様変わりしている。また東塔は2009年から全面解体修理に入った。

唐招提寺

 唐招提寺は奈良県奈良市五条町にある寺院。中国・唐出身の僧である鑑真が建立した。南大門は1960年に奈良時代の天平様式で再建された。
唐招提寺拝観券
 金堂、講堂、鼓楼などを見学した。
唐招提寺金堂唐招提寺鼓楼と礼堂
 講堂にあった仏像は、1970年に完成した新宝蔵に移された。また金堂は2000年から解体修理され2009年に再開した。

春日大社

 春日大社は奈良県奈良市春日野町にある神社。平城京の守護神とされ、藤原氏の氏神でもあった。
当時の春日大社春日大社の中門・御廊

奈良公園記念撮影ポイント

 高野悦子ら一行は、奈良県奈良市春日野町の奈良公園を見学中に記念写真を撮影している。撮影場所は春日大社境内に含まれる芝原地、飛火野付近とみられる。奈良公園は奈良市街の東に広がる自然公園で、1880年に荒廃していた興福寺旧境内に開設された後に範囲が広がり、植樹や整備が進んで現在に至っている。
奈良公園地図奈良公園記念撮影ポイント位置
 現在、奈良公園で修学旅行の記念写真撮影ポイントは東大寺大仏殿前の鏡池だけだが、地元の撮影業者によると、かつては飛火野も撮影ポイントになっていたという。この付近は奈良公園の代表的な風景とされる。
奈良公園記念撮影奈良公園での高野悦子の写真
 記念写真の下部には「奈良公園 1965」と表示されている。計56人が写っていて、高野悦子はコート姿で最前列の左側にいて、目の前に餌を食べるシカがいる。撮影にあたって前面にシカの群れが写り込むように餌がまかれていることがわかる。
 飛火野では、有料で予約すればラッパを吹いてシカを呼び集める「鹿寄せ」を見ることができる。観光客向けの「鹿せんべい」は当時10枚20円だった。
当時の奈良公園のシカ近づいてきたシカ
 奈良公園では1961年の第二室戸台風で「地域内の被害樹木の総本数は100,000本前後、そのうち平坦部で約2,000本」(奈良公園史編集委員会「災害と保護」『奈良公園史(自然編)』(奈良県、1982年)に達したと言われている。奈良公園のシカは1965年度には計943頭だったが、2019年には過去最多の1388頭まで増えている。
宇女高修学旅行奈良のスナップ

東大寺

 東大寺は奈良県奈良市雑司町の寺院で、752年に完成した大仏を本尊としている。南大門から大仏殿にかけては奈良市内観光の中心。現在の大仏殿は1709年に完成し、明治末期から大正初期にかけて解体修理がなされた。
東大寺大仏殿東大寺二月堂
 南大門から入り、大仏殿や二月堂などを見学した。
当時の東大寺大仏東大寺南大門
 大仏殿は1973年から昭和の大修理が行われ、全面的に屋根瓦がふき替えられた。
東大寺大仏殿拝観券
母が来た奈良へ

 このあと京都府宇治市の平等院を見学した。
宇女高同級生が写した平等院鳳凰堂
 2泊目は京都に泊まっている。
平等院

1965年11月20日(土)
 京都が一番よかった。
京都・滋賀

 3日目にあたる1965年11月11日(木)は京都交通(現・京阪京都交通)のバスで京都市内の寺社などを巡った。
高2修学旅行京都地図
 京都市内では清水寺、平安神宮、銀閣寺、京都大学(車窓から)、京都御所、二条城、龍安寺、広隆寺、西芳寺(苔寺)、嵐山を見学している。

清水寺

 清水寺は、京都市東山区清水一丁目にある寺院。1965年、奈良の法相宗から独立して、北法相宗の大本山となった。江戸時代初期に大火となったが、徳川家光の寄進で1631~33年に再建された。堂や塔は、ほとんどこの時期のものである。
清水寺本堂修理前清水寺本堂修理素屋根建設の状態
 有名な清水の舞台がある本堂は、1964年から1967年まで修理工事が行われていた。工事では1965年5月に仮設の素屋根が建設され、1965年10月から屋根の古い檜皮葺の取り外し作業に入っていた。本堂の修理は明治時代以降、7回目にあたった。
当時の清水寺清水寺本堂1986年
 「奠都のころの創建では、延暦17年(798)7月坂上田村麻呂の造立になる清水寺が、ひとり同24年10月に太政官符をもって寺地を賜わり、公認せられたくらいである。これは特別な例で、桓武朝における平安奠都とならぶ二大事績としての蝦夷平定の功を賞してのことであったろう」(林屋辰三郎「護国の寺」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。
 本堂は2017年から屋根や舞台の修理工事に入っている。

