「パゾリーニが“私にとって映画の役割は真実と人間を発見することだ”と語っている記事を読んだことがあるが、人間キリストの発見に、「奇跡の丘」の素晴らしい創造があったといえる」(大黒東洋士「パゾリーニの偉大さと「アポロンの地獄」の感動」『アポロンの地獄』パンフレット(東宝、1969年))。
☞1969年3月26日「パゾリーニは徹底したリアリズムで人間の存在を映画で描いた」
☞アポロンの地獄
「これまでの社会のすべての歴史は階級闘争の歴史である」(マルクス、エンゲルス「ブルジョワとプロレタリア」『共産党宣言第1章』(1848年))。
日記の記述は「人生は演技なんだったんだっけ。」。
☞1969年3月26日「バイト先では常に演技者であります」
下宿から大沢池までは渡月橋を経由して約3.7㎞、大沢池から広沢池までは約1.1㎞ある。
大沢池は、京都市右京区嵯峨大沢町の大覚寺にある池(上記地図参照)。
「大沢の池を庭湖と言うのは、嵯峨天皇が嵯峨離宮を造営された際、中国の洞庭湖を模して造られたのでこれを庭湖とよぶようになった。
日本で庭池を造られたのはこれが最初であり、日本最古の庭園である。池中には天神島、菊ケ島、と庭湖石の配置があり、この配置様式を基調として嵯峨流水盤の原形となっている。
日本いけばなはこの庭湖より始まったもので日本花道発祥の地である」(「大沢の池(庭湖)」『大覚寺』パンフレット(大覚寺、1967年))。
現在も当時とあまり変わっていない。周辺は京都らしい風景を維持しており、映画やテレビドラマの撮影によく使われることで知られる。
大覚寺は「貞観18年(876)恒寂法親王を開基として寺に改められてから、御室と同様に、皇室とゆかりふかい門跡寺院となった。鎌倉時代の末には、その名も大覚寺統とよばれた歴代の御所となり、ここで南北両朝の講和も行われたというゆかりをもっている。寺のかたわらには、広沢池と並んで有名な大沢池が、嵯峨院の苑池をそのままに、古い面影をとどめている」(林屋辰三郎「御室から嵯峨へ」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。
池の西南にある「(名勝)大沢池附名古曽滝趾」の碑は1924年に建立された。
当時、大覚寺は拝観料100円だったが、大沢池だけを見たり散策するのは自由だった。現在は池の周囲にフェンスがあって立ち入ることはできず、大沢池を見るには文化財維持協力金として入場料を支払う必要がある。
「よく散歩をしました。フラリと自転車で出かけますが、いつも大覚寺の大沢の池でした。よほどあの池が好きだったのでしょう」(「手紙(高野家宛)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年))。
「好んでサイクリングに行った嵯峨野のたたずまい、大覚寺、大沢の池では暮れるのも忘れて思い出にひたってまいりました」(高野三郎「あとがき」高野悦子『二十歳の原点ノート』(新潮社、1976年))。
☞千代の古道(大沢池から広沢池へ行く道)
広沢池は、京都市右京区嵯峨広沢町にある周囲約1.3㎞、面積約14万㎡の池(上記地図参照)。
広沢池は日本三沢の一つといわれ、音戸山の南麓にあるかんがい用のため池である。平安時代中期(989年)に、宇多天皇の孫にあたる僧・寛朝が北西の朝原山に遍照寺を建立した時に池の南側をせき止めて造られた池と伝えられ、遍照寺池とも言われている。一方、8世紀に嵯峨野を開拓した秦氏が原始的なため池を造ったのが始まりとの説もあり、詳細は定かではない。
現在も当時とあまり変わっていない。池の北から西にかけて電柱や看板がなく、時代劇の撮影に使われることで知られる。
「広沢池までくると、愛宕山の秀峰がいっそう近づき、嵯峨野の気配がつよく感ぜられてくる。池の水面に影をやどす山を遍照寺山というが、このあたりは御室の主であった宇多天皇の孫、寛朝僧正が遍照寺という寺を建てたところで、この池もそのほかに洞庭西湖に模してきずかれたものという。たしかに王朝の林泉としての風格がある」(林屋辰三郎「御室から嵯峨へ」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。
現在付近で東西の主要道となっている丸太町通(いわゆる新丸太町通)は、1969年当時はまだ延伸が完成していない。
京都:晴・最低8.4℃最高23.9℃。雲が少なく午後には南風も吹いて気温が上がった。
京都:雨・最低12.9℃最高17.3℃。
パーマ屋は美容院のこと。当時はパーマ屋と呼ぶことが多かった。
