京都:晴・最低8.1℃最高21.3℃。快晴。暦では11月5日(火)夜が満月にあたる。
立命館大学衣笠キャンパスから阪急・西院駅まで主に西大路通を歩いた。約3.7㎞。厳密には、いつもなら市電を利用していた京都市電・衣笠校前─西大路四条停留場の区間について、この日は徒歩にしたことになる。運賃節約のためである。阪急については通学定期券(松尾駅(現・松尾大社駅)─河原町駅(現・京都河原町駅))の区間内にあたる。
☞1968年5月29日「衣笠からの電車の混みようと、値上げ」
阪急・西院駅は京都市右京区西院高山寺町にある京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の駅。改札口(現・西改札口)は地上にあり、ホームが地下にあった。駅ビル2階にはスーパーの阪急共栄ストアー(現・阪急オアシス)西院店が入っていた。
駅周辺整備で2017年に北改札口・南改札口ができたほか、2017年から始まった駅ビル建て替え工事により、2019年に西改札口が地下1階に移設された。
「だが、あすのヨーロッパを知るためには、ちょっと考えてみさえしたらすぐわかる。経済的には、あらゆる国家は疲弊し、いたるところに、社会生活の不均衡が見られることだろう」(デュ・ガール著山内義雄訳「アントワーヌの日記」『チボー家の人々第五巻』新版世界文学全集33(新潮社、1960年))。
アルバイトに行くのに京都市電を往復で利用している。京都市電の運賃は1968年7月1日から普通乗車券25円に値上げされていた。
京都:晴・最低7.9℃最高20.9℃。
河北印刷は京都市南区唐橋門脇町にある印刷会社。書籍に加えて手帳製作を手がけ、特にオーダーメイドのビジネス手帳に強い。本社に工場があり、印刷から配送まで社内一貫生産をしている。構内南西の新工場は1993年に完成した。
アルバイトの勤務時間は午前9時から午後5時まで8時間、昼休みが正午から午後0時45分まで45分間あった。時給130円、交通費一日50円だったとされる。
1968年11月11日「ランチ」の記述は誤りで、時給のことである。
アルバイト先へのルートは、下宿(原田方)…松尾駅(現・松尾大社駅)-(阪急嵐山線)-桂-(阪急京都本線)-西院駅…西大路四条停留場-(京都市電西大路線)-西大路駅前停留場…河北印刷。
西大路駅前停留場には西大路通に架かる歩道橋があった。現在はJR東海道新幹線の高架橋沿いにある。京都市電西大路線は1978年に廃止された。
住友銀行は都市銀行で、今の三井住友銀行の前身の一つ。住友銀行のビジネス手帳は黄土色のカバー、金の小口、鉛筆付きで高級感があり、人気があった。
銀行のビジネス手帳は行内用のほか、年末の顧客・取引先へのあいさつ回りなどで手土産代わりに配る。そのため手帳メーカー側で1冊ずつ銀行名の封筒に入れた形で納品する。
京都:曇時々雨・最高18.3℃最低10.0℃。午後から雨模様。
同志社大学工学部(現・理工学部)は京都市上京区今出川通烏丸東入ルの同志社大学本部キャンパス(現・今出川キャンパス)にあった。1994年に京都府田辺町(現・京田辺市)の田辺キャンパス(現・京田辺キャンパス)に移転し、2008年から理工学部に改組された。
同志社大学は当時、反共産党系の社学同(社会主義学生同盟)の拠点となっていた。社学同は学生組織だが、上部団体である共産主義者同盟の通称と同じ「ブント」で呼ばれることが多かった。
自主独立路線は、日本共産党が1966年に中国共産党と事実上の関係断絶をした後の政策で、日本における社会主義革命を外国の共産党の影響を受けずに行うというものである。当時はとりわけソ連共産党、中国共産党の両方に距離を置く姿勢を意味した。
帰りの電車は、京都市電西大路線の西大路駅前─西大路四条停留場間とみられる。
「土曜の晩」という表現は、11月12日(火)朝に11月10日(日)・11日(月)の出来事を振り返って書いたためとみられる。
☞原田方
おいちょかぶは、株札を用いて行うゲームでトランプでも代用できる。「ブリッジ」はセブンブリッジのことで、麻雀に似たトランプゲームである。
『二十歳の原点序章』には「午後」とあるが、午前中とみられる。
☞大沢池 広沢池
大沢池南側の京都市右京区嵯峨大沢柳井手町から東南東方向に北嵯峨八丈町、嵯峨大沢落久保町の町界付近を通り、広沢池南西側の嵯峨釣殿町に至る道を指している。
この道は「千代の古道」(ちよのふるみち)の一部とされている。
「千代の古道」は古くから京の市中と離宮嵯峨院(現・大覚寺)を結んでいた道と言われ、古来、和歌に多く詠まれた。
大沢池の南を流れる有栖川に架かる橋を渡る(①)。有栖川から東・北側は市街化調整区域として開発が抑えられるとともに、風致地区第1種地域、京都市歴史的風土特別保存地区に指定され景観が保護されている。
1960年代当時も嵯峨野の良さを残した道と言われていた。現在も住宅が少ない田園風景が広がっている。水田だった一帯は野菜畑も多くなった。