平安神宮記念撮影ポイント

 高野悦子らは平安神宮を見学中に記念写真を撮影している。撮影場所は京都市左京区岡崎西天王町で、平安神宮の応天門(表門)を入って正面の龍尾壇前である。
平安神宮付近地図平安神宮龍尾壇
 記念写真の下には「平安神宮 40.11.11」とある。高野悦子はコート姿で最前列中央にしゃがんでいる。バックには左から白虎楼、神苑入口、「右近の橘」、大極殿の一部などが写り込んでいる。
平安神宮記念撮影平安神宮での記念写真
 「右近の橘」は初代が平安神宮創建の1895年に植えられたが1961年の大寒波で枯れ、1961年5月に植え替えられた二代目になっていた。
平安神宮

銀閣寺

 銀閣寺は、京都市左京区銀閣寺町にある寺院の通称である。正しくは慈照寺という。室町時代後期の東山文化を象徴する代表的寺院である。
銀閣寺総門当時の銀閣寺
 「ここは今から約480年前(文明14年)将軍足利義政公が相阿弥に命じて造営された山荘の跡であります。当時は境内も広大で山腹には12棟の風雅な建物が点在し東山殿として豪壮なものでありましたが、現在では銀閣と東求堂の2棟が残存されております。
 この庭は相阿弥の作で配置されてある沢山な巌石は各地の大名よりその領地の名石を献納したものでこのように沢山な名石が蒐集されている庭園は他に類がないので有名であります。この庭を四方正面の庭と申しまして、廻遊式庭園の起りであります。池の名は錦鏡池と申します。
 中央の砂盛を銀沙灘と申します。形を支那の西湖になぞらえ砂上の筋は波の趣を現わしたもので、月がこの砂盛に反射して夜の庭を明かるくするために造られたものであります。富士形の砂盛を向月台と申しまして、義政公月見台の跡であります。
 左右の高い繁った山を月待山と申します。
  我が庵は月待山の麓にて かたぶく空の影をしぞ思ふ  義政」(「銀閣とその庭園」(銀閣寺、1967年))。
銀閣とその庭園慈照寺拝観券
 「義政は山荘に銀閣をつくり、東求堂を建てたが、その東求堂の居室に名づけた同仁斎の号のように、阿弥たちは一視同仁の雰囲気のなかで立派な仕事をなしとげた」(林屋辰三郎「茶と花」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。

銀閣寺スナップ写真ポイント

 高野悦子は銀閣寺を見学中にスナップ写真を撮っている。撮影場所は錦鏡池(きんきょうち)の南東側である。
銀閣寺境内図東求堂
 背景には東求堂(とうぐどう)が写っている。東求堂は銀閣寺の東北角にある建物で、足利義政の木像が置かれ、四畳半の部屋は後の茶室の模範になったとされている。1964年から1965年にかけて解体修理が行われたばかりだった。

銀閣寺スナップ写真銀閣寺でのスナップ写真

 バスのガイドさんが京大の校歌を歌いながら説明してくれた京大の建物。
京都大学

 京都大学は、京都市左京区吉田本町に本部がある国立大学。1897年、東京に次いで創立された京都帝国大学を前身とする。理学・法科・医科・文科などからなる総合大学として発展し、第二次世界大戦後に京都大学と改称された。京都市左京区一帯に広い敷地をもつ。
 「京都大学は、東京大学に対抗して学問の一中心となる地歩を、最初から負わされたのである。東京が政治の中心にあって、官吏養成の場となってしまったのに対して、京都では政治にとらわれない自由な天地にあって、真理を探究し学問を研鑽する学府をつくり出そうという意図があった」(林屋辰三郎「大学物語」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。
百万遍交差点
 バスが付近を通る際に車窓から見学した。
 京都大学学歌の歌詞1番は「九重に花ぞ匂へる 千年の京に在りて その土を朝踏みしめ その空を夕仰げば 青雲は極みはるかに われらのまなこをむかえ 照る日はひかり直さし われらのことばにうつる」。
学歌は1940年に制定された。
現在の付近の様子
京大に機動隊