☞1969年3月31日「このショートカットの頭ボサボサの」
1969年度の賃金交渉をめぐる春闘で京都国際ホテル労働組合は3月10日(月)、賃上げ1万円、住宅手当一律2,000円の要求を会社側に提示した。これに対して会社側は3月27日(木)、第一次回答としてベースアップ4,664円を出したが、組合側は拒否。このため団体交渉で会社側は次回上積みの交渉を4月15日(火)にしたいと表明したものの、決裂に終わった。
☞1969年4月18日「会社側回答五〇〇〇余円である」
鈴木は、京都国際ホテルの社員(メイン・ダイニング担当)。職制の「主任」は管理職で、メイン・ダイニングでは現場責任者にあたる。京都国際ホテルでは労働組合がオープンショップ制で、一番下位の管理職である主任には組合員と非組合員の両方いたが、鈴木は非組合員だった。
鈴木は高野悦子の7歳年上の27歳くらいだったとされる。当時の関係者は「小柄のやせ型な感じ。ひょうきんな人柄で、嫌味のない印象だった」と語る。
☞1969年4月4日「鈴木は自分が独りであることを知っている」
☞1969年4月9日「鈴木は十年勤務の社員」
☞二十歳の原点序章1967年6月16日「ヘッセの詩を想いだした」
高野悦子は普段、バイト先からの帰宅ルートとして、京都国際ホテル─油小路通・堀川通(徒歩)─四条堀川─四条通(徒歩)─阪急・大宮駅─(阪急京都本線)─桂─(阪急嵐山線)─松尾駅(現・松尾大社駅)─(徒歩)─下宿を使っていたとみられる。
四条大宮から阪急・松尾駅(現・松尾大社駅)前まで、道路だと四条通の一本になる。なお当時は、四条大宮と松尾橋の間に京都市交通局のトロリーバスが走っていた。
阪急・大宮駅のビル(大宮阪急ビル)の雰囲気は、当時とあまり変わっていない。
☞1969年4月18日「昨日、四条大宮からホテルまで牧野と歩きながら」
ランボー(1854-1891)は、19世紀のフランスの詩人で、翻訳書は多数ある。ただ、この記述は雑誌『新視角』所収の以下の論稿を参考にしたと考えられる。
「自らを〝言葉の錬金術師〟と称したランボウは、恩師であり精神の友であったジョルジュ・イザンバール宛の手紙の中で、「…吾れ思うなんていうのはおかしい。人吾れ思うというべきでしょう。わたしというのは一人の他人です」と記している。ランボウにおけるこの≪一人の他人≫とは、自己の懐にありながらもなお≪脱─自≫をめざす自己否定性をそなえた意識であろう」(酒井良雄「告発を超えるもの」『新視角第2号』(新視角ライターズ、1969年))。
☞1969年3月25日「新視角」
日記の記述。以下、「私は臆病者であり…」に続いていく。
29日午後10時ごろから雨足が強くなり、夜半過ぎには毎時6mmを超える強い雨となった。
“Please Don't Go Away”は、Malcolm Roberts(英、1944-2003)が歌うポピュラー(1969年)。
ショパン「12の練習曲作品10第3番ホ長調《別れの曲》」の旋律に歌詞を付けた曲である。
日記の記述。以下、「幻想を描ききれ」に続いていく。
「黒いオルフェの唄」とは、マルセル・カミュ監督の映画『黒いオルフェ』(仏・伯・伊、1959年)の主題歌であるルイス・ボンファ作曲の「カーニバルの朝」である。ブラジル生まれのボサノバが世界的な注目を集めるきっかけになった曲として知られる。
「太陽がいっぱい」は、アラン・ドロン主演の映画『太陽がいっぱい』(仏・伊、1960年)でニーノ・ロータ作曲の主題曲に歌詞を付けたシャンソン。なお、映画『太陽がいっぱい』は、TBS=東京放送(現・TBSテレビ)『金曜ロードショー』第1回の目玉として、京都では当時TBS系列の朝日テレビ(現・ABCテレビ)=朝日放送で1969年4月4日(金)午後7時30分から放送が予定されていた。
「愛の讃歌」は、エディット・ピアフ(仏、1915-1963)が歌うシャンソン(1950年)。シャンソンを代表する曲の一つである。日本では越路吹雪(1924-1980)による歌が有名。
山本太郎(1925-1988)は、現代詩の詩人。
☞1969年4月16日「「かるちえ・じゃぽね」を読み」
☞1969年3月27日「「すべては階級闘争である」然り」
「パゾリーニが、新聞や雑誌記者に語ったところによると、この映画は彼の自伝でもあるといい、彼自身のもつエディポス・コンプレックスを克服した上で作ったと告白しています」(田中純一郎「マザー・コンプレックスとアポロンの地獄」『アポロンの地獄』パンフレット(東宝、1969年))。
☞アポロンの地獄
☞1969年3月27日「「真実と人間」かもしれない」