途中にある「千代の古道」の石碑は1980年に建てられたもので、加藤千蔭(1735-1808)の歌「君が代の千代の古道ふりはへて 引くや子の日の嵯峨の山松 千蔭」が刻まれている(⑤)。道は兒神社西の一条通(京都府道29号宇多野嵐山樫原線(現・宇多野嵐山山田線))まで続く(⑥)。
☞辻倉
授業料等の納入金は年間65,400円である。立命館大学の授業料は1964年度から据え置かれていた。支出には原田方の下宿代(賄い込み)が月12,000円含まれている。
参考として1968年の男子大学新卒初任給は平均月額30,600円(『昭和43年賃金構造基本統計調査報告別巻』13頁(労働大臣官房労働統計調査部、1969年)参考)。同じ統計によれば2019年は男女計210,200円となっている。
☞1966年12月26日「費用」
☞1968年10月30日「PRスキー実行委員としての責任を果たす中で、」
1968年11月20日(水)に映画『質屋』と『異邦人』を鑑賞している。
☞質屋 異邦人
京都:晴・最低9.6℃最高20.9℃。
日高六郎編『1960年5月19日』岩波新書(岩波書店、1960年)。当時130円。
いわゆる60年安保における日米安全保障条約(安保条約)の改定をめぐる衆議院での強行採決とそれに反対する運動、海外の動きをドキュメントでまとめたものである。執筆は編者で東京大学新聞科学研究所教授の日高六郎(1917-2018)のほか、藤田省三(1927-2003)、荒瀬豊(1930-)、石田雄(1923-2021)、鶴見良行(1926-1994)、鶴見俊輔(1922-2015)が分担した。
帯では「5月19日の新安保条約強行採決を契機として、自発的な民衆が、日本の地平線に姿をあらわした。彼らの大衆行動は、国内のみならず、世界政治にも大きな影響を与えた。平和と民主主義を求めるこの大衆運動を、記録として総括し、その意味をくみとつていくことに、今後のすべての運動の、また日本社会の進路がかけられている」と紹介されている。
「1960年5月19日は、日本の大衆運動の歴史のなかで、象徴的な意味をもつ日付となった。戦前戦後を通じて最大の規模となった国民運動は、この日を契機に展開された」(日高六郎「あとがき」『1960年5月19日』岩波新書(岩波書店、1960年)))。
学習会の初回は11月28日(木)に行った。
☞二十歳の原点1969年2月6日「酔いながら牧野さんのところへいく」
☞行って失敗された・永井さん「遺影に供えたユリの花束」
「チコ」は京都市上京区今出川通河原町西入ル一筋目上ル三芳町にあった喫茶店である。ワンゲル部の同学年男子らと3人で入り、旧人合宿参加を取りやめたことに関する思いを語ったとされる。
建物は現存せず、現在は歯科診療所になっている。
史料講読Ⅰは、日本史学科の専攻科目で特殊研究部門の必修科目である。2年生が受講し4単位になる。
☞二十歳の原点1969年2月8日「岩井先生にテレして試験がどうなるのかきいてみよう」
☞二十歳の原点1969年6月1日「岩井の学問とやらをコテンパンにやっつけて」
☞夏合宿
旧人合宿は、ワンゲル部のイベントの一つで、春期休暇中に行う合宿である。「新人合宿」と対比のワンゲル部の用語で、新人だった1年生らも「旧人」して役割を担うことになる。積雪の時期にもあたることから、各パーティーも山行とは限らない。
この時にワンゲル部員だった1年生の男子は、高野悦子が昭和「44年度のワンゲルリーダー会長選挙のとき一人の候補者に質問した。「ナゼ、イッショウケンメイ ワンゲル ヤッテルンデスカ?」 同じような言葉をあと1回聞いている。ワンゲルではパーワン・合宿に行きたい会員はメンバー募集期間に名前を書いて申込むことになっている。43年最後の旧人合宿が計画されパーティが10ちかくできたが、俺はその時どこえ行くか決めていなかった。友の一人がためらっている自分をみて俺の名前を書いてしまった。
自分が行くつもりだったから何とも思わずにいたら、丁度そばにいた彼女が「ナゼ書カヘンノ!自分デ書キ!」。短い言葉だった。何んのために生きるのか、何んのためにワンゲルをやっているのか?。俺は答えることなく、答える努力をせずにこの告発に対し忘却という名で捨て去ってしまってよいのであろうか」(「手紙(立命大生。高野家宛)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年))と1970年に残した。
飛鳥pwは、奈良県明日香村を中心とした地域を巡るパーティーワンデリング。なお高松塚古墳で極彩色壁画が発見されたのは後の1972年になってである。
☞1968年10月30日「私はPRスキー、スキー合宿、旧人合宿と、春休み中に三つの行事が重なる」
☞パーワン(パーティーワンデリング)
☞テレをしてきて待ち合せた・井上君「なぜそこまで頑張るの」