京都御所

 京都御所は、京都市上京区中立売通烏丸東入ル京都御苑にある宮内庁の施設。東西250m・南北450mで高い築地塀に囲まれている。周囲を含めた公園、京都御苑の中にある。
京都御所空撮当時の京都御所
 「京都御所は、南北朝時代に光明院の里内裏が皇居と定っていらい、現在の場所にあったが、天明8年(1788)正月30日に起った大火によって、京都市内の大部分とともに焼失してしまった」「大火後、幕府は松平定信に命じて御所の造営にとりかかった。定信は有職の学に通じていたので、十分慎重に研究を重ね、王朝の旧規に近づくことを理想として設計かつ造営した。そして寛政2年(1790)11月に完成したのである」「この御所は、その後また一度火災を蒙ったが、維新の風雲を前にした安政3年(1856)に、寛政の時のままに再造営されたのである」(林屋辰三郎「御所のともしび」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。皇太子関係の儀式を主な目的とする建物である小御所は1954年に鴨川の打ち上げ花火によって焼失し、1958年に再建された。
 京都御所の参観は、春秋の特別拝観のほかは事前申し込みが必要だったが、2016年7月から一年を通して申し込み手続き不要の「通年公開」となっている。
 「二十歳の原点」に登場する「御所」は京都御苑のことである。
☞二十歳の原点1969年5月5日「御所で一服」
☞二十歳の原点1969年5月17日「御所で十一時ごろまで話す」
☞二十歳の原点1969年6月2日「御所で二回あい」
京都御苑(御所)
二条城

 私達は竜安寺を四十分間で見学した。
 おかげで、みんながまわった池の回りは歩けなくて、バスの所まですごいスピードでかけてこなくてはならなかったが、
龍安寺

 龍安寺は、京都市右京区龍安寺御陵ノ下町にある寺院。 石庭で有名。寺の前を通る京都市道183号は1963年に開通し、付近では「観光道路」と呼ばれていた。
龍安寺空撮龍安寺山門
 「衣笠山を初め諸山を背景にして、南遥か淀川の彼方、男山を望む闊達幽邃な12万坪の境域。
 宝徳2年(西紀1450)義天和尚が、平安朝以来の徳大寺家山荘跡を、細川勝元により開創したものである。
 方丈前庭は、15箇の石が、東から五二三二三の五団となって、或は中国の五獄(禅の五山)を現し、又「虎の子渡」の名を遺し、或は白砂を以て水の流れを表現、油土塀と共に、その配置の絶妙は永遠の美を象徴している。
 方丈裏の内庭(秀吉公佗助椿や龍安寺垣)や僖首座好の茶室蔵六庵、其前の「吾れ唯足ることを知る」の蹲は光圀公寄進によるものである。帰路の鏡容池(おしどり池)は文治5年(1189)徳大寺実定の作、池堤や弁天島等に往古の姿を止め、鴛鴦の名所として近世まで有名であった。国宝太平記外名宝は10月虫干特別展観」(「大雲山龍安寺」(龍安寺、1967年))。
大雲山龍安寺龍安寺拝観券
 「静かに座って石庭と問答して下さい。作者の思想はたゞ石と砂だけを以って禅の悟りの道を表現して吾々に無限の教えを声もなく語っています。大海原に点在して馥郁たる香りの平和な島々が一連の雲峰を想わせ、正面の油土塀とよく調和して宇宙天地の「大我」の静かで清く美しい真心に打たれ世の汚れた心を清められ石庭に接する前の吾々は仏性を得て心から洗い清められた喜びに浴する禅の極地をそのまゝ表現しております。作者(相阿弥)は肉眼で見ようとする多くの人々を相手にせずして、心眼の人と永遠に語ろうとする。正に天下無比の名庭であってむしろ「無庭」「空庭」と名づくべき庭であります。禅では一木一草ことごとく神であり仏の姿でありますが、この庭は余す所なく禅の真髄を教えて居ります。この庭が永遠に清い宗教であり、清い詩であり、清い絵画であり、清い音楽である所以です」(「特別史跡名勝「石庭」について」(龍安寺、1967年))。

石庭への石段石庭の縁側
 高野悦子がバス駐車場から歩道を通って山門から入り、石段を上って、石庭を見る縁側がある「方丈」に向かうまでの往路は団体の通常コースになる。
龍安寺石庭
 石庭を見学した後、「方丈」を出て鏡容池を巡る順路には向かわず、逆方向の往路と同じ石段を下って戻る道を通ったということになる。

寺院の順路バス駐車場への歩道

広隆寺

 広隆寺は、京都市右京区太秦蜂岡町にある寺院。俗に太秦の太子堂とも言う。「国宝第1号」の木像弥勒菩薩半跏像が有名。
広隆寺境内広隆寺旧霊宝殿
 「推古天皇11年(西紀603)聖徳太子がこの地に臨まれ、泰河勝公に仏像(弥勒菩薩半跏像)を賜って創建せしめられた京都最古の寺で蜂岡寺または泰公寺とも呼ばれた。
 弘仁9年(西紀818)に大火に遭ひ堂塔悉く失はれたが道昌上人によって再興され、更に久安6年に炎上し、その后永萬元年(西紀1165)に至って藤原信頼勅を受けて再建された。
 霊宝殿には飛鳥時代の国宝第1号弥勒菩薩半跏思惟像を始め、天平、弘仁、貞観、藤原、鎌倉と各時代の国宝が安置されている。
 講堂(重要文化財)藤原時代の建物で俗に赤堂とも呼ばれている。堂内に安置の5軀の仏像は何れも屈指の優作である、本尊国宝阿弥陀如来像(弘仁時代)、国宝不空羅索観音立像(天平時代)国宝十一面千手観世音像(弘仁時代)外重文2軀
 桂宮院本堂(国宝)鎌倉時代建長3年に中観上人によって大改修は施されているがなお当初の面影を留めて、夢殿形式の典型というべき清雅な建築美を誇っている。堂内の厨子(国宝)に本尊聖徳太子十六才孝養像が安置されている」(「広隆寺略記」(広隆寺、1967年))。

広隆寺略記広隆寺拝観券
 高野悦子ら一行は1922年建設の旧霊宝殿で弥勒菩薩半跏像を見学した。1982年に現在の霊宝殿が建設され、旧霊宝殿は非公開になっている。
弥勒菩薩像拝観案内広隆寺弥勒菩薩
 「推古天皇11年(603)当時の首長であった秦河勝により、聖徳太子の御願として造立された広隆寺(旧名蜂岡寺)は、その後にもうけつがれた秦氏の繁栄とその財力を、いかんなく示すものであった」
 「広隆寺の寺地は、いまや門前を嵐山電車がはしり、右京区の中心として警察・消防署などが左右から迫ってきて、まったく俗塵にまみれた感じである。しかしお太子さんの親しみは、ちょうど大阪における四天王寺のように生きつづけている。もとよりそれだけでは寺勢を維持するに役立たなくなったが、戦後に「国宝第一号」となった弥勒菩薩の半跏思惟像は、いまや寺院財政をになう立役者である」(林屋辰三郎「お太子さん」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。

 苔寺の回遊式庭園の道をゆっくり進んでいくと、何か安心したような、落ち着いたような気持がした。
西芳寺(苔寺)

 西芳寺は、京都市右京区(現・西京区)松尾神ケ谷町にある寺院である。「苔寺」として有名。
西芳寺総門西芳寺の当時の拝観順路
 「当山は初め聖徳太子が御創業になり、行基菩薩によって開山されたお寺でありますが、今から620年前夢窓国師が中興し、林泉も大修復して全くの鎌倉式庭園であります。庭は上下二段構であり、上段は枯山水式、下段は廻遊式庭園であり、中央の池は心字形になり池の南岸には夢窓国師が建立された湘南亭(国宝)があります。
 庭中一面の苔は120種余り、苔の最も美しい時期は5、6月頃であります」(「苔寺庭園案内図」(臨済宗西芳寺、1967年))。

苔寺庭園案内図
 高野悦子ら一行は、西芳寺川にかかる大歇橋を渡って総門から入り、表門(現・中門)をくぐり右側に白壁が続く道を通って当時の庭園入口から入った。下段の黄金池を中心とする苔の多い回遊式庭園を進み、上段へ上って枯山水の石組みなどを見た後、出口から出るコースで見学した。このうち庭園入口以降は、現在の拝観順路と同じである。
秋の西芳寺苔寺西芳寺苔寺庭園
 現在の本堂(西来堂)は1969年に完成し、それまで本堂だった建物は観音堂になっている。また総門は利用されず、かつての出口が衆妙門として寺院の入口になっている。
 観光客の急増によって周辺に環境問題が発生したとして、1977年から一般の拝観が中止され、往復はがきによる事前申し込みが必要になった。