☞1968年12月16日「山小屋コンパの翌朝の、あの感情」
阪急・桂駅は京都市右京区(現・西京区)川島北裏町にある京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)京都本線と嵐山線の駅である。
桂駅では京都本線のホームが東西に、その間に嵐山線のホームが配置されていた。東から(丸数字は号線を表す)、
①:京都本線 河原町方面(車庫からの列車)
②③:京都本線 河原町方面
④⑤:嵐山線 嵐山方面
⑥⑦:京都本線 梅田・天神橋方面だった。
現在は、嵐山線のホームは東側に移っている。
ⓒ:京都本線 京都河原町方面(早朝の始発列車)
①:嵐山線 嵐山方面
②③:京都本線 京都河原町方面
④⑤:京都本線 大阪梅田方面になっている。
当時の嵐山線ホームは、現在の④⑤:京都本線 大阪梅田方面ホームの南寄り部分にあたる。このホームは北側に延ばされたためである。
☞1968年12月10日「桂駅で、名古屋から帰って来た牧野さんとバッタリ会う」
地上駅で地下通路の東西に改札口があったが、1985年に橋上駅になって大きく変わった。
当時の桂駅西改札口から地上に出た西出口は、現在の西出口側駅ビル・ミュー阪急桂ウエストの下を通る引き込み線付近に存在した。
当時の桂駅は臨時列車を除いて急行(京都本線のみ)と普通が停車した。嵐山線の桂発嵐山行最終電車は午後11時25分発だったため、高野悦子が京都本線で桂駅に到着したのはそれ以降である。
一方、ルートにもよるが歩行距離は全体で3.5㎞前後あり、約45分かかったとみられる。そして下宿には30日(土)午前0時30分に到着している。
午後11時30分ごろから45分ごろまでの間に桂駅から歩き始めたことがわかる。
京都:晴・最低1.0℃最高13.9℃、深夜12時(30日午前0時)は気温4.5℃、北東の風1.5m。月の位置は西南西、高度24.4度、月齢8.79(上弦)。
上桂近くの交差点は、京都市右京区(現・西京区)松尾木ノ曽町ほかにある嵯峨街道(京都府道29号)の樫原別れ(現・山田口交差点)である。阪急・上桂駅改札口(現・東改札口)から西約260mにある。
この交差点を30日午前0時10分ごろに通過したとみられる。
「見慣れた道」は、京都市右京区(現・西京区)松尾大利町ほかにある山田別れ(現・山田岐れ交差点)から北の嵯峨街道(旧道)とみられる。樫原別れから山田別れまでは約250m。
嵯峨街道は当時、樫原別れから西進して山田別れから北上するルートになっていて、路線バスも経由し、山田別れから北は商店も多かった。後に山田口交差点から北上して阪急嵐山線の西側に沿って北上して京都市右京区(現・西京区)松室北河原町に至るバイパス(新道)が完成し、現在は新道を路線バスが通っている。
高野悦子は山田別れから嵯峨街道を北に歩き、京都市右京区(現・西京区)松尾井戸町ほかにある苔寺口(現・松尾交差点)、そして松室北川原町を経て原田方の下宿に着いた。
☞原田方
ワンゲル部全体でのコンパである。
高野悦子の様子について、コンパに参加した井上は「あれは2回生後期の全回生コンパのときだった。43・11・29の。旧人合宿参加名簿にサインをしておきながら突然やめると言いだした。彼女は合宿を止めることによって、パーワンを止めることによってワンゲルを、自分自身をみつめようとしたのだ…」(「手紙(立命大生。高野家宛)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年))と記録していた。
日記の記述。読んだのは『中央公論昭和43年12月号』(中央公論、1968年)である。特集は「この1968年とはいかなる年であったのか」。
チェコ事件について「モスクワ・ワルシャワ・プラハ」(菊地昌典)、「チェコ問題と「主権」」(神山茂夫)の2つの論稿と「チェコ問題の思想的意味」(菊地昌典・木戸蓊)と題した対談を、また1968年10月21日「国際反戦デー」の動きについてグラビアの「新宿10・21」(栗原達夫・久保元機)に加えて、「ドキュメント構成…新宿・10月21日」(編集部)を掲載している。
「10・21国際反戦統一行動のうち、東京・新宿駅を中心とするデモンストレーション等の行動について、当局は「騒乱罪」を適用した。この日の学生・労働者・小市民たちの全体としての行動は、はたしてどうであったのか。また、とくに学生と〝群衆〟たちは、何を求め、何を訴えたのか。
すくなくとも、「新宿の10・21」についてはそれに先だつ10月8日の「羽田闘争1周年・山崎博昭君追悼10・8集会」から見ていく必要がある。「10・8」は、まさに「10・21」のひな型であり、しかも両者は、ある点でまったく質的な相違を示していたのであった。
「新宿事件」の真相はやがて明らかとなるだろう。この記録はその第一歩だ」(「ドキュメント構成…新宿・10月21日」『中央公論昭和43年12月号』(中央公論、1968年))。