嵐山記念撮影ポイント

 高野悦子ら宇都宮女子高校の一行は、京都市内の見学を締めくくる形で景勝地・嵐山で記念撮影をしている。
嵐山付近地図渡月橋から見た桂川左岸
 撮影場所は京都市右京区嵯峨天龍寺造路町の桂川左岸堤防である。
当時の嵐山
 記念写真の下には「嵐山 40.11.11」とある。高野悦子はコート姿で左下の中列に立っている。バックには桂川と渡月橋が写っている。

嵐山記念撮影嵐山での記念写真
渡月橋

 残念だったこと─歌声喫茶に行かなかったこと。
 歌声喫茶とは、ピアノやアコーディオンの伴奏の中、店内の客が歌集などを見ながら合唱する喫茶店である。ここでは「うたごえホール 炎」とみられる。
うたごえホール 炎

 「うたごえホール 炎(ほのお)」は、京都市下京区四条通河原町西入ル御旅町にあった歌声喫茶である。当時の京都を代表する歌声喫茶だった。
歌声ホール炎地図うたごえホール炎跡
 1975年に閉店した。建物は現存せず、現在はビジネスホテルなどになっている。

 楽しかったこと─京都での最後の宿「加茂川荘」で、
加茂川荘

 加茂川荘は、京都市東山区繩手通若松下ル新五軒町にあった旅館。
加茂川荘地図加茂川荘外観
 京都市東山区三条通繩手東入ル大橋町にあった旅館加茂川本館の別館という扱いで、特に修学旅行や団体客の宿泊が多かった。西側に琵琶湖疎水(鴨川運河)が流れ、それにかかる京阪・三条駅のホームの一部があった。
加茂川荘客室加茂川荘外観大広間
 建物は現存せず、現在はテナントビルになっている。
加茂川荘浴場加茂川荘跡
 西側は川端通となり、琵琶湖疎水(鴨川運河)は暗きょ化、京阪本線は地下化した。
宇女高修学旅行京都のスナップ

 4日目にあたる1965年11月12日(金)は京都交通(現・京阪京都交通)のバスで滋賀・延暦寺などを巡った。
比叡山ドライブウェイ

 比叡山ドライブウェイは滋賀県大津市山上町の田ノ谷峠から延暦寺東塔および比叡山頂までを結ぶ有料道路で、1958年4月に開通した。全長8.1㎞。
比叡山ドライブウェイ
 終点から直結する奥比叡ドライブウェイが開通するのは1966年5月になる。

延暦寺記念撮影ポイント

 一行は訪れた滋賀県大津市坂本本町の延暦寺で修学旅行最後の記念撮影をしている。
旅館延暦寺名神高速地図延暦寺拝観入口
 撮影場所は延暦寺・東塔エリアで大黒堂の横にある「比叡」と書かれた石碑の前である。

延暦寺東塔エリア案内図延暦寺大黒堂前
 この石碑は時代劇スターで水戸黄門役を演じた俳優・月形龍之介(1902-1970)が中心となって1955年に建立されたものである。
延暦寺記念撮影ポイント延暦寺でポーズした写真
 記念写真の下部には「比叡山 40.11.12」と印字されている。同級生と引率教諭ら計58人が写っていて、高野悦子はコート姿で2列目の右端にいて左手で髪を押さえている。バスガイドは前日と同じ女性で、同じ6号車の旗を持っている。
延暦寺根本中堂
 「王城の守護として東寺といつも並称される比叡山延暦寺も、その起こりは延暦7年(788)、最澄がいわゆる根本中堂すなわち一乗止観院を建てたのにはじまったが、久しく公認せられずに比叡山寺という練行道場にすぎなかった。桓武天皇の御悩平癒を祈ったのが縁で、天台開宗を認められたが、延暦の寺号を許されたのは、弘仁13年(822)最澄の歿した翌年であった」(林屋辰三郎「護国の寺」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。

 京都への帰路で名神高速道路下り線を通行している。
名神高速道路

 名神高速道路は、日本で初めての都市間を結ぶ高速道路として1963年7月に栗東インターチェンジ・尼崎インターチェンジ間が開通し、1965年7月に全線が開通したばかりだった。
名神高速道路から見た琵琶湖と滋賀県庁

 帰りは京都駅から新幹線に乗車した。
新幹線の時間待ち京都駅から東京経て宇都宮駅
 国鉄(現・JR東海)・京都駅-(東海道新幹線)-東京-(東北本線)-国鉄(現・JR東日本)・宇都宮駅
宇女高修学旅行最終日のスナップ
☞二十歳の原点1969年1月7日「京都駅につき、しみじみと懐かしさを感じた」

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